消える星

 中学時代みたいには過ごしたくなかった。レベルの高い県外の高校に進んで、誰も俺を知らない場所で新しい自分を作った。
 うまくいっていた。もう嫌がらせや無視はされない。夏休み、クラスにできた友達とはクラブで遊ぶ。普段は優等生をやっているぶん、意外と進学校の生徒のほうがこういう場所に繰り出すものらしい。
 その夜も、塾が終わったら友達と合流して市内に出て、夜には地下のクラブに顔を出していた。
 イルミネーションが空に伸びている。夜になっても熱気が蒸していて、階段を降りた先のクラブでは、音楽と笑い声が跳ね返っている。
 振動がそのまま軆に伝わってきた。煙草や香水の匂いが立ち昇っている。「前のほうで踊ってくる」と友達は混雑に紛れこんで、俺はカウンターでドリンクチケットを透明なカクテルに変えた。
 数日前、ここの近くのクラブで童貞は捨てた。年上の女の人で、リードしてくれて気持ちよかったけど、やっぱりつきあうまではいかなかった。
 連絡先はもらったけど、会ってもやるだけなのが分かっているから、何だかメールの文章も浮かばない。たぶんどうせ彼氏いるしなあ、と頬杖をついて、炭酸混じりのライムの香りを飲みこむ。
 新しい自分を作った。友達もできた。次は彼女が欲しいなと思う。クラスにいいなあと思う子はいても、近くに踏み出すほど駆り立てられない。
 かわいい子いないかな、と店内を見回しても、いいなと思えば男がすでにくっついている。いいと思ったものは値段が高いのと同じだ。男がいるのに割りこむのは面倒臭い。でもやっぱこの夏休みの課題は彼女だよな、と騒ぐ店内の連中を眺める。
 カクテルを飲みほしてしまい、クロークに財布を取りにいった。戻ってくると、俺がいた席で誰かがつぶれるように座っている。腕時計によると、午前二時だ。肩をすくめて、その隣は空いていたので腰かけてお代わりを注文した。
 ライムをグラスに落としながら、隣を盗み見る。女の子なのはキャミソールと肩の丸みで分かった。
 寝ている、のだろうか。泣いてないよな。落ちこんでるとかじゃないよな。何だか、ぜんぜん動かないのだけど。まさか一種の誘いとかでもないよな。声をかけてくるのを待っているとか──
 いや、自意識過剰か。顔も分からないのに関わって、後悔はしたくない。ほっとこう、とカクテルを飲んでいると、反対側の左隣に女の子が座った。
「人すごいね。イベントでもないのに」
 俺が彼女を見ると、彼女も俺を見たから返事をする。
「そうだね。てか、すげー汗かいてるね」
「もう踊り疲れたー」
「はは」
「もう帰ろうかな」
「今から? 家近いの」
「ひと駅歩くけど」
「危なくない?」
「送ってくれる人探す」
 俺は彼女の金色のメッシュやきらきらした化粧を見て、あんまり好みじゃないや、と思ったから、名乗り出ずに「頑張って」と受け流した。「ありがと」と彼女も特に食い下がることはなく微笑み、ドリンクを受け取ると席を立っていった。
 かわいい子はこっちから行かないと捕まらないよなあ、と息をついていると、ふと例のつぶれている右の女の子がうめいた。思わず目を向けると、肩が少し動いたけど、やっぱり顔は上げない。
 いきなりゲロ吐いたりしたらやだな、と思い、「大丈夫?」とだけ声をかけてみた。答えはない。軽く背中に手を当てて軆を揺すってみた。すると、「あー……」と声をもらしてその子がゆっくり上体を起こした。
「……大丈夫?」
 ほてった体温の背中から手を引いてもう一度問うと、彼女はようやく俺を見た。
 俺は目を開いた。けばけばしくない化粧、艶やかな黒髪、なめらかそうな肌は小麦色だ。けっこうかわいい──。ぽかんとする俺を見つめ、彼女は額を抑えて眉を寄せた。
「眠い」
「えっ」
「さすがに眠い」
「あ、ああ──。二時半近いしな」
「十二時くらいで勝手に閉店してくれるもんだと思ってた」
「こういうとこ初めて?」
「うん、まあ」
 彼女は睫毛をしばたいて、ちょっと厚ぼったい唇から長く息をつく。その声は意外とハスキーだけど、甘ったるい声より落ち着く。
「夏休みだからって、こっちに呼ばれたんだけどさ。ぜんぜん相手にされないから、飛び出してみた」
「あー……男に?」
「父親。一緒に暮らしてないから」
「そうなんだ」
「よく分かんまま、適当にここ来てみたけど、やっぱり特に何にもないし。来なきゃよかった」
 彼女はかたわらに置いていたグラスで、烏龍茶を飲む。「酒飲まないの?」と訊くと、「高校生」と返ってきた。
「俺もそうだけど」
「えっ、そうなの?」
「飲めるなら飲めば」
「いや、飲めない。まずいから」
「……お子様」
「うるさいなー」
 彼女は俺を肘で突いて、「ここ朝までやってんのかなあ」と頬杖をつく。
「一応、五時まで営業してるよ」
「マジか。あー、おかあさんとの家で、星でも見てたほうが楽しいや」
「星」
「星見るの好きなの。星空がすごいとこで育ったから」
 カクテルを飲んで、星か、と思った。
 星を見ようと思って見つけた場所なんて、当然俺にはない。でも、見えるかもしれない場所なら知っている。ビルの屋上、あるいは、ホテルの非常階段とか。
「星見たいなら場所あるよ」と言ってみると、「ほんと?」と彼女はぱっと表情を輝かせた。
「一緒に出る?」
「うん。あ、あたしは海帆みほ。君は?」
 俺も名前を言いながらスツールを降りる。友達には、声をかけなくてもいいだろう。「行こ」と自然に海帆の手を取り、俺たちはクロークの荷物を引き取って地上へと出た。
「うわ……すごいな。こんなの映画みたい」
 ネオンと人混み、路地裏にちらつく行きずりの影に、海帆はちょっとヒイた表情を見せながら俺についてくる。そして、そう言って俺の手を改めてぎゅっとつかむ彼女に、俺は少し笑う。
「俺も初めはそう思った」
「こういうとこ慣れてるの?」
「いや、実は俺もこの夏休みにデビュー」
「そうなんだ。高校一年?」
「うん」
「じゃ、あたしがひとつ年上だ」
「タメかと思った」
「そっちが年上に見えるよ」
「そんな老けてないし」
「はは」
 そんなことを取り留めなく話しながら、俺たちは雑居ビルの裏手にまわって、足音を響かせて非常階段をのぼっていった。
 ひと気がなくなって風は抜けているが、肌を舐めるかったるさは変わらない。喧騒が遠のいていく。ビルとビルの背中合わせで騒がしい電燈もない。月が浮かんでいるのを見つけて指さし、もう少し階段をのぼった。
 屋上までのぼりきれず、それでも十階くらいまで来た。散らばる星がささやかに光っていて、「わあ」と海帆は目を細め、手を離して身を乗り出した。
「危ないって」
「やっぱり、田舎ってすごい星が見えてるんだなあ。同じ空なのにね」
「俺はこのくらいの星しか知らないや」
「田舎の星空はすごいよ! 流れ星も普通だよ」
「え、流れ星ってほんとにあんの」
「あるよー。何でここは、これだけしか星が見えないのかな」
「空がそんなに澄んでないんじゃない」
「そっかあ。こっち来たら、星が見えないのかあ……」
 海帆を見た。海帆は天を仰ぎ、さらさらと夏風に髪をなびかせている。
「あたしね、おとうさんに認知されてないんだ」
「え」
「不倫でできたの。おかあさんだけあたしを認めて生んでくれたけど、ほかに認めてくれる人なんていなくて。おじいちゃんも、おばあちゃんも、町の人だって」
「………、」
「愛人の子供だって、汚いとか気持ち悪いとか、たくさん嫌なことされる。だからね、こっち来たら何か違うかなあって思って、おとうさんに『会おう』って言われて出てきたの。けど、変わんないや。こっちにも、あたしの居場所なんてない」
「……そうかな」
「おとうさんは、愛してるのはおかあさんとあたしだって言ってたけどさ。結局、離婚しないし。あたしを認知もしない。大事なのは、奥さんと義理の兄弟。向こうは“兄弟”とも呼んでほしくないだろうけどね」
 海帆は俺を見た。そしてにっこりすると、「ありがとう」と乗り出していた身を引いた。
「何か、話してすっきりした」
「……そっか」
「あはは、ごめんね。いきなり重い話でヒイたよね」
「いや。俺でよければ、話聞くよ。何というか、その、これからも」
「え」
「スマホ持ってない?」
「ガラケーなら」
「じゃあ、メアド交換しようよ。もっと話聞く。あ、その──俺でよければ」
 海帆はまばたきをしたあと、くすりと咲って「よし」とケータイを取り出した。俺もショルダーバッグからスマホを出す。
「通信できるかな」
「分かんない」
「じゃあ、俺のメアド直接入れるよ」
「ん。お願い」
 俺は海帆のケータイを受け取って、ガラケーに懐かしい感触を覚えながらメアドを入力する。ずいぶんフリックに慣れたので、打ちこみがかえってトロくなってしまう。それでも何とか入力すると、保存は海帆がやってくれた。
「俺のに入れてくれる?」
「あたし、スマホ使い方分かんないけど」
「じゃ、スペル言ってくれたら自分で入れる」
「分かった。えーと──」
 連絡先の新規作成を開いて、言われたスペルを入力した。「合ってる?」と画面を見てもらうと、海帆はうなずいた。そして視線が触れ合って、何だか咲ってしまう。
「ほんとにメールしていいの?」
「うん」
「ありがと。──あーあ、じゃあ帰ろうかな」
「まだ始発動いてないけど」
「泊まってるのは駅前のホテルだから。始発で田舎に帰るよ」
「え、もう帰るのか」
「どうせ、おとうさんは時間作ってくれないしね。こっち楽しくないし」
「……田舎は、つらくないのか」
「もう慣れたなー。おかあさんは分かってくれてるし」
「そっか」
「ふふ、心配してくれてありがと。じゃあね」
 そう言って、海帆は階段を降り始めた。俺はそのキャミソールの背中を見つめた。海帆は振り返らなかった。
 俺のことも、ちょっと話せばよかったかな。そう思ったときには、もう足音も聞こえなくなっていた。
 それから数日、海帆からのメールを待っていた。俺からメールしていいのか分からなかった。友達にどうしようかこぼしそうになっても、なぜかこらえてしまう。
 かわいい子は待っていても捕まらない。そんな自分の言葉を思い返した一週間経ったとき、思い切って海帆にメールを送ることにした。
『そっちで大丈夫か?
 もっとみほと話したい。』
 そんな短いメールを何度も読み返して、よく考えて、三十分くらいかかってやっと送信した。日中、クーラーの効いた部屋にいた俺は、ベッドに伏せって妙にじたばたとしてしまう。
 どうしよう。送った。メールしてしまった。待てなかったとか格好悪い。でも、何だかこのままではあっさり忘れられるような、そんな──
 そのとき、あんがいすぐに着信がついた。マジか、と慌ててスマホをタップして、メールを開く。そして思わず、「え」と声をもらしてしまった。
 海帆からの返事じゃなかった。解読したことはない、でも意味は知っている──エラーメッセージだった。
 何で。拒否? それとも、まさかメアドのスペルミス? いや、ちゃんと確認してもらった。もしかして、いい加減なメアドを渡された?
 分からない。分からない、けど──
 このメアドが使えないなら、俺は海帆とのあいだに何にも手段がない。
 マジか、と後頭部を予想以上のショックが殴った。バカか、俺は。メアド程度で、つながれた気になっていた。しっかり、電番とかも訊けばよかった。
 田舎というのが、いったいどこなのかも知らないではないか。あのクラブに行ったって、 “田舎”に帰ってしまったのなら再会もありえない。
 絶対、会えない。会えるなら、訊き直せるけど。会えないんだぞ。連絡することができないと、俺は彼女と何もつながれない。
 最後の頼みで、海帆からのメールが来るのを待っていた。勉強しながら、遊びながら、スマホをチェックしていた。けれど、夏休みが終わりかける頃になっても、海帆からの連絡はなかった。
 夏休みが終わる前に、友達とまたあのクラブに来た。この際、海帆が法螺を吹いたという結果でもよかった。あんな話をしておいて、またここに来るような女でも、また会いたかった。
 でも、やはり海帆のすがたは見当たらず、俺はひとりであのビルの非常階段まで来て、スマホを取り出した。
『今、あの階段で星を見てる。』
 そんな一文を、もう一度送信してしてみた。返ってきたのは、やっぱりエラーメッセージだった。
 空のかすかな星たちを見上げた。流れ星が見える、と海帆は話していた。
 流れ星はその星の最期だ。永遠と思えるような星も死ぬ。当たり前に輝き続けるようで、消えてしまう。そして二度とよみがえることはない。
 俺と海帆もそんなふうに、もう流れて終わっているのだ。すべてあの夜限りだった。会話も、笑顔も、つながった手も。悔しくて視界が滲む。
 もっと長く、一緒にいたかったのに。話したかったのに。咲いたかったのに。こんなにもあっさり、もう二度と会えないなんて。
 天を仰ぐと、星は霞んで見える。ちょっとだけ自分を嗤った拍子、頬に雫が伝う。何だか無性に情けなくて、そのまま俺は小さく嗚咽をもらしていた。
 外面が変わっただけだ。俺の内面は中学時代から変わっていない。本当は誰にも見てもらえない。気づいてもらえない。平然と無視される。
 海帆から連絡がないのは、それだけ俺には魅力がなかったということだ。俺の中身が空っぽだと、きっと海帆は分かったのだ。
 軆の中がどんどん冷たくなっていく。流れてしまった星のように、ただただ息絶えていく。消えていく。
 目を伏せて深呼吸して、「さよなら」とつぶやいた。誰に届くわけでもなく、その声はほのかな星明かりに飲みこまれていった。

 FIN

error: