若い頃、つきあっていた彼にはもうひとりの彼女がいて、私のことは遊びなのかと悔しい想いをしたことがある。
その「彼女」は彼より年上で、おそらく私の存在も知っていた。私たちは直接面と向かうことはなかったものの、互いの香りや髪の長さ、好むルージュの色まで知っていた。嫉妬で頭がおかしくなりそうな私に、ある日、彼は淡々と別れを告げた。
「あの人をえらぶんだね」
彼の前で、初めて彼女について口にした。それはそんな嫌味だった。すると彼は涙目に怒りを浮かべ、「あの人に捨てられたから、全部どうでもいいんだよ」と席を立って、静かな喫茶店を出ていった。
残された私は、注文したコーヒーにたっぷりミルクと砂糖を入れてもらうような、まだまだ甘ったるい子供だった。
「薫子さん、いらっしゃい」
それから、あっという間に二十年。私は四十歳をひかえ、おそらくあのときの「彼女」と同じくらいの年齢になった。何の因果か、夫の留守には、つきあっている若い男の子の部屋に通うという生活を送っている。
「こんにちは、孝哉くん。仕事の邪魔じゃない?」
「平気だよ! 会いたかったし」
私が「そう」としか答えないと、孝哉くんはちょっと寂しそうな表情を見せる。それが愛らしくてくすりとしてしまったあと、「私も会いたかった」と添える。すると、孝哉くんはぱあっと表情を華やがせて「上がって。早く」と急かして私の腕を取る。
ちょうど三十歳の孝哉くんは、普通の会社員だけど、基本的にリモートで仕事をこなしているらしい。私にはよく分からないけれど、月に二、三回出社すれば事足りるのだそうだ。
私の夫も会社員だけど、昔から毎日会社に出勤している。「旦那さんが旧式なおかげで、僕たちも会えるんだから」と孝哉くんは無邪気に咲う。
声をかけてきたのは、孝哉くんのほうだった。買い物帰り、重いな、と思いながらエコバッグを何度も肩にかけなおしていると、「持ちますよ」と声がして、ついでひょいとエコバッグを奪われた。
はたと振り返ると、そこでにこにこしていたのが孝哉くんで、それから、よく買い物帰りに遭遇して荷物を持ってもらった。孝哉くんは近所のアパートにひとり暮らしで、私のことをよく見かけていたらしかった。
「昔は、旦那と一緒に買い物に行って、荷物も持ってもらえたものなんですけどね」
お礼を述べつつ苦笑を浮かべると、孝哉くんは「僕だったら、いくつになっても奥さんに重いものを持たせたりしないのに」と言った。それで口説いてるのかなあ、と私がまだ苦笑をこぼしていると、「ほんとです」と孝哉くんはまじめな顔になって、私の腕をつかんだ。
「僕なら、いつだって奥さんのそばにいられますよ」
孝哉くんを見つめた。私のことを一生懸命に想っている瞳に、不覚にも軆がじわりと甘く痺れた。
「出逢うのが遅かったかもしれないですね」とごまかそうとすると、「ほんとに?」と孝哉くんは私の前にまわりこみ、覗きこんでくる。
「奥さんには、僕なんかありえないですか?」
黒い瞳は、寂しそうに潤んでいる。私は困ってしまったものの、「奥さん」とすがるように呼ばれて、とっさに答えていた。
「……奥さんなんて呼び方をされてるあいだは、考えられない」
「えっ。あ──名前、……えと、」
「薫子」
「かおるこ……さん」
私の名前を口にしただけで、その瞳は水気に揺らぐ。そんな瞳に私が瞳を重ねると、孝哉くんは急に私の手を引っ張って駆け出した。
何だか、駆け落ちみたい。そう思いながら素直についていくと、連れこまれたのは孝哉くんの部屋で──
その日から私たちの逢瀬は一年くらい続いている。
今日も部屋に上がると、孝哉くんは猫みたいに私にじゃれつきながら服を脱がせてくる。軆のあちこちに口づけ、敏感なところにはそっと触れる。一年前よりうまくなったと思う。一年前、孝哉くんは初めてではなかったけれど、けっこう一方的で荒っぽい行為をした。
私が息をついて、「私を喜ばせようと思ってる?」と軽く突き飛ばすと、「えっ」と孝哉くんはおろおろしはじめて「僕、下手……かな」とうなだれた。そんな彼に、女が感じるところの触れ方を丁寧に教えた。その指先で私が初めて快感を覚えたとき、孝哉くんは我慢できない様子で私に分け入った。満ちていくような感覚に痙攣する私の体内をつらぬき、孝哉くんは初めて女を感じさせている興奮を知り、それからどんどんうまくなった。
今日もひとしきり快楽をむさぼり、白く弾ける絶頂に達して、私はベッドにぐったり横たわった。真冬なのに、暖房がちょっと暑い。孝哉くんは私の胸に顔をうずめて甘えて、私はその黒髪をゆっくり撫でた。
「ずっとこのままがいい」と孝哉くんはささやいて、「そうだね」と私は少し咲って彼の髪を指にすくう。そうしながらまくらに頬を寄せたとき、私はかすかな違和感を覚えた。
孝哉くんがようやく起き上がってシャワーに行き、私はまくらに顔をうずめてみた。
……やっぱり。さわやかなのに甘い、シトラスの香り。私の香りじゃない。私がまとうのは、ウッディ系の香りだ。私はまくらを膝に乗せて空を眺め、若い女の子かなあ、とぼんやり思った。
その日以来、孝哉くんの部屋に行くと、女の子がいた痕跡が忘れ物みたいに残っていた。ユニットバスに落ちている長い栗色の髪。シンクのグラスにうっすら残るルージュ。何もかも、あの恋と同じ。
ただ立場だけ逆転して、私は孝哉くんの「彼女」のことを知っていった。どうやら、私が来ることのない夜に、ふたりはこの部屋で会っているみたいだ。
不思議と、当時のように嫉妬で狂いそうな感じはなかった。まあそんなもんだろうな、とむしろ納得した。こんなにかわいい男の子、同世代の女の子が放っておくとも思えない。
ある日、昨夜から粉雪がちらつく中を孝哉くんの部屋に行くと、ベッドの影に何かが丸められて落ちていた。何だろうと拾い上げてみると、赤いタータンチェックのマフラーだった。生地からふわりとシトラスの香りがする。
外はまだ雪が降っているのに──そう思ったところで、さすがにそれが忘れ物ではなく、「彼女」が私にあてつけて置いていったのだと分かった。
「あっ、それは──何でもないからっ」
孝哉くんはマフラーをもぎとると、躊躇いなくゴミ箱に投げ捨てた。私はそれを見て、何もなかったように私に触れようとしてきた孝哉くんを止めた。
「何?」
「これ以上は、彼女が可哀想だと思う」
「えっ? いや、彼女って──」
「いるんでしょう? 嘘はつかないで」
私に見つめられて、孝哉くんはしおれるように視線をうつむけたけど、「別に」とぼそっと言う。
「あの子のことは、好きじゃないし」
「好きじゃない」
「同じ会社の同僚なんだ。ごはんとか作るよって、この部屋まで来るんだ。断りきれなくて」
「そう」
「僕が好きなのは、薫子さんだからね? 何なら、彼女とはもう会わないよ。部屋に入れなきゃいいだけだし──」
「同じように、私が好きなのは夫だから、孝哉くんにはもう会わない、ここには来ないって言ったら?」
「そんなっ、」
「だから、彼女にもそんなことを言って傷つけちゃダメ」
「僕は、」
「私たちがそっと終わりましょう。これ、ちゃんとクリーニングして返してあげてね」
私はマフラーをゴミ箱から拾い上げ、ついたクズをはらってから孝哉くんの手に持たせた。
「嫌だよ」
「幸せになってね」
「嫌だっ、薫子さんと別れるくらいなら、僕はもう何もいらない。死んだほうがいい」
私は無視してベッドを降りて、玄関へと向かった。「死んだほうがいいって言ってるのに」と孝哉くんは私の腕にすがりついてくる。
二十年前、あの人も捨てられるときはこんなふうに哀願したのかな。それでも捨てられてしまって絶望したから、私のことも切り捨てたのかな。
どのみち孝哉くんが同僚を突き放すのを、私は見越している。あの頃の彼女も、彼が彼女との恋を失うことで私も捨て去ると分かっていて、別れていったのだろうか。
私は少し乱暴に孝哉くんの手を振りほどくと、「さよなら」と振り返りもせずに玄関へと歩いていった。孝哉くんの嗚咽が聞こえるけれど、私にはどうしようもない。
いつのまにか雪はやみ、冬の短い夕暮れが始まっていた。ピンクとオレンジが淡く混ざり合い、空色を食べていく。
吹き抜ける風は冷たく髪をなびかせる。
今日は帰りが少し早いかもって、朝、あの人は嬉しそうに言っていたっけ。おいしいごはん作って待っててあげないと、と私は暮れゆく帰り道をたどりはじめ、胸の中で小さな恋を静かに終わらせた。
FIN