光の扉まで

 仕事から帰ってきたおとうさんがお酒を飲みはじめると、おにいちゃんは私の手を引っ張って、そのアパートの一室から抜け出す。
 私は何度も振り返る。
 だって、おかあさんが。まだおかあさんが。
 おにいちゃんはこちらをかえりみることなく、ずんずんと夜道を歩く。冬も。夏も。そして、アパートのそばの海辺に出て、砂浜をざくざくと歩いていく。
「おかあさんが」
 波打ち際で私がむずがるように手を振りはらおうとすると、おにいちゃんはこちらをきっと睨みつける。でも、それに負けずに私は言葉を続ける。
「おかあさんが、また、たたかれてるよ」
 おにいちゃんの瞳が、一瞬、哀しいみたいに揺らぐ。でも、波にさらわれてしまうように、すぐ冷たい眼つきに戻る。
「じゃあ、お前ひとりで助けにいけよ。僕は知らない」
 言い捨てたおにいちゃんは、私がその場にしゃがみこむのも放って砂浜を歩いていく。
 ざく。ざく。ざく。
 いつもそう。幼稚園の私ひとりで、おとうさんを止められるはずがない。ううん、小学三年生のおにいちゃんとふたりがかりでも、無理だろう。
 誰もおかあさんを助けられない。私はその絶望感に泣き出してしまうけど、おにいちゃんの背中は容赦なく遠ざかる。
 やがて暗闇と涙で視界が濁って背中は見えなくなってしまい、「おにいちゃん」と私はかぼそい声をもらす。返事は返ってこない。涙でひりひりする頬を、潮の匂いが満ちる夏風がすべっていく。
 私はよろよろと細い脚で立ち上がり、ぐずりながら月明かりでおにいちゃんの足跡に目を凝らす。それをたどって、ぽろぽろ泣きながら歩いて、ふと、前のほうでおにいちゃんが立ち止まって振り向いているのを見つける。
 おにいちゃんの足跡をたどってきた私は、急に駆け出しておにいちゃんにしがみつく。おにいちゃんはむすっとした表情のままだけど、私の長い髪の頭を撫でてくれる。「今は無理なんだ」とおにいちゃんは言う。
「僕もお前も子供だから、何もできない。子供は何もできない。でも、大人になったら助けられるから」
「大人になったら、おとうさんが帰ってこないようにできるの?」
「できるよ。だから、今はここでじっとしておくんだ」
 私は泣きながらうなずき、おにいちゃんは私の肩を抱いて、その場に座りこんだ。
 飲みこむような海が広がっているけれど、映る月と星は輝いて、波の音はゆっくり心の澱みをすすぎおとしてくれる。おにいちゃんの体温が優しい。塩からい風の香りに髪をそよがせ、やがてうとうとしてきて、私はいつもどのぐらいそこで時間を過ごすのかよく分かっていない。
 おにいちゃんが「帰るぞ」と言って私の手を取り、そろそろと家に帰り、消燈していたらもう大丈夫の合図だ。鍵は開いたままになっている。
 翌朝、おかあさんは笑顔で朝食を振る舞ってくれるけど、たまに頬にぶたれた腫れや首を絞められた痣が残っている。おにいちゃんも私も、それについて触れることはしない。おとうさんが出勤してしまうと、私は物言いたげな目を向けてしまっても、おにいちゃんに手を引かれるので「いってきます」と部屋を出る。
 そのまま、おにいちゃんは中学生になって、高校生になった。私は小学六年生になった。おにいちゃんには、恋人らしき女の人ができて、よく外泊するようになった。でも、家の中は変わらないから、私はいつもまっすぐ帰らず、唇を噛んで波が打ち寄せる海辺を歩く。
 さく。さく。さく。
 ひとりぼっちの足跡が、心許なく残っていく。
 おにいちゃんは、背も高くなって、軆もがっしりしてきて、もう大人なのに。おかあさんを助けてくれないのかな。おかあさんや私より、彼女さんのほうが大事なのかな。おにいちゃんがいなくて、私だけでおかあさんを助けることってできるのかな。
 冬が近づく寒さの中で、彷徨うような足取りで歩いていると、夜も更けてきて、足元がもつれて転んでしまった。
 ざらざらした砂に手のひらをついて、呼吸を整えようとするほど、涙があふれてくる。どうしたらいいのか分からない。おにいちゃんの足跡を追うばかりだった私は、自分に何ができるか分からない。泡立つ白波がふっと指先を食んで、すうっとすぐに引いていく。
 何にもできないよ。
 おにいちゃんがいないと、私だけじゃ、おかあさんを助けられないよ。
「どうしたの?」
 突然そんな声が降ってきて、私はびくっと顔を上げた。見知らぬ若い男の人だった。「泣いてるの?」と言われて、私はぶんぶんと首を横に振り、立ち上がろうとした。
 すると男の人は私の手首をつかみ、体勢を立て直すのを手伝ってくれる。私はぼそぼそと「ありがとうございます」とだけ言い、その場を離れようとした。
 けれど、思いのほか男の人は私の手首をつかむ手に力をこめる。
「ちょっと話そうよ」
「え……っ」
「少しだけ」
「……私、帰らないと」
「何もしないから」
 私は眉を寄せ、そんな言葉を出す時点で、「何かする」ことをその人が考えていることを察知した。「離してっ」と乱暴に嫌がると、「いいじゃん、なぐさめてあげるから」と言われていよいよぞっとした。
 それでも力がかなわず、どんっと肩を押されてよろけたところを、砂浜に組み敷かれてしまう。「いや、」とうわごとのように口走った私に、その人はおおいかぶさってきて、胸元から服を引きちぎろうとした。
 そのときだった。
「てめえっ、俺の妹に何してんだっ」
 私はがたがた震えながらも、顔を上げた。私に馬乗りになっていた男の人の胸倉をつかんでいるのは、おにいちゃんだった。見憶えのある恋人の女の人も駆けつけていて、「大丈夫!?」と彼女さんは私を介抱してくれる。
 私は恐怖でばくばくとつづまりそうに早い鼓動に呼吸を痙攣させながらも、何とかうなずく。おにいちゃんに殴られて吹っ飛んだ男の人は、「何だよ、シスコンならもっと妹見張っとけっ」と吐いてその場を逃げ出してしまった。
「大丈夫か」
 おにいちゃんはその人を追いかけようとしたものの、思い直したように私のかたわらにしゃがむ。
「おにいちゃん……何で、ここが」
「家帰ったら、家にかあさんがいなくて」
「え」
「一緒に逃げてくれる人と逃げますって、手紙があって」
「………っ、」
「それでとうさんが切れてて……殴って放ってきたけど。もしかして、お前はかあさんに連れていかれたかと」
「……おかあさん──」
「俺と一緒に置いていかれたなら、ここだと思ったから。そしたら足跡があって、場所はすぐ分かった」
 私は深呼吸して、おにいちゃんの久しぶりの腕に身を預ける。「おかあさんのこと、探して追いかける?」と彼女さんが言って、おにいちゃんはかぶりを振った。
 私がゆっくりおにいちゃんと女の人を見較べると、「こいつはクラスメイトで」とおにいちゃんは私の肩をあやすようにとんとんとする。
「将来、弁護士目指しててさ。おねえさんも市内で法律事務所開いてるんだ。知識あるから、家のこと相談に乗ってもらってた」
「………、彼女さん……じゃ、ないの」
「いや、俺にそんな余裕あるかよ」
「でも、泊まったり……」
「ここ田舎だからな。おねえさんの事務所まで行ったときは、そのまま終電なくてネカフェで始発待ったりしてたんだ」
 私は胸の奥からほっとしたため息をついて、「よかった」とまた涙声になりながらおにいちゃんにしがみついた。昔と同じ体温が伝わってくる。
 おにいちゃんも私を抱きしめて、「さっきの奴、お前に何かしなかったか?」と訊いてくる。
「大じょ……夫、肩押されて、乗っかられただけ」
「……そうか。でも危ないな。俺はもうこの町出ようと思うけど、お前はそれでいいか?」
「出る、って。……住むとことか。お金も。仕事は?」
「──そのへんは私のおねえちゃんに相談すれば、ちゃんと取り次いでくれるよ。もうあなたたちは、この町に縛られてる必要はないと思う」
 そう言った女の人を見上げたあと、「私も連れていってくれるの?」とおにいちゃんに問う。おにいちゃんは私の頭を撫でると、「当たり前だろ」と微笑んだ。おにいちゃんが咲うところを、私は初めて見た。
 私たちは立ち上がる。おにいちゃんは私の手を握る。私もそれを握り返す。「夜中になって、部屋からざっと荷物取ってきたら、そのまま逃げるぞ」とおにいちゃんは言って、私はこくんとした。
 ずっとずっと垂れこめていた黒い絶望の中で、やっと燈火が灯ったように感じた。
 長いあいだこの暗い海辺を歩いてきた。
 さく。さく。さく。
 足跡を残して。
 その足取りがようやく光に届く。そして私たちの悲惨な足跡は、やっと波に流れて消える。新しい扉の向こう側に、この大切な手を離さないまま踏み出し、明日へと飛びこむんだ。

 FIN

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