狂おしい果蜜

 高校一年生の二学期に入ってから、下校はこの夏に彼氏になった哲義てつよしと一緒だ。何だか懐かしい。とても幼い頃、私たちは同じようにふたりで下校する小学生だった。
 お互い、中学のときくらいから意識していたと思う。高校は別になるかなと思っていたものの、限りなく不自然な雰囲気で志望校を教えあった。私は共学。哲義は男子校。「共学に行くのかよ」と哲義は何だか不満そうに眉を寄せた。
理世りよはどうせモテないだけで虚しいぞ」
「高校はモテるための場所と思ってるなら、あんたは男子校でモテたいのか?」
「………、仕方ねえな、俺も理世と同じとこ目指してやる」
「えっ、いや……男子校でいいじゃん」
「男にモテたくないよ」
「いや分かってるよ。どうせ友達とかとそこ目指すんだろ」
「そうだけど……」
「……まあ、勝手にすればいいとは思うけど」
 今思い出しても、何が言いたいのやら、ちぐはぐな会話だ。
 結局、私と哲義は同じ高校に進んだ。そこには、中学校だけでなく小学校が同じだった子もいた。「今も仲良しなんだねえ」とはやし立てられ、私と哲義は気まずくなったまま夏休みに入った。
 しかし、小学校の登下校が一緒だったのだから、私たちはご近所だ。出歩けば、顔を合わせないわけがない。利用するコンビニまで同じだから、あっさり鉢合わせてしまった。
 狂ったような青空の日射し。降りしきる蝉の声。ほてる軆をコンビニで買ったアイスでなだめながら、並んで家まで歩いた。
「あのさ」
「……おう」
「俺、理世の彼氏になりたいんだけど」
 私は哲義を見た。哲義はマジな顔をして私を見ていた。
「えっ……と、うん、いいんじゃない」
「それは、彼女になってくれるってことか?」
「ほかに意味ないだろ」
 なぜか仏頂面の私に反し、哲義は頬を緩ませて「よっしゃ」と小さくつぶやいた。口にしないだけで分かりきっていた事実とはいえ、私もそんな哲義にほっとして、よっしゃと思った。
 それ以来、私たちはつきあっている。ついに私たちにも甘い時間が流れる──わけもなく、いつも色気のない会話をしている。こういう雰囲気が楽だから、この人を好きになったのだと思うけど。
 二学期が始まってしばらく過ぎた。その日の放課後も、部活を終えた哲義と靴箱で落ち合って校門へと歩いていた。「今日、理世のクラス体育だったな」と哲義が言い、なぜそれを把握していると訊く前に、私ははたと立ち止まった。
「待って、やばい。体操服、教室に忘れた」
「やばいな」
「………、明日は体育ないんだよ」
「そうなのか」
「明日持って帰ればセーフか……?」
「汗臭くなるぞ」
 本当にこいつ、色気がない。けれど、彼氏にそう言われたら女子としては勝てない。
「取ってくるから、先帰ってていいよ」
「いや、待つぞ」
 無神経なのか優しいのか分かんない。内心ぼやきながら、私はもうあまり残っていない下校する生徒を逆流して、来た道を戻りはじめた。
 夕暮れが始まっていた。濃いオレンジに溶けた太陽が、たなびく雲を通して桃色や金色の光に透けている。季節は残暑だけど、まだまだ暑くて確かに体育の授業では汗をかいた。夕風の流れが紺のプリーツスカートをふわりと揺らす。どこからか響くひぐらしの鳴き声が、影法師に重なった。
 校舎の中には、もうひと気もなかった。急いで走りたいけど、駆け足が目立つのもなぜか気が引けて、ゆっくり歩く。暑いなあ。スクールバッグ、哲義に預けてきたらよかった。そんなことを思いつつ、二階にある自分のクラスの前に到着した。
 そういえば鍵、と気がついたけど、さいわいドアは少しだけ隙間がある。誰か居残ってくれている。ありがとう! 心の中でお礼を言うと、ドアを通れるくらいに開けようとした。
「みんな帰ったね」
 しかし、そんな女子の声がして、ドアをスライドさせようとした手をぱっと止めた。
「うん……」
 続いたのは男子の声だ。もしや告白シーンか、と私は思わず好奇心に負けて教室を窺ってしまう。
 夕射しに染まった赤い教室に、人影がふたつあった。思わずまばたきをしてしまう。そこにいた男子は、藤谷とうやくんだった。このクラスで──というか、この学年で有数のイケメン男子だ。友達もよく騒いでいて、藤谷くんと同じクラスでありながら哲義を選んだ私を「物好き」と呼ぶ。
 女子には見憶えがなかった。漆黒の髪をつやつやと腰まで伸ばした、綺麗な女の子。あんな子、このクラスにはいない……と思ったけど、彼女が田淵たぶちさんのつくえにひらりと腰かけたことで、はっと気がついた。
 春日野かすがのさんだ。いつも、田淵さんのグループにいじられている、おさげに眼鏡、マスクまでつけた地味な女子。
 眼鏡もマスクも外した素顔の春日野さんは、つくえの上でゆっくりと脚を組んで、白い太腿を射しこむ夕陽でしっとり赤く染めた。
 何? どういう状況? 春日野さんが藤谷くんに告白?
 いや、春日野さんは普段からは想像もつかない泰然とした様子だし、そわそわしているのはむしろ藤谷くんのほうだ。
 夕陽を背にした春日野さんは、藤谷くんを見つめて、小さく首をかしげた。
「今日、私がされてたこと、分かってる?」
 春日野さん、こんなにはっきりした口調でしゃべれるのか。小さな声で「ごめんなさい」ばかり言ってる印象だった。
「田淵たちに、体操服を隠されてた……」
 ああ──そういえば、春日野さんは体育の授業は見学をしていたかも。普通に生理とか思ったけれど。
「それをどう思った?」
「………、悔しかった」
 絞り出すような藤谷くんの言葉に、春日野さんは鼻で嗤う。
「へえ。悔しかったの」
「……うん」
「どうして? 君には関係ないじゃない」
「か、関係はあるっ……」
「そう?」
「今日の、ご褒美になると思ってたからっ」
 ご褒美? どういうこと?
「そうだね」
 春日野さんは軽蔑さえ混じったようにくすくす嗤う。
「私の汗臭い体操服、嗅ぎたかったもんね」
 ……え。
「私の匂いを君の汚いとこにこすりつけて」
 ……えええ?
「気持ち良くなりたかったんだよね」
 何だこの会話。
 正直そう思っていると、すすり泣きが聞こえてきてびっくりした。藤谷くんが、泣き出しながらうなずいているのだ。おい、学年有数のイケメンよ。
「今日はご褒美は無しだね」
「そんな」
「ねえ、私はいつでも、君に録音してもらった証拠を持って田淵さんたちのやることをやめさせられるんだよ」
「や、やめて」
「なあに、私が嫌がらせを受け続ければいいと思ってるの?」
「うん」
 いやダメだろ。そこはさすがに突っ込みたい。
「ひどいなあ、君は……」
 ほんとだよ。と思うけど、春日野さんは傷ついた様子もなく、妖艶に窃笑している。藤谷くんのほうがまだめそめそ泣いている。
「子供みたいに泣いて。そんなにご褒美欲しかった?」
 藤谷くんは、こくこくと何度もうなずく。
「じゃあ、そうだな……明日までに私の体操服を見つけてくれる?」
「み、見つけるよ。どこにあっても探してくるから、だから……」
「じゃあ、ご褒美あげようね」
 そう、そこなの。ご褒美って何? そう思って、ついつい覗き見をやめられない。
「ひざまずいて」
 藤谷くんは言われるままに、春日野さんの足元にひざまずいた。そんな彼に、春日野さんは上履きの足をさしだす。その上履きには、田淵さんたちからのものであろう落書きがあった。
「舐めていいよ」
 藤谷くんは春日野さんを見上げて、頭を垂らして上履きにキスをした。さらに、むしゃぶりつくように爪先を口に入れる。
 ええと……これは、現実の光景かな?
 藤谷くんは、はやる手つきで春日野さんの上履きを脱がせようとした。すると、春日野さんは容赦なく靴底を藤谷くんの顔面に押しつけた。上履きの爪先は、藤谷君のよだれで夕焼けにきらきら光る。
「勝手なことしないで」
「でも……」
「今日は靴下は無し」
 藤谷くんは切ないような苦しいような瞳をしたけど、素直に春日野さんの上履きにキスを繰り返した。その息遣いは荒っぽくて、陶酔しているのが分かる。
 ようやく、私は我に返った。体操服はあきらめることにした。校門では哲義がスマホをいじりながら待ちぼうけていた。
「遅せえよ。体操服は?」
「忘れた……」
「だから取りに行ったんだろ」
「もう……いいや」
「でも洗濯しないと──」
「……汗臭い私が嫌なら、別れるか」
「はっ? いや、そこまで言わなくていいだろ」
 変な沈黙が流れる。確かに、とは思った。私、あんなものを見て判断がおかしくなっている。
「そうだよな、明日でもいいかもな。何かすまん」
 私の機嫌を損ねたかとやや必死になる哲義に、私は小さく首を横に振った。
「えっと、帰るか」
「うん」
 哲義は私の手を取って、歩き出した。周りには、ほかの下校する生徒のすがたもなくなっている。哲義の手を握り返し、私は幼い頃のように彼の隣を並んで歩く。
 藤谷くんと春日野さん。つきあっているのだろうか。いや、そういうのじゃない気がする。何となく。よく分からないけど、あれはそんなもんじゃない。
「哲義」
「んー?」
「私の匂い、好き?」
「はっ?」
「匂いだよ」
「そ、そりゃ嫌いじゃないぞ」
「そうか……」
「何だよ」
 言いたい。正直、かなり言いたい。あれは聞いてほしい。でも、やはり、言っちゃダメだろう。
「私、あんたが彼氏でよかったわ」
「えっ」
「不一致がない」
 哲義は、まばたきをしてきょとんとしている。
 あのふたりのこと、別に何も言わないし、勝手にしていいと思う。けれど、もし哲義がああいう「ご褒美」を欲しがったら、私は嫌かもしれない。
 こうして手をつないで、ハグしたり、キスしたり。そういうのがいい私と、そういうのがいい彼。それは貴重なことなのかもしれない。
 夕暮れが落ちはじめていた。暗闇が降りたら、あのふたりはどうするのだろう。あのふたりだけのシロップのような時間を過ごすのかな。だとしたら、そのシロップは気がふれそうなほど妖しく甘美な味をしているのだと思う。

 FIN

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