もうすぐ今年が終わる。公人と通話しながら、来年の目標は「この恋をあきらめる」がいいのかなと考える。
この通話相手に、私はずいぶん片想いをしてきた。友達の彼氏の友達で、高校生のときくらいから視界の中にいた。だんだん気になりはじめた。二十歳になってからの飲み会で、初めてまともに会話して、ふたりで出かけたりもして、好きになっていった。
社会人になったある日、ふたり遊んだあとに夜道を送られながら、キスされたときにはびっくりした。一瞬、公人の匂いも感じた。その直後に、「ごめん、友達なのに」と公人はばつが悪そうに言った。
「友達……なの?」
「友達だろ」
「でも、」
「いや、つきあうとかねえし」
私は公人にとまどった目を向けた。「ほら、遅くなるぞ」なんて手を握ってくるのに、友達?
その後も、私たちのメッセのやりとりは続いた。通話もした。一緒にごはんも食べた。もはや部屋に泊めた。
でも、公人は「友達」という言葉を盾にして譲らなかった。ダメなのかなって、二十五歳の冬、ついにあきらめはじめている。今年のクリスマスイヴは、私の部屋でふたりで過ごしたけど、そんなシチュエーションでさえ何もなかったのだ。
公人の友達の彼女である李花を初め、友達はみんな私の肩をがっしりつかんで揺さぶる。目を覚ませと言わんばかりに。そして、口を揃えてきっぱりと言う。
「奈々乃、あんたは遊ばれてる」
「そう……かなあ」
「悪いことは言わないから、やめとけ」
「でも、李花が結婚も考えてる彼氏さんの友達でしょ。悪い人ではないと思うんだけど」
「あたしもそう思いたいけど、ずっと相談を聞いてきた身としては、奈々乃は遊ばれてるとしか思えない」
私は黙りこんで、アイスロイヤルミルクティーをストローでかき混ぜた。からんころんと氷が響く。今年の夏のことだ。クーラーが効きまくるカフェで、私は李花に懇々と説得されつづけた。
私は公人に遊ばれている。
でも、やっぱり公人はそういう人ではないかなと思う。本当に遊んでいるなら、もっとたやすいはずだと思うのだ。
今まで繰り返してきた、軆だけつまみ食いされるような恋。そのためにあっさり「好き」「愛してる」と言われ、キスしておいてセックスだけで終わる恋。公人が私で遊びたいなら、そんな恋が咲いて、散って、実ることなく、とっくに土に還っている。
よく分からない。公人はなぜこんなにまどろっこしいのだろう。やっぱり「友達」だからかな。眼中にないから、平然と私と過ごせるのかな。
そうだとしたら、私もこの恋心だけは殺したほうが──
『──奈々乃?』
スマホのスピーカーからの声にはっとした。公人のたわいない話が、ラジオの聞き流しみたいになっていた。
「あ、ごめん」
『ごめんって、聞いてなかった自白だし』
「……ごめん」
『いいけど。眠くなってきた?』
ベッドに横たわる私は、スマホを手に取って時刻を確認した。二十三時にはなっていない。
「眠くはない」
『そうか』
「………」
『………』
「………」
『……いや、寝てない?』
「寝てないよ」
『あと一時間で年越しだぞ』
「……ん」
そして、またもや沈黙してしまう。どうしてかな。私のせいかな。恋心をつぶせば、公人と気軽に話せるのかな。公人の声を聴くだけで、切なくて苦しくて、哀しくなってしまうのが消えるのかな。
私はスマホをまくらもとに置いて、仰向けになった。
『……あの』
「ん?」
『何というか、もう会うか』
「はっ?」
『今から』
「何で」
『会えば会話になるかも』
「通話でいいよ」
『君の好きなコンビニモンブランを買っていこう』
「うー」
『決まり。今からそっち行くよ』
「今から来ても、帰りの電車ないよ。泊まるの?」
『正月だから、深夜も電車動いてるだろ』
「あー……」
『じゃああとでな』
あっさり通話が切れる。私はスマホに背を向けて丸くなった。モンブラン、もとい、公人の顔を見れることに釣られてしまった。
適度な雑音が欲しくてテレビをつけた。ぜんぜん観ることはせずに、目を閉じる。
眠くない。むしろ、今から公人に会えることが嬉しくて、どきどきしている。
テレビからカウントダウンが聞こえてきた。一緒に年越すかって話で、私たちは通話をしていたはずだけれど。
まだ来ない。ドアフォンは鳴らない。着信も通知も鳴らない。
テレビの中がにぎやかに年を越した。スマホの通知が続いた。確認すると、女友達からばかりだ。李花は婚約者の彼さんとのツーショを添付してきた。すごくいらない。
公人、ほんとに来るのかな。
うっすらそう思いはじめた頃、着信音が鳴った。私は手の中に持ったままスマホを見て、目を開く。
公人だ。
「もしもし」
すぐにタップで応答すると、まずは鼻水をすする音がした。
『起きてるか』
「うん」
『寒いな。手が凍る』
「今どこ?」
『あなたの部屋の前にいるの』
私は少し噴き出し、身を起こすとベッドを降りた。廊下を抜けて玄関を開けると、ドアの向こうからがさっと小さな音がした。
ダウンを着込んでイヤマフをつけて、マフラーまで巻いた公人がそこにいた。手にはビニールぶくろを提げている。モンブランだと思う。
「年、もう越したよ」
「うん。ごめん」
一応悪いとは思っているのか、公人は何やらうつむいている。
「上がるでしょ」
「……奈々乃」
「ん?」
「俺、会いたくて」
「えっ」
「すげー会いたくて」
「………」
「ごめんな」
「謝る理由が分かんない」
公人は急に顔を上げた。その表情にびっくりした。切なくて泣きそうな顔だったのだ。
「好きなんだ」
「は……?」
「奈々乃が好きだ」
「………」
「俺にお前を幸せにできるか分かんねえけど、好きなんだよ」
「え……っと」
「幸せにする自信がないくらいなら、こんな気持ちは押し殺さなきゃって思ってきた。でも、どうしても奈々乃が好きなんだ」
ぐいっと腕を引かれ、前のめりになった私は公人の腕の中にいた。抱きしめられながら、うそ、とやっと頭が混乱を起こしはじめる。
これは夢?
そう思ったとき、唇にかさついた感触が触れた。キス。あのとき以来のキスだ。待って、どうしよう。このあとまた友達とか言われるの? あるいは、部屋に上がってきて私を抱いてしまうの?
ゆっくり顔を離した公人は、わずかに頬に色味を差しながら、嬉しそうにつぶやいた。
「柔らかい……」
私は公人を見つめた。震えた息がこぼれた。きゅうっと熱くなった目頭から、涙がぽたぽた落ちていく。
「あっ、……ごめ──」
「私も、好きだよ……っ」
「へっ」
「好きに決まってるでしょ」
「奈々乃」
「公人のこと、ずっと大好きだったよ」
公人にぎゅっとしがみついて、私は泣き出してしまった。名前を何度も呼ばれても、おろおろと頭を撫でられても、躊躇いがちに肩を抱かれても、ぼろぼろと涙が止まらない。
「お、俺も、奈々乃のこと大好きだよ」
しどろもどろに公人が言うと、私はこくんとうなずき、ようやく顔を上げた。公人の視線が優しい。私が微笑むと、公人もほっとしたように咲った。
「えっと、奈々乃は……ひとり、だよな」
ひとり暮らしの部屋の中を窺う公人に、「ひとりだよ」と私は答える。
「寒いから上がっ──」
「いや、ダメだ」
「え」
「そうだ、このまま初詣行こう」
「何、で……?」
「そんなん、……我慢できねえだろ」
「………」
「クリスマスイヴとか、めちゃくちゃ我慢したんだぞ」
「……私も我慢した」
公人は私を見つめ、言いにくそうに「ゴム……あんの?」と言った。私は首を横に振った。
「ダメじゃん」
「ダメなの?」
「安全日でも生はダメ」
「……そうなんだ」
「奈々乃、そのへん適当なの?」
「つけたがる男の人は初めて見た」
「奈々乃はつけなくていいの?」
「……つけたい」
「じゃあ、男は黙ってつけるんだよ」
「そうなのか……」
私がぽつりと言うと、公人は焦れったそうに唸って、「俺が守らなきゃダメじゃん!」と言った。その言葉が、何だかじんわり嬉しかった。
「まあ、今夜は初詣行こうぜ」
「うん」
「すげー寒いぞ。あったかくしてこい」
「分かった」
「で、これは冷蔵庫入れとけ」
「モンブラン?」
「ん」
私はいそいそとビニールぶくろを受け取り、公人を玄関まで招き入れた。モンブランを冷蔵庫にしまって、ニットとコートを着込み、ロングマフラーをぐるぐる巻く。最低限の手荷物をバッグにまとめると、玄関に戻って「あったかくした」と公人を見上げた。「よし」とうなずいた公人と共に部屋を出て、駅に向かう。
初詣のために、確かに電車は深夜も確かに動いていた。けっこう混んでいる。みやびやかな着物すがたの女の子もいる。座ることは無理そうだと思っていたら、偶然、目の前の席にいたカップルが降りて私たちは座れた。何でこんなとこで降りるんだろ、と思ったら、車窓にラブホテルのネオンがいくつか見えて、静かに納得した。
席に座れると、ほっとして少し眠気を感じてきた。車内には暖房もかかっている。うとうとしていると、公人が私の頭を引き寄せて肩に乗せてくれた。
「寝ちゃう……」
「乗り換えでちゃんと起こすよ」
「でも」
「いいんだ。俺は奈々乃が恋人として隣にいてくれるだけで嬉しい」
そんな優しい声に、私はこくんとすると、素直に公人の肩にもたれた。
……ああ、夢だったらどうしよう。眠りに落ちた瞬間、部屋でひとりで目が覚めたらどうしよう。少し怖い。だけど、ああ、もう夢でもいいかもしれない。
ずっと好きだった。私も恋人として公人の隣にいられて嬉しい。夢だったとしても、私はこんな夢を見られるだけで幸せだ。それくらい、公人のことが好きなんだ。
かたん、ことん。
覚えている匂いがする。
かたん、ことん。
やっぱり夢じゃないのかな。
かたん、ことん……
ゆらゆらと思う中で、心地よい電車の揺れのまま、私は眠りに落ちていった。
FIN