桜散る

柚里香ゆりか、にいちゃんの手は絶対離すんじゃないぞ」
 物心つく前から、おにいちゃんは私にそう言い聞かせて、どこに行くにも手をつないでいた。両親が一緒にいるときもそれは同じで、「本当に過保護だなあ」なんておとうさんは笑って、「でも、おかげで安心だわ」とおかあさんも微笑んでいた。
 私は本当は、手につないでいるあいだのおにいちゃんの手汗が苦手だったけど、そんなことは言えなかった。
 小学校に上がる前、ひとりで公園に遊びにいったことがある。おにいちゃんは小学校に行っているから、ちょっと自由を味わいたくて、そっと家を出た。
 でも、公園で遊ぶ同い年の子たちは、私を仲間に入れてくれなかった。私と遊ぼうとしても、おにいちゃんに邪慳に追いはらわれた子ばかりだったのだ。私は落ちこんで、何でおにいちゃんは友達も作らせてくれないんだろうと思った。
 遊具にも近づけず、ベンチにぽつんと座っていたとき、「おかあさんは一緒じゃないのかな?」とふと声をかけてきたおじさんがいた。私が顔をあげて「うん」と言うと、「みんなとは遊ばないのかい?」とおじさんは続ける。
「うん……仲間はずれにされるの」
「そうか。哀しいね」
「……うん。もう帰ろうかな」
「じゃあ、おじさんが家まで送ってあげるよ」
「ほんと?」と私が素直にベンチを降りようとしたとき、「てめえっ、柚里香に何やってんだ!」とおにいちゃんの怒鳴り声が割りこんだ。
 私のほうがびくんとしてそちらを見ると、ランドセルを背負ったままのおにいちゃんが地面から飛び、そのままおじさんに蹴りを入れた。おじさんは体勢を崩して、その隙に「行くぞっ」とおにいちゃんは私の手を引っ張る。
「おにいちゃん、違うの」
「は? 何がだよ」
「あのおじさん、柚里香のこと心配してくれて」
「心配? バカかっ。誘拐されてたらどうするつもりだったんだっ」
「ゆ、ゆーかい……?」
 強く手を引かれて、前のめりそうになる。家が近づいてきて、とまどう私をかえりみたおにいちゃんは、「これからはひとりで公園なんか行くなよ」と言った。
「というか、ひとりで家を出るんじゃない」
「……だけど、」
「俺が一緒のときだけだ。いいなっ」
 私はうつむいてふてくされた顔をしそうになったものの、「分かった」と答えた。
 そのことがあってから、ますますおにいちゃんは私のそばから離れなくなった。小学校に上がっても、五年生の教室から私を見守りにきたし、卒業して中学生になっても、私を小学校の校門までは送り迎えした。
 窮屈だったし、ブラコンとか揶揄われるし、さすがにあのときのおじさんは危険だったと分かるようにもなったし、少しくらい放っておいてほしかった。でも、おにいちゃんは私の手を離してくれなかった。
 五年生になったあと、初潮が来た。学校で言ってたやつかあ、と思いつつ、いやに重たい軆に任せてぼんやりトイレに座っていたけど、おかあさんに言わなきゃ、とようやく立ち上がった。ドアを開けると、学ランを着たおにいちゃんがいたのでびっくりする。
「具合悪いのか?」
「えっ……と。平気。おかあさんに言うから」
「平気なら、かあさんに何も言わないだろ。どうかしたのか」
「……お、おかあさんが聞いてくれるよ」
「俺にも言ってくれないと心配だよ」
 なぜかいつも以上にいらいらして、「おにいちゃんは関係ないからっ」と私はおかあさんのいるリビングに向かおうとした。すると、またもやおにいちゃんが私の手をつかむ。
「関係ないって言い方はないだろっ。柚里香のこと心配してるのに」
「ほっといてよ、おにいちゃんには分かんないから」
「分からないなんてあるか。俺は誰よりも柚里香のこと──」
 そのとき、内腿からつうっと血が伝い落ちてしまった。だからナプキンの場所、おかあさんに早く訊きたかったのに。
 私の経血を認めたおにいちゃんは、「生理が来たのか?」と恥ずかしげもなく問うてきた。その厚顔さに、「だからおにいちゃんには関係ないって言ったのに!」と私は泣き出してしまう。すると、おにいちゃんは「ごめん、柚里香。ごめん」と私を抱き寄せて頭を撫でてきた。その手が髪を撫でるようで、うなじを這ったのが何だか気持ち悪かった。「一緒にかあさんに話そう」とおにいちゃんは私の手を引き、私はぐすぐす泣きながら、おかあさんに初潮の報告をした。
 その夜はお腹がしくしくと痛み、肢体がだるさで動かなかった。おかあさんに薬はもらったけど、効いたのかぜんぜん分からない。これからこんなのが毎月かと思うと、何だか自分の軆に失望するような気持ちになった。
 ベッドにあおむけになり、天井を見つめていると、そのうち眠ってしまっていた。
 息苦しさで目が覚めた。口をふさがれている。いや、口の中に何かが入りこんでいる。
 うめいて重たいまぶたをあげて、私は息を飲んだ。おにいちゃんが私に馬乗りになって、上体をかがめてキスをしている──
「柚里香……俺の柚里香」
 そんなうわごとをこぼしながら、私の服の中にも手をさしこんでくる。手汗のひどい手が、ふくらみかけた乳房をつかむ。おにいちゃん、と言おうとした。やめて。何してるの。こんなの──。
 でも、怖くて声が出ない。気持ち悪くて軆が動かない。
 柚里香。柚里香。柚里香。
 おにいちゃんは私の名前を呼びながら、何やら自分のジーンズの前開きを緩めて、そこから何かを取り出すと右手でこすりはじめた。そうしながら、また唇や首筋にキスをくりかえす。やがて、名状しがたい唸り声とともに、おにいちゃんが出した何かがぴゅっと私の服に飛び散った。
「柚里香、好きだよ。俺の子供生んでくれるよな……」
 そう言い残して、おにいちゃんは私の部屋を出ていった。私はやっと軆を動かすことができて、息を震わせながら服に着いた白い液体を見つめた。
 生臭いにおいが立ちのぼって、無意識に眉を寄せる。触られた胸やキスされた首に鳥肌が立っている。こんなの誰にも言えない、と思って、私は手の甲で唇を何度もこすった。
 それから、おにいちゃんは私の軆に触れてくるようになった。特に夜は、おとうさんもおかあさんもほろ酔いでテレビを観ているから、そのとき私の部屋に来て服を脱がせたり、自分の脈打つものに触らせたりする。
 手の中にびちゃっと白濁が出されたときは、そのあといくら手を洗っても臭いが消えなかった。おにいちゃんが私の脚のあいだに顔をうずめ、舌先でつついたり転がしたりするときもあった。なぜかそうされると、腰から下がとろりと砕けそうな感覚が襲ってくるときがあった。
 気持ち悪いことをされているのに。気持ちよくなるなんて、私はおかしい。走る快感がみじめで、恥ずかしくて、ますます誰にも言えないと思った。
 中学生になる前、ついにおにいちゃんと軆を重ねてしまった。私はずっといやいやをしていたけど、構わずにおにいちゃんは腰を振って私の中で射精した。コンドームはつけていたけど、体内で血管が浮いてぐっと硬くなったものが、一気に爆ぜる感触は生々しくて怖かった。終わるとおにいちゃんは私を抱きしめて、「俺たちは死ぬまで一緒だから」とささやく。そんなの、私には生き地獄だと息苦しくなった。
 中学生になっても、友達はできないだろうと思っていた。けれど、ひとりだけ屈託なく私に話しかけてくれる男の子がいた。その子は、あの怪しいおじさんをおにいちゃんが飛び蹴りでやっつけたところを見ていた子だったらしい。
「あれはかっこいいを通り越して笑ったなー」という彼は、瞬平しゅんぺいくんというそうだ。「あのときは、仲間に入れなくてごめんな」と十年越しに謝られて、私は咲ってしまいながら「いいよ、気にしてない」と答えた。「これからは仲良くしようぜ」と彼は言ってくれて、私は笑顔でうなずいた。
 そしてあっという間に、柚里香、瞬平、と名前を呼び捨てにするくらい、私は彼と仲良くなった。おにいちゃんは高校生になって、電車通学だからさすがに朝は早く、帰りも遅く、私を送り迎えできなくなった。代わりに私は瞬平と登下校した。
 二年生になってクラスが変わっても、瞬平は私を気にかけてくれて、瞬平を架け橋にして友達もできた。「ありがとう、瞬平のおかげ」と私が改まってお礼を言ったとき、「柚里香がいい奴だから、みんな友達になるんだよ」と瞬平はにこっとしてくれた。
 そのとき私は小さくうつむき、そんなことない、と思った。みんな、私を知らないから。瞬平だって、私のことを知らない。だから仲良くしてくれるんだ。私が、夜ごとおにいちゃんに穢されている忌まわしい悪夢を知ったら、みんな……
 瞬平にだけは、打ち明けようと何度か思った。助けてほしいとか、そういうことではなく、彼には自分を偽っていたくなかった。たぶん、咲いかけてくれる瞬平に恋心を抱きはじめていたからだ。
 瞬平に「好き」と言いたかった。何となく、瞬平は私がそう言えば断らない気がした。もちろん、もし断られてしまい、疎遠になるのは怖い。けれど、受け入れてもらって瞬平を巻きこんだら、おにいちゃんがどう出るか、それがもっと怖かった。
 私が誰かを好きになるのも、それをその人が受け入れるのも、おにいちゃんは許さないだろう。瞬平を私から遠ざけるために、殺すことだって厭わないかもしれない。
 高校も大学も、瞬平は同じところで隣にいてくれた。いつ、彼女ができたとか、好きな人かいるとか、そんな話を切り出されるか怖かった。傷つきすぎないように、たまに自分から「瞬平は彼女とか作らないの?」と訊いた。私がその質問をすると、瞬平は苦笑して「んー、どうなんだろうな」とはぐらかした。「できたらちゃんと紹介してよね」と私が言うと、瞬平は何か言いかけるけど、いつも飲みこんで「そうだな」と笑った。
 すでに大学を卒業しているおにいちゃんは、在宅メインの仕事に就いていた。いつもおにいちゃんが家にいる。おとうさんもおかあさんも、私とおにいちゃんの関係には気づいてくれない。むしろ、仲がいい兄妹で嬉しいと喜んでいた。
 夜更け、おにいちゃんはその日の仕事が終わると、私の部屋に来る。嫌なことはなかったか、困ったことはないか、毎日いろいろ訊いてきて、最後には「言い寄ってくる男もいなかった?」と必ず確認する。私がこくりとすると、「よかった」とおにいちゃんは私を抱きしめる。
 髪を撫でながらその匂いを嗅ぎ、息を荒くしてシーツに押し倒す。首筋に舌が這い、私は目をつぶって嫌悪をこらえる。服の中に手が侵入する。手汗がべとりと肌に絡みつく。内腿に服越しの硬い感触を押し当てられ、執拗にこすりつけられる。
 耳元で何度も呼ばれる私の名前。柚里香。柚里香。お前はずっと俺のものだ。いつか俺の子供を生んで、誰も知らないところに逃げて、三人で──
 私の軆は、きっと、もう一生おにいちゃんのものなのだろう。今はまだ、おとうさんとおかあさんがいるから、失望させないために避妊するけれど。ふたりがいなくなったら、おにいちゃんは私をすぐにでも妊娠させて、夫婦と偽れる場所に連れていく。
 ぎし、ぎし、とベッドをきしませ、おにいちゃんが動く向こうにある天井を見つめる。そうしたら、瞬平とも離れ離れになるのだろう。いなくなった私のこと、心配してくれるかな。ねえ、瞬平。私の軆はおにいちゃんのものだけど、私の心は──
 やがて、大学を卒業する春が来た。桜が咲きほこって、まだ冷たい風が吹くと、ピンクの花びらがひらりとひるがえる。
 式が終わったあと、友達とひとしきり記念撮影をして、私は瞬平とふたりになった。にぎやかに笑う周りの中で、「袴かわいいな」と言われて、「瞬平もスーツかっこいいよ」と私は微笑む。そんな私を見つめて、「柚里香」と瞬平はふとまじめな顔になった。
「俺たち、中学からずっと一緒だったよな」
「うん」
「でも、春からは……就職先も違うし、生活がばらばらになる」
「……そうだね」
「その前に、言わなきゃと思って」
 私は瞬平を見上げた。瞬平も私を見つめ、まっすぐな瞳で言った。
「ずっと、柚里香のことが好きだった」
 目を開くと、瞬平は首をかしげて「だった、って違うか」と照れ咲いをする。
「俺、柚里香が好きだよ」
 瞬平の瞳に映る自分に、私は泣きそうになった。さっとうつむいて、唇を噛みしめる。
 私、も。私も、瞬平が好き。ずっと好き。きっと、いつまでも瞬平のことが好き。
 でも、ダメなの。どうあがいても、私には未来がない。変えることもできない。私がここでうなずいて、瞬平のものになると応じたら、おにいちゃんは瞬平を殺すと思う。
 こんな、呪われてしまった私じゃダメ。彼はもっと幸せな女の子に愛されるべきだ。だから……
 私は瞬平に向かって、精一杯の最後の笑みを作る。
 ごめんね。あなたを愛してる。その想いをあなたの言葉に返せない私は、生きていないのと同じだ。
 周りには、まばゆいほどに桜が満開に咲いている。毎年、あっという間に散ってしまう花。同じように、私の想いもひと息に散ってしまえ。あなたに捧げられない愛なんか、このまま壊れてしまえばいい。
 そう、あなたに愛されることができない私の心など、この涙に流れて消えればいい。あの桜みたいに散って、その満たされたような光もろとも、跡形もなくなってしまえば──。

 FIN

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