僕の担任の峰崎先生は、女子を大人にするといううわさがある。
それが何を意味するのか、はっきり言われることはない。でも、同い年の男よりませている小学校高学年の女の子たちは、そんな峰崎先生を避けることなく、むしろその周りによく集まっている。
処女なんかさっさと捨ててしまいたい。みんなそんな軽率なことを考えている。そして、峰崎先生はその「相手」になってくれると──秘かに、そうささやかれている。
たぶん、女の子たちから望んで関係するのだろう。だったら、いいことなのだろうか。いや、やっぱり大人として悪いことなのか。僕には分からない。
峰崎先生は優しい。まだ三十にもなっていなくて若いし、けっこう美青年と言っていいルックスだ。僕のこともちゃんと気にかけてくれる。友達がいなくて、イジメられることさえなく、いつも教室を浮いている僕にも、峰崎先生だけは目を留めてくれる。
心配されて声をかけられると、何だかどきどきする。長い睫毛、丸い漆黒の瞳、柔らかい髪、潤んだ唇や白い肌──先生はそんな僕の女の子のような容姿を見つめて、一度ぎこちなく目をそらしてから、改めて見つめてくる。
切れ長の涼しげな瞳。僕はその瞳を想って、いつも自分をなぐさめる。先生に見つめられている妄想の中で果てる。手の中で粘つく白濁にほてった息をつき、もっとあの瞳で、僕を舐めるように見てほしいと思う。
部屋にこもって過ごした冬休みが明けて、また峰崎先生に会える毎日が再開した。先生は相変わらず女の子たちに囲まれている。ストーブの焚かれる教室で、僕はそれを席から動かずにそっと見つめている。
「それ」に気づいたのは、その日、とりわけ鳥海さんが先生と言葉を交わしていたからだった。先生が素早くさりげなく鳥海さんに何か握らせた。手の中を見た鳥海さんは、ぱっと笑顔になって、先生に向かってうなずいてみせた。
先生はそれに目配せだけ返し、教壇に立って国語の授業を始めたけど、僕はそわそわ落ち着かなかった。ああ、女の子はいいな。先生に見てもらえるだけでなく、愛してもらえる。
何で僕は男なんだろう。どんなに女の子に見える容姿でも、しょせん男だ。僕も、女の子たちみたいに、先生に大人にしてもらえたらいいのに。
その日、僕は五時間目の体育の授業をサボって、駆け足で誰もいない教室に向かった。何の遠慮もなく鳥海さんの席の引き出しを開けた。それらしきものがないか探した。クリアファイル。ノートや教科書。ペンケース、ポーチ、財布。なかなか見つからなかったけど、つくえの上にたたんである鳥海さんの服の名札に気づいて、何心なく裏を見て目を開いた。小さな紙がたたんで入っている。僕はそれをつまみだして広げた。
『今日の放課後
四時半には教室を空ける』
どくん、と心臓の脈がくっきり腫れて、神経に刺さる。ノートや連絡帳にいつも書いてある、峰崎先生の字だ。
四時半──終業の三十分後。教室──この教室だろう。
やっぱり、うわさは本当なのだ。先生は女の子のことを大人にしている。
紙をたたんで戻した僕は、ふらふらと自分の席に座りこんで、つくえに伏せった。
今日。このあと。峰崎先生は鳥海さんと。僕は肩を狭めてつくえの木の匂いに泣きそうになった。ストーブも切ってある真冬の教室で、爪先が凍えて少し痛い。
先生。僕には絶対そんな紙切れはくれない先生。気にかけてくれるけど、僕にはそれだけしかしない先生。何で。僕だって、先生と……したいのに。
「──芽野? いるか?」
おぼろげな隣のクラスの授業の声以外は静かな中、寒気にぼんやりしていたときだ。
突然、教室の扉が開いてそんな声が割って入ってきた。軆が冷えこんで半分眠っていた僕は、ぽかんと顔を上げた。目の前に、峰崎先生が駆け寄ってきていた。
「よかった……。ここにいたのか」
僕が先生を見つめると、先生はやっぱり一瞬目を伏せ、また見つめなおしてくる。
「体育なのに運動場にいないから、心配したぞ。みんなどこにいるか知らないって言うし」
「……すみません」
「具合が悪いのか?」
「………、はい」
「じゃあ、見学でいいから外に出なさい。それか、保健室で休むか?」
「外、行きます」
「よし。立てそうか?」
先生が僕の肩を抱えて、椅子から立たせてくれる。その筋肉とか体温が僕の細い軆に伝わって、またどきどきする。
このまま、先生の胸に倒れこんでしまえたら。そしてぎゅっと抱きしめられたら。
でも先生はあっさり軆を離し、僕をひとりで立たせると、椅子をしまってから「行こう」と僕の頭をぽんぽんとした。その手が数時間後には鳥海さんの軆を開いていると思うと、息苦しいほどの黒い嫉妬を覚えた。
ここで、あのメモを見たことを先生に言ったら、せめて今日の放課後は阻止できるのだろうか。でも、鳥海さんの持ち物を勝手に漁ったのが気まずくて言えるわけがなかった。
僕は先生と木枯らしが音を立てる外に出て、朝礼台のそばに溜まっている見学組に混ざった。今日の体育は、二月のマラソン大会に向けて持久走らしい。サボれてよかった、と思いながら、僕は膝を抱えて峰崎先生の背中を見ていた。
先生だけは僕を見てくれる。気にかけてくれる。なのに、やっぱり手は届かない。友達ができなくて心配な生徒というだけで、この軆に触れてくれることはない。
体育の授業が終わって算数の授業があって、帰りの会も手短に、すぐ放課後になった。鳥海さんは自分のつくえに腰かけて、嬉しそうに先生を見つめていた。先生は残ろうとする生徒たちを帰らせていき、僕も「また明日な」と言われて追い出されてしまった。
三階の教室から、僕はいったん靴箱まで下りた。靴は履き替えないまま靴箱にもたれて、スマホを見ていた。
もちろん、僕とメールをしてくれる人なんていない。メル友とかにも興味はない。スマホの中にあるのは、ほとんどヒマつぶしのアプリだ。
ゲームをしながら、右上の時刻表示が十六時半を過ぎるのを待っていた。そういう行為がどのくらいの時間をかけるものなのか分からなかったけど、四十五分を過ぎて僕はスマホの画面を落とした。そのスマホを握って、自分の教室に慎重な足取りで戻った。
教室は外からは密室にできるけど、中からは後方の扉しか鍵はかけられない。中から物音はしている。
僕はふくれあがった鼓動を深呼吸で飲みこみ、震えそうな冷たい指でほんの少し前方のドアに隙間を作った。息をこらえたうめくような声と、深い息遣いが重なって聞こえた。
心の中が、一瞬、見たくないと拒絶反応を起こした。でも、その気持ちを踏みつけて教室を覗いた。
そこでは、峰崎先生と鳥海さんが服を乱して交わっていた。鳥海さんは誰かのつくえに腰かけて、白い脚を開いて、先生の軆にしがみついている。
そんな鳥海さんを先生も抱きしめ、おろしたファスナーからのものを開かれた脚のあいだに刺しこんでいる。先生が腰を引いてからぐっとつらぬくと、がたん、とつくえが動いて、鳥海さんは蕩けた表情で軆を痙攣させ、甘い声をこぼす。
先生は鳥海さんのみつあみをほどいた長い髪を撫で、ふくらみかけた胸をまさぐって、首筋に口づける。つながっている水音が跳ねる。ゆっくり、でも確かにふたりは軆を重ねていて、鳥海さんは確かに大人の女の人に見えた。
僕は息を唇を噛んで殺し、手の中のスマホを持ち上げた。こういうとき、スマホは指を滑らせるだけでよくて、操作の音も消せるからいい。
僕は消音カメラアプリを起動させた。そして、カメラ越しにもう一度ふたりを見た。夕映えが射しこんで、映画みたいに綺麗に見えるのが癪だった。もっと、淫らに、卑しく、陰湿に撮れたらいいのに、先生の腰遣いがすごくなめらかで、きっと「上手」だったから、オレンジ色の愛情のシーンみたいな写真が何枚か撮れた。
僕はドアの隙間を閉めると、階段を降りながらその写真をクラウドに上げておいた。
ようやく上履きをスニーカーに履き替えて、先生がいやらしいことをしているのを見たのに、ぜんぜん興奮していないことに気づいた。鳥海さんが忌ま忌ましいだけだった。あんなに気持ちよさそうな顔で、先生に抱いてもらって、……女というだけで。
女の子なんか、処女を捨てたいだけではないか。僕は真剣に先生が好きなのに。
それから数日経った。一月が下旬に入る頃、給食を食べ終えて、昼休みにひとり、つくえに耳を立てて行き交う足音の響きを聞いていた。「芽野」と声をかけられてはたと顔を上げる。そこには峰崎先生がいて、僕を見つめてくれていた。
僕はその瞳の中の自分を捕らえ、先生は息をつくふりで一瞬目をそらす。それからもう一度僕を見ると、「友達と遊ばないのか」とつくえのかたわらに腰をかがめて、僕を覗きこんできた。
僕はうなだれてのろのろと身を起こしてから、ざわつく胸を抑えて口を開く。
「先生……」
「ん?」
「先生……は、僕の話を聞いてくれますか?」
いつも「平気です」とか「大丈夫です」とかしか答えない僕がそう発して、先生はちょっと驚いた様子でも微笑む。
「話したいことがあれば、もちろん聞くぞ」
僕は先生を見て、するとあの夕射しの中での情交がフラッシュバックして、心臓がきしむ。目を伏せてから、ゆっくり言葉を選ぶ。
「じゃあ、今日の放課後に……いいですか」
「ああ。どこか教室借りるか?」
「どこでもいいです」
「そうか。じゃあ、放課後に使える教室を確保しておくよ」
僕がこくんとすると、先生は僕の頭をぽんぽんとした。僕は先生を見上げる。先生は優しく笑んで、「やっと話してくれる気になったなら嬉しいよ」と言った。僕は小さくうなずき、「先生とはずっと話したかったです」とつぶやいた。
「そうなのか? 小うるさく思われてると思ってたけど」
先生は笑って、もう一度僕の髪をくしゃっとすると教壇の隣の先生のつくえに座って、何か作業を始めた。僕は気づかれないように先生を見つめて、あの人に触れてもらえるなら手段は選ばないと、靴紐を締めるように改めて誓った。
放課後、今日の日直に鍵を預けた先生は、僕を二階の空き教室に連れていった。「委員会のときとかには使ってるし、そんなに汚れてないから」と先生は僕の手を取って、中に引きこんだ。
指に先生の熱がじわりと滲む。鼓動が痺れて、頭が少しはじけそうになった。教室はカーテンもなくて明るく、でもやっぱり寒くて身を縮めてしまう。窓では青空がパノラマになっていた。物音は時計の秒針だけだ。先生は僕の手近の席に座らせると、隣の席に腰を下ろした。
「何か、先生に話したいことがあるんだよな」
僕は先生のほうに首を曲げて、こくんとした。
「イジメはないように見えてるが、やっぱりクラスの誰かのことか?」
首を横に振る。
「じゃあ、うまく友達を作れないこと?」
かぶりを振る。先生は躊躇ってから、もうひと押し訊く。
「家のことか?」
僕は頭を振って、ポケットからスマホを取り出した。操作で焦らないように、あの写真を壁紙にしておいた。僕はスワイプで画面を起こすと、スマホを先生にさしだした。先生は怪訝そうに受け取ったものの、そこに写っていたものにはっと目を開く。
「……ほんとだったんですね」
僕がぽつりと言うと、先生は何か言おうとするものの、言葉にならないのか、声が出ないのか、ただ焦った目を向けてくる。
「先生が“大人”にした女子って、鳥海さんだけじゃなくて、きっとたくさんいるんですよね。何人くらいですか?」
先生がスマホを取り落としそうになったので、僕はそれを受け止めて、画面を落とした。
先生の目が魚の目みたいにまばたきを失っている。頬がほてっているのも見て取れる。息遣いが細くなって、震えをこらえるように手をぎゅっと握りしめる。
「……芽野、には」
「はい」
「芽野には──」
先生を見つめた。先生はその言葉の先を続けなかった。うなだれて、苦しげに頭をかきむしって、動揺で瞳の焦点を失っている。僕はスマホをつくえに置いて、先生の手の甲に白くて細い手を置いた。先生は薄く涙でゆがんだ目で僕を見た。
「治そうとは、思ったんだ。いや、思ってるよ。何度も、もう終わりだ、次はやらないって思うんだ。でも、どうしても……子供しか、お前くらいの子供しか、見れないんだよ」
先生は息を吐き、「ごめん」と言った。
「気持ち悪いよな。いいよ、別にほかの先生に言っても。そうしたほうがいい」
「先生」
「何で教職なんかについて、自分をふらふらさせてるのか分からな──」
「僕は?」
「えっ」
「僕はダメですか?」
先生は驚いて僕を見た。瞳が絡まって、締めつけられるほど見つめあう。それから、ゆっくり先生が目をそばめた。
「芽野、は──男だろう」
「男はダメですか」
「……女の子みたいに、理屈もつけられないだろう」
「でも僕、自分で言うのも何ですけど、そのへんの女子よりかわいいですよね?」
先生は目を背けたまま何も言わない。僕は先生の手をきゅっと握って、身を乗り出した。
「それに、先生の目にずっとどきどきしてました」
「え」
「僕は先生が好きです」
先生の目が、ぎこちなく僕のまっすぐな瞳をたどる。視線が溶けるように見つめあい、僕は先生の指に指をもつれさせて強く握る。
それから、僕は椅子を降りて床にひざまずき、先生のスラックスのファスナーに手をかけた。「芽野」と言われたけど無視してそれを下ろすと、下着の中で少し勃起していたからちょっと驚いてしまった。先生が僕で硬くしてくれている。それが嬉しくて、僕は下着越しに舌を這わせた。
先生は声をもらし、同時に先走った液体が染み出して下着を濡らした。僕は先生とつないでいた手も離し、丁重に先生のものをあらわにした。
小学五年生の僕のものとはぜんぜん違った。僕はその脈に頬を当てて息をつき、根元に口づけて、舌で先端までなぞった。
やり方なんて分からないから、僕がそうされると思うとぞくぞくすることを先生にした。口の中には入りきらなくて、喉まで飲みこむことはできなかったけど、そのぶん音を立てて先生が充血するように舐めた。
先生は息も声も殺し、椅子の背もたれをつかんで耐えていた。僕は先端を含んでついばみ、根元や玉は手で刺激して、時間をかけて先生を味わった。
「……芽野、もう──」
僕は先生を上目遣いを見て、くわえるまま「飲ませてください」と言った。
「でも、」
「飲みたいです」
先生の表情は、罪悪感と快感が入り混じって性的で、僕の股間も疼かせた。僕は先生を舐めながら、自分のものを手で少し触って、甘い香りのようにふわっと広がった快感にくずおれそうになった。
先生。先生のものをしゃぶっている。それに興奮して僕も感じている。ずっとこうしたかった。先生と、こうして、溺れるように──
びくん、と先生のものが大きく跳ねた。その瞬間、口の中に先生がいっぱい射精した。口の中いっぱい溜まった生臭い味を、こくん、こくん、と少しずつ飲みこんでいく。そしてやっと顔を上げると、先生は僕を見下ろしていて、気まずいような何とも言えない顔をしていた。
僕は先生の後始末をして立ち上がり、椅子に座りなおした。先生はうつむいている。「やっぱり、男にされると嫌でしたか」と訊いてみると、わずかながら、首を横に振ってくれた。よかった、と少しほっとする。
そして膝の上で先生の感触が残る手のひらをさすり、理由を話そう、と決めた。すると脳裏に飛び散る心象に麻痺した笑みがこぼれたけど、「先生」と僕は口を開く。
「僕、父にも母にもぜんぜん似てないんです」
「……えっ」
「父は僕を母が浮気した子供だと思ってます。でも、母はそんなことは絶対にしてないって言ってて、自分にも父にも、突然変異みたいに誰にも似てない僕を怨んでて。両親は昔から僕を見てくれませんでした。両親だけじゃないです。学校でもみんなの中に入れなくて、仲間外れで。誰も僕を見てくれない。でも先生は見てくれました。だから好きなんです。容姿のいい子供だからって理由かもしれないけど、先生は僕を見てくれる」
「芽野──」
「でも、子供だからなんですよね。僕が大人になったら、先生の対象じゃなくなって、見てもらえなくなる。先生が見てくれるのも終わってしまう。それなら、今のうちだけでもいいんです。僕を見ててくれませんか」
先生が僕を見つめなおし、今度は僕が泣きそうでうつむいた。
しばらく沈黙が流れて、不意に先生は手を持ちあげて僕の頬に触れた。指先の熱が頬の柔らかみに溶ける。そのまま、先生はその手を僕の首に、背中にまわし、抱き寄せてきた。僕は先生の胸板の筋肉に顔を当てた。
「芽野」と呼ばれて顔を上げると、唇に温もりが触れてくる。僕は先生のシャツを握った。先生は僕の軆に丁重に触れて、キスを落とした。敏感になった肌にその唇の感触で僕は震え、息を少し荒くしてしまう。先生は僕の上半身を脱がして、乳首を吸いながらふくらんだ僕の股間にも触れてくる。
僕は先生の首に腕をまわして、濡れた吐息を混ぜながらささやいた。
「……儚いです」
「え」
「子供しか見れないなんて、儚いです。いつかみんな大人になるのに。僕はそう思います」
先生は僕を見て、ぎゅっと抱きしめてきた。頭から背中を柔らかくさすり、「ありがとう」と先生は言った。
「誰も、きっとそんなふうには言ってくれないよ。俺はただの変態だ。でも、芽野が分かってくれてるなら、それでいいよ」
僕たちは視線を重ね、再び口づけを交わした。先生は僕の舌を絡めとり、口の中を探って気持ちよくしてくれる。そのあいだも、先生は僕をこすってくれていた。ジーンズのジッパーを下ろし、直接触ってしごいてくれる。
いつも自分でしていた。先生の瞳を想いながら。今、僕は先生の瞳の中で、先生に触ってもらっている。どうしよう。すごく幸せだ。ずっとこのままでいたい。先生を誰にも渡したくない。いつか僕は大人になって、先生の対象ではなくなるのに──。
やがて僕は陶酔する軆を引き攣らせ、先生の手の中に白濁を吐いた。先生は自分の手に散った僕の精液を舐めてくれた。僕はそれを、先生の肩に頭を乗せて見ていた。
いつのまにか、夕暮れも終わって教室は暗くなっていた。軆は熱を帯びていたから寒くはなかった。先生は夜道は危ないので車で送ると言ってくれた。僕は素直にうなずき、帰り支度をまとめる先生を靴箱で待って、一緒に校舎の裏手の駐車場に向かった。
先生は僕を助手席に乗せて、自分の運転席に乗りこんだ。暖房を入れたらすぐ出発するかと思ったら、先生はシートにもたれて前方をぼんやり眺めた。
「先生」と声をかけると、先生はこちらを見る。そしてその瞳に、愛おしさのようなものが浮かんでいたから、僕はつい狼狽えてしまう。
「子供しか、相手にしてくれないんだよな」
「えっ」
「俺も芽野みたいな子供だったから、気持ちが分かる。親は俺に無関心で、クラスに友達もいなくて。何というか、注目されたいのではないけど。誰も、自分に関心を持ってくれないのはつらいよな。みんなから無視されるのはつらい」
「……はい」
「みんなの中で、俺はいつも浮いてた。だから、いつのまにか人と対等に接することができなくなってた。それで相手が子供になる。なぜか子供には懐かれるところもあったし。俺が対象として子供しか見れない理由はそれだけだよ」
先生は哀しそうに咲って、車のエンジンを入れた。振動が低く唸る。
「もし芽野が大人になっても、子供じゃなくなっても、俺を見てくれるなら……」
先生はそこまで言って、息をついて言葉を切り替えた。
「いや、忘れてくれ。何でもない」
「い、言ってください」
「重くて言えないよ」
「言ってほしいです」
灯ったヘッドライトが前方を照らし、先生は何も言わずに車を発進させた。僕は先生の横顔を見つめる。僕が、子供じゃなくなっても、先生を見ているのなら──
「先生」
車は裏門を抜け、正門に面した表通りまで暗い道を走る。暖房の温風が音を立てて車内を暖めている。
「もし僕がそばにいて、先生を見てるなら、ほかの子供はいらないですか?」
「大人になれば、お前も俺を離れるよ」
「先生が僕だけ見てくれるなら、僕も……」
一瞬言葉に迷ってから、先生にもう一度目を向ける。
「僕も先生だけを見てます。だから先生も僕を見てください」
表通りに出る前の信号で、車はいったん停まった。先生はため息をついた。首を垂らして考えていた。
けれど不意に僕を腕を引き寄せると、唇にキスをしてきた。僕は目を開き、同時に、急激に泣きそうになった。
先生がすごく好きだと感じたのだ。このまま終わりたくない、先生にほかの人を見てほしくない、誰のことも抱いたりしてほしくない──。
「先生……もう、僕以外は見ないでください」
「………、」
「僕は先生の目が好きです。いやらしいくらい僕を見つめてくれる目が好きです。僕を初めて見てくれた目だから。その目でずっと僕を見ててほしいです」
「芽野……」
「ここで何にもなかったことにして大人になっても、僕は先生の目を探してしまうと思います。先生が子供しか見れないみたいに、僕は先生しか見れない」
暗がりの中、瞳の潤みだけで見つめ合っていた。青信号になった。先生はそれに気づき、体勢を正して車を発進させる。帰宅ラッシュの時間帯で、住宅街への道はちょっと混んでいる。
「芽野は大人だな」
「……まだ子供です」
「その人しか見れないのは、『対象』じゃなくて『恋愛』だと俺は思うよ」
「……恋、愛」
「芽野が俺のものになってくれるなら、俺も芽野だけにものになる。そうしたいと思ったんだ、きっと俺のほうが先に。初めて見たときから、芽野が好きだった。だから、いつもお前を見てたんだよ。そのくせ、掻き消そうとして女子を抱いてたんだ」
「先生──」
「芽野が嫌じゃないなら、こんな俺を認めてくれるなら、俺はお前だけになるよ」
耐えられなくて、滲んだ視界からぽろぽろと雫が落ちた。鼻をすすると、先生は運転から少し目をそらして、僕の頭を撫でてくれた。先生が僕を見てくれた。
見ていてくれた。僕を好きだと言ってくれた。心が絞られて、幸せが一滴一滴染みわたって、僕は前の車のテールライトもぼやけて見えないくらい泣いた。
僕は先生に恋していたのだ。僕に恋をしてくれている先生の瞳に、恋をしていた。その優しい調和が怖いほど嬉しかった。先生は僕を見ていてくれる。ずっと。僕も先生を見つめているから。
そう、大人になってもそれは変わらない。こんなに僕を想ってくれている人なんて、本当に初めてなのだ。この人を失くしたくない。先生のそばにいたい。
そして、僕も子供から大人になる。切ない恋心の苦みで、大人になる。でも、大人になってもこの気持ちは変わらない。先生の傷ついた心を満たしたいと思うようになったけど、変わるのはそれだけだ。
永遠に先生しか見えない、いつまでも先生しか愛せない、そんな恋に僕は落ちていく。
FIN