椿が落ちた日

 学校が楽しくない。クラスに友達もいないし、勉強はハイペースでむずかしくなるし、教師たちは鬱陶しいし。
 それでも通っていたけれど、中学二年生の晩秋、通学中にちょっと通学路で立ち止まってみた。周りはみんな学校に向かっている。一歩後退ってみる。誰も目に留めない。身を返して、逆流しはじめても呼び止められない。
 そしてそのまま、俺は学校をサボることを覚えた。しかし別に不良ではないし、遊びにいくこともなくそのへんをぶらつく。その日、ちょっと歩いて公園に踏みこんだのも気紛れだった。
 この公園は、夕方に愛犬のミグと一緒に散歩に来る。誰もいなければリードを外して、駆けまわらせてやれるくらい広い。昼間だし誰もいないかな、と思ったら、小学生くらいの女の子が公園の中央の木の下に立っていた。チラ見を向けながらも、俺はベンチに腰かけて荷物を下ろす。
 木を見上げていた女の子は、ふとしゃがみこんで何かを拾い上げた。小学生がこの時間って、考えてみれば変か。いや、俺も中学生だから同じだが。
 立ち上がった女の子は、何やらきょろきょろして俺に気づいた。白い肌に細い軆──私服だから小学生と思ったけど、もしかしたら同じ中学生かもしれない。
 彼女は手の中に何かを抱いている。目を凝らすと、桃色の小鳥だった。女の子は何やら言おうとして、躊躇って口をつぐんでいる。俺は首をかたむけた。
「ペット?」
「えっ」
「その鳥」
「え、あ──いえ、その、地面に落ちてて」
 そういえば、鳥だから飛んで逃げないのもおかしな話か。「ふうん」と俺は天を仰いで、息をついた。
 冷たい空が青く澄んでいる。わりと静かで、うたたねしそうになる。
「あ、あのっ……」
 微睡みかけたまぶたをまばたかせて、彼女に目を戻した。
「何?」
「こ、この鳥──どう、しましょう」
「え……」
 ほっとけば、と言うのは、さすがに冷酷すぎるか。俺は息をつくと、立ち上がって彼女に歩み寄った。背をかがめて小鳥を覗きこみ、「飼われてた鳥っぽいな」とつぶやく。
「つか、動かないな。生きてる?」
「あったかいです」
「ふうん。獣医連れてったら?」
「でも、お金──」
「近くに、いい病院あるよ。たぶん軽くなら見てくれると思う」
 彼女は俺を見つめてくる。俺は肩をすくめ、「はいはい」と荷物を取りにいった。「行こう」と言うと、彼女はほっと微笑んでうなずいた。
 ミグがお世話になっている、小さな動物病院が近かった。開院は十時。あと三十分くらいある。彼女は丁重に小鳥を抱いていて、俺はドアにもたれてそれを眺める。
「君、いくつ?」
「え、十三、です」
「……タメかよ。中二?」
「いえ、一年生です」
「じゃあ、一個下か」
 特に話題も続かない。学校はどうしたのだろう。お互いそれを思っているのは察せても、いきなり訊けない。
 やがて病院の診察時間が始まって、「こんにちはー」と現れた俺に、院長先生は苦笑しながらも何も突っ込まずにいてくれた。
「ん、ミグちゃんじゃないのか」
「そこの公園で、この子が鳥を拾ったらしくて。これ、飼ってる鳥ですよね」
 女の子は院長先生に近づき、「飛べないみたいで」と小鳥をさしだして心配そうに言う。小鳥を丁寧に受け取った院長先生は、「羽切られてるから愛玩用だなあ」と眼鏡越しに目を細める。
「怪我はしてないみたいだな」
「ほんとですか」
「どこかから逃げてきたか──どこにいたんだい?」
「公園の木の下に」
「あー、捨てられたとは思いたくないがなあ」
 女の子はうつむいた。俺は隣で、その長い睫毛を見つめる。
「一応うちに貼り紙はしておこう。飼い主さん、探してるかもしれないからね」
 院長先生が優しく言うと、「はいっ」と女の子はぱっと顔を上げる。
「でも参ったな、うち犬猫だから預かれないんだよなあ」
「じゃあ、私が預かっても大丈夫ですか」
「いいのかい?」
「はい。昔、鳥飼ってたことあるから、かごとかも残ってます」
「そりゃいいや。じゃあ、飼い主さんが来たら、連絡する番号とか訊いていいかな」
 女の子はこくんとして、院長先生にさしだされたメモ帳に連絡先を書き留めた。
 手持ち無沙汰にフィラリアのポスターを見ていた俺は、「あの」と女の子に声をかけられて振り向く。
「ありがとうございます。私だけだったら、どうしたらいいのか分からなかったから」
「あー、いや。ここ、うちの犬が世話になってるからね」
「犬飼ってるんですか」
「うん。雌のビーグル」
「いいなあ。私はマンションだから無理で」
「おもしろいよ、犬」
 俺がそう言ったとき、扉が開いてコーギーを連れた女の人が入ってきた。院長先生は俺の肩をたたいてから、「どうかされましたか」とそちらに歩み寄る。
「出るか」と言うと女の子はうなずいて、俺たちは院長先生に頭を下げて動物病院をあとにした。
「じゃあ私、帰って鳥かごとか押し入れから出してきます」
「ん。あ、親は文句言わないの?」
「たぶん大丈夫です。昔飼ってたくらいですし」
「そっか。じゃあ、気をつけて」
「はい」と女の子は笑みを見せて、頭を下げて歩き出していった。俺はそれを見送ってから、帰ったらミグと遊ぼう、と何となく思い、いつものように町をあてもなくふらふらした。
 次の日も学校をサボって、何だか気になったので、また公園におもむいてみた。そこでは、あの女の子がベンチで陽射しに当たっていた。
「よう」と声をかけると、「あ」と彼女は笑顔になって隣を空ける。俺はそこに腰を下ろし、ふうっと息をついた。
「あのさ」
「はい」
「俺はサボってんだけど」
「え」
「学校」
「あ──私は、不登校です」
「そっか」
「同じ中学です、たぶん」
「そうなんだ」
「一学期しか行かなかったですけど」
 俺は背伸びして、「学校嫌だよなあ」とつぶやく。
「何かあったんですか?」
「何もないから疲れた」
「私は、あとちょっとで転校するんです」
「転校」
「イジメが手に負えないからって。学校に転校を勧められました」
「そういうのあり?」
「よく分からないですけど。二年生からは、電車で私立に通います」
「私立かー」
 俺は緩い陽光に目を細めた。ひんやりした風が頬をすべる。学校が変われば、俺も楽しくなるのだろうか。あまり変わらない気がするけれど。
「そういや、あの鳥は?」
「落ち着いてます」
「何かなー。捨てられたのかな」
「あんなに綺麗な子なのに」
「捨てる奴は捨てるしなー」
 彼女はロングスカートの脚を伸ばし、長いウェーヴの髪を風になびかせる。よく見ると、繊細な顔立ちをしている。
「捨てるのに、どうして飼うんでしょうね」
「さあ。俺は犬捨てる気になったことないから分からん」
「私も分かんないです。捨てたり、イジメたり、そういう人たちは分からない」
「まあ、イジメは学校行かなきゃいいだろ。家まで来るの?」
「来ないですけど」
「じゃ、もうスルーでいいんだよ。気にしてやる必要もないさ」
 彼女は俺を見て、くすりと咲った。「楽しい人ですね」と言われ、「能天気なんだよ」と俺は肩をすくめる。
「私はひとりでここに来て、死にたいとか生きてたくないとかばっかり考えてました。バカみたい」
「春から変われるんだろ」
「そうなんですけど。待てないくらいつらくて」
「死ななくていいだろ。俺が話相手になるなら、なるよ」
「ほんとですか」
「うん。ま、聞くだけで、かっこいいことは言えないけどな」
 彼女は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は柔らかく、傷の陰りなど感じさせない。
 まあ、学校の授業よりはこっちのほうがいいかもしれない。そんなふうに思って、俺は彼女を訪ねてこの公園に通うようになっていった。
 そのまま、冬になった。冬休みになるぎりぎりまで、俺は彼女に会って話して咲わせていた。鳥の飼い主は現れないままだった。
 家の垣根になっている寒椿が、赤く咲きはじめるのを家の中からミグと眺めた。彼女はミグに会ってみたいと話していた。ミグはおっとりしているから、むやみに吠えたりもしないだろう。会わせたいなー、と思っていたら冬休みが終わった。
 もちろん、俺は公園に向かった。でも雪が降っていたせいか、彼女のすがたはなかった。雨の日は傘さしてたのに、と思っても、まあ風邪をひきたくないのは当たり前だ。
 指先や爪先が、凍って締めつけられているようだ。そんな寒い日が続くせいか、冬休みが明けて以降、彼女はなかなか公園に現れなかった。
 その日は、夜中からかなり雪が降っていた。白く積もって、ざくざくと足音が残る。
 ミグに見送られて家を出て、赤い寒椿が白い雪の中に落ちているのに気づいた。綺麗なまま落ちていたので、何となく拾った。喜ぶかなあ、とか一瞬考えて、慌てて首を横に振る。花を渡すとか、恥ずかしすぎるだろう。俺は郵便受けの上に寒椿を置いて、その日も公園に向かった。
 すると、朝のこの時間帯にはいつも誰もいない公園に、誰かが青い傘をさして立っていた。長いウェーヴの髪が見えたから、てっきり彼女かと思って声をかけた。
 でも、振り返ったのは三十代後半くらいの──面影のある、女の人だった。
 女の人は俺に丁重に頭を下げた。
 え、と思った。何。何だこの嫌な予感。
「きっと、あなたのことだと思うんですが」
 女の人は、俺に桃色のかわいらしい封筒をさしだした。俺は受け取って、うまく動かない指で便箋を開いた。
『あの子の飼い主、見つかりました。
 また空っぽになった鳥かごを見てたら、みんなこんなふうに私から離れていくんだって思いました。
 出会えて、お話できて楽しかったです。
 春になったら私は新しい学校に行って、もう会えなくなっちゃうんですよね。
 そして、忘れられてしまうんだなって思うと、もう何のために生きてるのか分からなくなりました。』
 俺は女の人を見た。女の人は真っ赤な泣き腫らした目をしていた。
 嘘だろ。そんな。こんなの、嘘だ。
 だって、咲っていたではないか。また会おうって去年別れたではないか。何でこんな急に──
「あの小鳥、飼い主があの子をイジメていた子だったんです」
「えっ……」
「そしてその子、あの子の目の前で小鳥を殺してみせたらしくて」
 俺は目を剥いた。
「あの子、あの小鳥をすごくかわいがってたんです。だから、去年の暮れに飼い主の子が来たとき、あの子が嫌がったのを私は小鳥を返したくないだけだなんて思ってしまって。家に通してしまいました。そしたら──」
 女の人はうなだれ、こらえきれない涙をこぼした。俺は突っ立って、息が苦しく締めつけられていくのを感じた。
 そんな……の。そんなことって。
 彼女の笑顔がよぎる。あんなに、自然に咲える子だったのに。
 忘れられてしまう? そんなわけないだろう。現に俺は、毎日ここに通っていた。のんきにそのうち顔を出すぐらい思って。なぜか花を渡したいなんて思ったりもした。
 きっと、俺は、彼女を好きになっていたのに。
 ──あとから耳に入ってくる話によると、彼女はマンションからの飛び降り自殺だった。雪の日が続き、白い地面にたたきつけられた遺体から血が飛び散っていたそうだ。
 あの寒椿を思い出した。あんなに、綺麗な状態でもなかったのだろうか。
 離れたり、しなかったのに。彼女さえよければ、俺はずっとそばにいられたのに。また学校が嫌になったら、受け止めてまた話でもするつもりだった。それなのに。
 その夜、俺は両親に学校に行っていないことを話した。「とっくに知ってるよ」と母親は苦笑した。「無理して行かなくていいさ」と父親も笑った。俺は照れ笑いしてからうなずいて、窓から寒椿が望めるリビングでミグの軆に寄り添った。
 温かい。生きている。
 あの子も、あの小鳥を拾ったときは、その温もりを知れる温もりを持っていたのに──
 立ち上がって、窓にカーテンを引いた。でも、目の奥に赤い椿は焼きついている。
 そばにいたいのは、俺のほうだった。でも、二度と彼女に会えることはない。
 何で。どうして。伝えたいことはまだたくさんあったのに。
 ミグが足元で小さく鳴く。俺はそれを見下ろし、ついにくずおれて声を殺して泣いた。
 楽しくなかった俺の毎日。それは一瞬、とても華やいだ。けれど、あの椿が落ちた日、朽ちゆく紅だけ残して、本当に色彩を失ってしまった。
 やっと、彼女に会えることを楽しみと思えたのに。その好きな女の子と過ごす幸せは、小鳥の羽をむしるようなむごさで、もう壊れてしまったのだ。

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