崩壊前夜

宏貴ひろき、今日一緒に寝てもいい?」
 十二月の冷えこんだ夜、ねえちゃんが俺の部屋に来て、いきなりそんなことを言ったときはビビった。思わず噴き出して、「何の冗談だよ」と言ってしまったぐらいだ。
 しかし、ねえちゃんは思いがけない真剣な面持ちで、ドアを閉めると、宿題をしている俺に歩み寄ってくる。
「一緒に寝るだけだから」
 俺は眉を寄せて、ねえちゃんを見上げた。
 俺は小六で、ねえちゃんは中三。もうとっくに、添い寝なんて歳ではない。
「嫌だよ、宏志ひろしにいちゃんに言えば?」
「絶対やだ」
「俺も姉貴と寝るとか嫌だよ」
「隣で寝るだけ。ほんとに」
「えー……」
「お金あげるから。百円」
「百円かよ。ほんとに横に寝るだけ?」
「うん。触ったりしない」
「当たり前だろうが。姉弟だぞ」
「そうだけど……」
 ねえちゃんは、わずかに睫毛を伏せる。
 姫カットのサイドに黒のロングヘア。なめらかな白い肌をしていて、何より胸がでかいので、俺の友達が家に遊びにきて、ねえちゃんを見るとけっこう色めきたつ。
「まあ、百円じゃ割に合わねえから、宿題は教えろよ」
 俺がそう言うと、姉ちゃんはぱっと顔をあげて、笑顔になるとうなずいた。
 そんなわけで、ねえちゃんに手伝ってもらってさくっと宿題を片づけると、二十三時が近かったので、俺からベッドに入った。
「お邪魔しまーす」
 何だかちょっと嬉しそうに、ねえちゃんも俺のベッドに入ってくる。ふたりぶんの重みにスプリングがきしむ。
 シングルベッドだし、やっぱりさすがにせまくて軆がくっつく。まあ姉貴とくっつこうが何もねえけどな、と思っていたら、ねえちゃんは腕を伸ばして俺を抱き寄せ、わしゃわしゃと頭を撫でてきた。
「触らないっつっただろ」
「かわいいなと思って」
「はは、俺はともかく、好きな男には褒め言葉と思って『かわいい』とは言うなよ」
「男の子って『かわいい』って言われたくないの?」
「言われたくないわ」
「そうなんだ……。気をつける」
「気をつけろ。で、放せ」
「いいじゃない。仲良しなんだから」
「親が見たら心臓吐くぞ」
「そしたら、また口に突っ込めばいいでしょ。とにかく、こうやって眠りたいの」
 ねえちゃんの軆は、温かくて柔らかい。初冬の今、抱きつける湯たんぽとでも思うしかない。
 俺はリモコンで明かりを消すと、ねえちゃんのほのかな甘い匂いを感じながら、まぶたを伏せた。
 静かな夜だった。その中で、ねえちゃんの規則正しい鼓動が鼓膜にとくんとくんと流れこむ。けっこうぽかぽかするし、わりと寝れそう、と意識がゆらりと睡魔にかたむいたときだった。
「宏貴」
 不意にねえちゃんの声がして、微睡みから引き戻される。何だよ、と俺は息をつく。
「あのなあ、寝かせろよ」
「このまま聞いてほしいんだけど」
「眠いんだよ」
「私、おにいちゃんの子供を妊娠したの」
 ──は?
 俺は、ねえちゃんの胸から顔をあげた。
 何。何て? にいちゃんの子供って──。
 暗くてねえちゃんの表情が見えないから、急いでリモコンで電気をつけた。
 ねえちゃんは、無表情のまま、いつのまにか泣いていた。その故障したような瞳で、嘘ではないことが直観で分かった。
「な……何、にいちゃんとねえちゃんって、恋人……なの?」
「違う」
「じゃあ、」
「おにいちゃんは分からないけど、私は家族としか思ってない。……思ってなかった、かな。もう家族とも思いたくない」
「無理やり、だったのか?」
「うん」
「にいちゃんは、妊娠のこと……」
「知らない」
「どうすんだよ。まさか生むの?」
「生みたくない」
「じゃあ、その……早く、堕ろさないと」
 ねえちゃんはまばたきで涙をはらい、「六年生でも、もうそんなこと知ってるんだね」と力なく咲う。
「いや、友達で、もうエッチやってる奴もいるしな」
「宏貴もしてるの?」
「してないよ、悪かったな」
「悪くないよ。好きな人とするんだよ、こういうことは。どうでもいい人と済ますなんてダメだし、まして、無理やりなんて最悪」
「………、とうさんとかあさんに言おう」
「嫌だ」
「何でだよ」
「あのまじめなおにいちゃんだよ? 私が誘惑したってことにされたら、おとうさんもおかあさんもそれを信じる」
 反論できなかった。実際、にいちゃんは俺には良い兄貴なのだ。
 でも、なぜか、ねえちゃんを犯すなんて信じられないという感情はなかった。ねえちゃんの涙を先に見たからかもしれないけど……
「じゃあ、にいちゃんから……認めて、ねえちゃんは悪くないって親に言わせる」
「おにいちゃんがそんな──」
「俺が認めさせる。ねえちゃんはちょっとここで待ってろ」
「宏貴」
「俺はねえちゃんの家族だよ。だから、守らなきゃいけない」
 俺がそう言った途端、ねえちゃんは肩を震わし、またぽろぽろと大粒の涙を落としはじめた。
 いつから、だったのだろう。ねえちゃんはどれだけひとりで抱えて苦しんできたのだろう。そして、腹の中の命にどんな想いなのだろう。
 俺はぬくぬくしたベッドから冷たいフローリングに降り、クローゼットから野球のバットを引っ張り出した。それを見て、ねえちゃんがはっと身を起こし、「疑ってるわけじゃないけど」と俺はねえちゃんを冷静に見つめる。
「マジで、冗談とかじゃないよな?」
「……うん」
「じゃあ、取り返しつかないことを、取り返しつかないやり方でクソ兄貴に分からせてくる」
「宏貴」
「ん?」
「家族は、ばらばらになる?」
「………、少なくとも、俺とねえちゃんは変わらないよ」
「………」
「それは約束する。だから俺に話してくれたんだろ」
「私が家出すればいいだけなのかもしれないけど……」
「バカ。ねえちゃんは今まで通り、俺のねえちゃんでいたらいいんだよ」
 ねえちゃんは顔を伏せ、嗚咽をもらしながら「ごめんね」と何度もつぶやいた。俺はバットを右手に提げ、「行ってくる」とドアまで歩く。
 今から、にいちゃんをぼこぼこにする。殺すかもしれない。分からない。少なくとも、朝一でニュースになって、俺は警察に連行されるのだと思う。
 それでも、ねえちゃんのことは守る。この約束に理由なんかない。そんなもんいらねえ。
 姉貴が頼れるのが俺だけなら、俺はやるだけだ。
 静かな怒りが昂っていく中で、深呼吸してバットを握ると、俺はドアノブに手をかけた。

 FIN

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