「わあ、この猫かわいい」
冬の朝、吐く息は唇から白く溶け出していく。
マフラーを巻いて、うつむきがちに集団登校の最後尾を歩いていた僕は、そんな声に少し目を上げた。神村さんとその友達が、路上駐車のボンネットで丸くなっている白猫の前で立ち止まっている。
「触りたいなー」
「寝てるのに起きちゃうよ」
そんなことを話しているふたりを、見守り隊の誰かのおかあさんが「はーい、立ち止まったら通行の邪魔だからねー」と動くのをうながす。
「猫ー」とまだ神村さんは名残惜しそうだったものの、「遅刻しちゃうでしょ」と友達にも言われて、しぶしぶ歩き出した。僕は車の脇を通りかかったとき、その猫を横目で見た。
透き通る青い瞳は、開いてしまっていた。僕は目をそらすと、またうつむいて、みんなをちょっとはずれてついていく。
「あー、私も猫飼いたいなー。犬より猫だよねえ」
「犬もかわいいじゃん。チワワとか」
「犬はなー。吠えるし」
「猫も鳴くよ」
「吠えないでしょ」
「春とかすごくない?」
ランドセルの肩ベルトを握って、僕はひたすら神村さんの声に耳を澄ます。
神村ゆりみ。同じ五年三組。とにかくかわいい。艶々の黒い髪も、しっとり白い肌も、大きな瞳もいちごの唇も。手足はすらりとしていて、僕より背が高い。
ずっと片想いをしている。僕なんか見向きもされないのは分かっていても、僕のほうはいつも神村さんのことを考えている。
算数の授業のつまらなさそうな横顔。給食の柔らかいパンを食んでいく口。男子に揶揄われるふくらみかけた胸。シャーペンに絡みつくほっそりした指。夏の汗ばむ頃の艶めかしく光る肌。
いつも、神村さんのことを考えながら自慰をして、頭の中で彼女を白濁で穢している。
神村さんが好きで、本当は話したくて、ふたりきりになりたくて、でも、僕は見ているだけしかできない。神村さんのためなら何だってしたいけど、神村さんが何をしてほしいのか分からない。
毎晩、ベッドで神村さんを想う。目隠しをして、両手を縛って、自由を失った神村さんに触れる、夢のような妄想。
僕の指が次はどう動くか、警戒と期待を綯い混ぜて、神村さんは蝶のはためきのように息を震わせている。
好き。好き。好き。
そんな想いを針にして、キスを突き刺して、標本にするように神村さんの動きを奪っていく。神村さんが喘ぐ、ただ苦しげに。
僕はその唇に口づけて、なめらかな喉元をぎゅうっと締め上げる。
「藤元くん、よけてっ」
突然そんな声がして、はっとした僕は、背後から迫るオートバイの爆音に気づいた。とっさに歩道側に身を引く。
その直後、大きなオートバイが集団登校のそばを突っ切っていった。僕が驚いてまじろいていると、「大丈夫っ?」と例の見守り隊のおかあさんが僕に駆け寄ってくる。僕はぎこちなくうなずき、今の声、と神村さんを見た。
神村さんは僕に軽く咲ってみせてから、「猫でしょー、やっぱり」と友達との会話に戻った。
心臓がどくどくとせりあげる。頬がほてって瞳が潤む。神村さんが、僕の名前を呼んでくれた。危険から救ってくれた。
軆が甘やかに痺れ、そのままとろけるような感覚が襲ってくる。頭の中が浮かされて、壊れて暴れ出すみたいに神村さんを「好き」だと思う。
ああ、好きだ。僕は本当にあの子が好きだ。あの子のために、何かしなきゃ。そうだ、僕の命を助けてくれたんだ。どうしたらいいだろう。何をしたら喜んでもらえるだろう。
僕は振り返った。路上駐車の車はまだそこにあったけど、あの白猫はいなくなっている。
その数日後から、神村さんは学校に来なくなった。家の前に置いてあった段ボール箱から、喉を裂かれた猫の死骸が出てきた。それをまともに目に焼きつけた神村さんは、心がおかしくなってしまったらしい。そんなに嬉しかったのかな、と送り主の名前を書く勇気が出なかった僕は思った。
中学生になっても、高校生になっても、神村さんを想いつづけた。神村さんに会えることはなかった。うわさでは、神村さんは高校も行かずに引きこもって暮らしているようだ。
でも、いつか会えるような気がしていた。僕は神村さんにありがとうと言っていない。そして、神村さんも僕にありがとうと言っていない。
大学生になって、僕はひとり暮らしの部屋にデリヘル嬢を呼ぶことにハマった。そして自慰でなく、女の子の口にしてもらいながら、神村さんのことを溺れるように想った。
ああ、会いたいなあ。ずっと会ってないなあ。僕のこと憶えてるかなあ。僕は今でも君が好きだよ。ずっとずっとずっと好きだよ。君のことが好きで、そのたびしゃぶらせて気持ちよくなって、こんなに白くて濃いものを吐き出してるよ。
だから、二十歳になった夏、神村さんがデリヘル嬢として僕の部屋を訪ねてきたとき、思わず泣いてしまった。
「え、えと……ふ、藤元、さん? ですよね? あれ、部屋間違えたかな……」
玄関でおろおろしている神村さんは、ちょっと痩せてしまっていたものの、やっぱり綺麗だった。「神村さんだよね」と僕が言うと、「えっ?」と神村さんは蒼ざめて目を開いた。
「何で、私の……こと」
「僕、藤元だよ。憶えてるでしょ? 僕の命を助けてくれたじゃないか」
「は……? え、ちょっ、ちょっと待ってください」
「また会えて嬉しい。やっと会えた。ずっと会いたかったんだよ」
神村さんは明らかに動揺していて、はっとしたようにスマホを取り出した。でも、僕はその華奢な手首をつかんで、神村さんを部屋に引きずりこんだ。「やめてっ、離して、」と抵抗する神村さんの態度に、僕は首をかしげる。
「どうしたの? 僕に会いにきたんでしょ?」
「わけ分かんない、私あなたのこと知らないしっ。知り合いだったら、来るわけないでしょっ」
「何を言ってるの?」
「何だよ、私、もうこの仕事しかないのにっ……何でこんな、気違いばっかなの」
「ねえ、嬉しかった?」
「はあ? くそっ、離せっ──」
「猫飼いたいって言ってたから、あれが一番喜んでくれると思ったんだ」
神村さんの目の色が、さあっと引いていった。僕はにっこりして、やっと力を抜いてくれた彼女を部屋に引き込む。
神村さんは自失したような瞳で、何かぶつぶつ言いはじめていた。そんな彼女をパイプベッドに押し倒すと、僕はその細い腰に馬乗りになった。
神村さんはじっと僕を見つめて、「いや」とつぶやいた。
「うん?」
「嫌……だっ、何なの、あんたっ。何でそれ知ってるの? ストーカーなの?」
「ストーカーなんてしてないよ。そもそも神村さん、家から出てこなくて誰にも会わなかったでしょ?」
「何、え、気持ち悪いっ。どいて、私帰るっ。あんたのこと警察に話す!」
そんなことをわめいて、神村さんは僕を押し退けようと暴れ出した。僕は眉を寄せてから、「ダメだよ」と神村さんの両手をシーツに抑えつけた。それでも脚をばたばたさせて、彼女は僕を蹴やろうとしてくる。
「神村さん。大好きだよ」
僕は神村さんの顔に、顔を近づけてささやいた。神村さんは涙を浮かべながらも、憎悪のこもった目を僕に突きつけた。その瞳はとても生き生きとしていて、心臓を優しく、ざらりと舐められた気がした。
僕たちは、数年越しに愛しあった。神村さんの軆の奥に、何度も出した。僕が吐くたび、神村さんは抵抗することを手放して、虚ろに横たわっているだけになった。
僕は息を切らしながら、何度目か分からない射精のあと、ずるりと神村さんから自分を引き抜いた。
神村さんは抜殻みたいになっていた。全裸で、何の反応もなく、死体みたいだった。でも死んでいないのは、ぱた、ぱた、という人形みたいなまばたきで分かった。僕は息をついて、ベッドを降りると、仰向けの神村さんを見下ろした。
好きだった。ずっと好きだった。標本にして、誰も触れないように、僕だけのものにして、箱に飾っておいてしまいたいほど。彼女だけを愛していた。
でも、何か、セックスはまぐろでつまんなかったな。
僕の心の標本箱で、ずっと寂しく満たされなかった蝶が、ついに動きを止めて完全に僕のものになった。でも、その瞬間、僕はその蝶に興味がなくなってしまった。
僕の狂おしい初恋が、今、ようやく息絶えたのだ。
「何かごめんね。さよなら、帰っていいよ」
僕はそう言って、彼女の手にお金を握らせた。でも彼女は動こうとしない。
「ねえ、帰っていいってば」
僕は彼女の肩を乱暴に揺する。でも彼女は起き上がらない。ただ涙をこぼしている。
あの日、喉を裂いて箱に詰めた猫のように、ぴくりともせずに壊れている。
FIN