落ちた虹

 お酒に酔うと暴力を振るう親、というのは、よく聞く気がする。私のおとうさんは、お酒が入れば逆に機嫌がよくなる。おかあさんがおとうさんと結婚したのも、一緒にお酒を飲んだとき、とてもほがらかに接してくれたのが決め手だったらしい。
 でもおかあさんは、結婚して、私が生まれて、次第に、おとうさんはお酒でも飲まないとやっていられない人だったのだと分かってきた。
 飲んでいないとき、おとうさんは気に入らないことがあると、すぐに切れて暴言を吐く人だった。外ではすごくいい人で、家では鬼のような人。仕事やつきあいのストレスを、すべて家庭に持ちこんで、おかあさんや私にぶつける。
 正体が狂っているのだ。お酒を飲めば、急に「ごめんなあ」とかへらへら笑う。けれど、一番怖いのは、お酒でいい気分になっていたのに、それを台無しにすることを言われたりされたりしたときだ。そのときは怒号にとどまらず、暴力も振るいはじめる。
 おとうさんの声が嫌いだった。神経質に怒鳴ってばかりの、いらいらした声。同じ家の中にいると、容赦なく響いてきて私まで気が狂いそうになる。だからおとうさんが怒声をあげはじめたら、私は同じ団地にある幼なじみの世里せりくんの家にいつも逃げ出した。
 暗くなった空には、もう月も浮かんでいて、私は唇を噛んで団地の中の道を歩く。草むらから鈴虫の声が透き通る、涼しい秋の夜長だった。まだおとうさんの声が鼓膜に名残っていて、どうしようもない不愉快が胸をかきむしる。私の住む棟から世里くんの住む棟まで、五分もかからない。世里くんの家は四階で、私は階段を黙々とのぼって、背伸びしてチャイムを鳴らす。
 ドアから顔を出した世里くんは、私を認めると「おじさん、また?」と愁眉を見せる。私がこくんとすると、「そうか」と言って世里くんはそれ以上は詮索せずに、私を家に入れてくれる。ひとつ年上の世里くんは小学一年生だけど、そのわりに背が高くて髪や肌の色素が薄く、儚げな美少年だった。
 世里くんのご両親は、いそがしく遅くまで働いている。時刻は二十一時が近いけど、今日もご両親は見当たらない。二十時にハウスキーパーさんが帰ると、世里くんは家にひとりになる。でも、そのおかげで突然私が訪ねても、訝ったりする人がいないのは助かった。
 さっき察してくれた通り、世里くんにはおとうさんのことを話している。世里くんの部屋に通してもらい、フローリングで膝を抱えると、「大丈夫か」と黒い瞳で私の瞳を覗き、世里くんは心配してくれる。
 私はどうにかうなずいたり、苦しくてかぶりを振ったりする。どう反応しても、世里くんは私をぎゅっと抱きしめて、落ち着くまで頭を撫でていてくれる。
 世里くんの、匂い。体温。感触。それを吸いこんで、取りこんで、私はようやく心を鎮め、少しだけ素直に泣くことができる。世里くんの腕の中にいるときが、一番安心できる。守られている、と感じる。
「俺の親もそうとう俺をほったらかしだけどさ」
 私のセミロングの髪を撫でて、世里くんがつぶやく。
「だからって、家にいて暴れるのも嫌だよな」
「……うん」
「おばさんは、どう?」
「ずっと、謝ってる。喧嘩はしない。やり返したら、今度はぶつから」
「そうか──離婚しないのかな」
「リコン」
「結婚したことを取り消すんだ」
「そんなことできるの?」
「できるよ。早く、そうできるといいな」
「うん……」
 世里くんの鼓動に耳を当てて、服の裾を握りしめる。リコン。おかあさんは、それができること知ってるのかな。
 早く逃げちゃえばいいのに。私が世里くんのところに来るみたいに。おかあさんが、おとうさんになじられて憔悴しているのはつらかった。
 夜遅く、おかあさんが世里くんの家に私を迎えにくる。世里くんは、地上まで私とおかあさんを見送ってくれる。静まり返り、凛とした星月夜だった。私は何度も世里くんを振り返り、手を振ってもらって、手を振り返したのち、おずおずと家に帰る。
 おとうさんは寝てしまっているか、お酒で調子よくなっているか、どちらだ。調子よくなっていると、キスとかハグとかしようとしてきて気持ち悪い。私はすぐ自分の部屋にこもり、あの人もういなくならないかなあ、と実の父親がいっそ死んでくれることを願った。
 しかし、この家庭で参っているのは、私以上におかあさんだった。完全に、おとうさんを男として見誤ったのだ。祖父母や友達に相談すると、「すぐに離婚しろ」と言われている。
 素面のときに別れたいと切り出しても、怒らせるだけだ。だから、ある日おかあさんは、おとうさんに深酒させた上で離婚をほのめかした。だいぶ酔っ払っていたおとうさんだけど、さあっと酔いを醒まして、いきり立っておかあさんを打ちのめすように殴った。
 おかあさんだって、そうなることを予測していなかったわけではない。小学三年生になっていた私は、リビングのドアの陰にいた。おかあさんのスマホを預けられていた。それで、おとうさんがおかあさんの頭を殴り、お腹を蹴り、「俺が食わせてる寄生虫が!!」と罵るところを、すべてこっそり動画で撮影していた。
 おかげで、離婚はそこから予想以上に早く成立した。私が小学四年生になる春のことだった。
 もちろん引っ越しはしたけれど、おかあさんは私に気を利かせて同じ校区にしてくれた。だから、私は世里くんやほかの友達と離れなくて済んだ。
 高学年になった世里くんはますます背が伸び、無造作な黒髪で隠れる目線が何だか神秘的で、白皙がきわやかな綺麗な男の子になっていた。私のことは、相変わらず妹分としてかわいがってくれる。たまに妬きもちを向けてくる女の子もいた。でも、私は世里くんを男の子として意識しているかと訊かれたら、そういうわけではないと感じる。何というか、自慢のかっこいいおにいちゃんだ。
 平和な毎日のまま、中学生になった。私は初めて男の子に告白をされたりして、最初は彼が好きなのかどうか分からなかったけど、「友達になってくれるだけでも」と言われたから仲良くしているうち、どきどきしてきてその子とつきあうことになった。
 世里くんにも彼女ができたようで、同じ小学校出身の子はそれが私ではなかったことに驚いたみたいだった。世里くんと学校ですれちがうとき、立ち話はしなくても、軽く手をあげて挨拶はする。それぞれ「一番」の存在ができて、前ほど近い存在ではなくなったけれど、私と世里くんはつながっていて、お互い信頼はしていた。
 私の毎日は、すっかりすがすがしく充実していた。けれど、あの男と結婚して十年以上暴言や暴力に冒されていたおかあさんの心の傷は、そう簡単に切り替わるはずもなかった。いつから心療内科に通いはじめたのか、精神安定剤を手放せなくなっていたのか。
 私は何も知らなかった。職場で、焦ると過呼吸が出たり、軽いミスでパニックになったり、おかあさんはかなり陰口をたたかれている存在だったらしい。ストレスが押し寄せ、ある日の朝、どうしても仕事に行きたくないと思った。でも元気に登校する私の手前、「休みたい」という甘えてみるひと言もはばかられる。
 逃げたくなったおかあさんは、二週間ぶんの薬を飲み、胃が受けつけずに嘔吐してしまいながらも流しこみ、意識不明の状態でふらふら外を出歩いた。そして道端に倒れているところを、通りがかりの人に通報されて救急車で搬送された。
 お昼過ぎに担任の先生がその連絡を受け、私に伝えた。おかあさんの自殺未遂なんて、まったく思い設けていなかった私は、慌てている先生の話をぽかんと聞いた。そのまま早退の許可が出て、私は制服も着替えずにおかあさんが運びこまれた病院に駆けつけた。
 胃の洗浄をされたおかあさんは、ぐったりと虚ろにベッドに横たわっていた。そういえば、おかあさんの顔をまともに見るのって久しぶりな気がする。自分のことが楽しくて、おかあさんのこと、何も気にかけてあげていなかった。
 私はまくらもとの椅子に腰かけ、おかあさんの手をそっと握ってみた。幼い頃、世里くんの家に迎えにきてもらって、家までつないでいたふっくら温かい手とは違う、折れてしまいそうな骨と皮の手になっている。「ごめんね」とかすれた声がして、はっとおかあさんを見直すと、おかあさんは目を開いて私を見つめていた。
「ちょっと……疲れちゃった」
 それから、おかあさんは初めて通院や薬のこと、あの男から受けた虐待で精神的に障害が出ていること、それで職場の立場が悪いことを私に打ち明けた。聞いているうちに、自分もあいつとの家庭にいたのに、何で分かってあげられなかったのかと悔しくて涙が出てきた。
「おかあさん、私にできることあるなら言ってね。何でも頑張るから」
 私が顔を涙でべたべたにしながら言うと、おかあさんはやや表情を陰らせたあと、「仕事辞めたいな」とぽつりとつぶやいた。「辞めていいよっ」と私は勢いこむ。
「そんなとこ、無理して続けなくていいよ」
「あと、何か……全部、休みたい」
「うん。ゆっくりしていいよ」
「何も考えたくない……」
「何も考えなくていいよ」
「考えてると、ただ死にたくなっちゃって……」
「考えないでいいんだよ。おかあさんが死んだら哀しいよ」
 おかあさんは私に視線を投げかけた。
「ひとりの時間も欲しい」
「ひとりの時間」
「あの人に出逢う前の自分に戻りたい」
 私はおかあさんの蒼い頬を見つめた。その言葉の意味するところに、自分の心の軋みを聞いた。
 あいつと出逢う前。私も生まれていなかった頃。私のことも、もう、おかあさんには支えどころか負担になっているのか。
「じゃあ、私──」
 おじいちゃんとおばあちゃんのところとか、行こうか。そう言おうとしたとき、背後で病室の扉が開いた。お医者さんか看護師さんかと思って振り向き、私はさっと全身が硬直するのを感じた。
 何で。
 どうしてこいつが。
 そこには、両親の離婚以来ひと目も会っていない、忌まわしく血がつながった父親であるあいつがいた。
「おかあさんが、救急隊の人におとうさんの電話番号を伝えたらしくてな」
 私の表情を見取ったのかどうか、そいつはそう言って病室に踏みこんでくる。とっさに嫌悪感が湧いて、距離を置くために椅子を立って、壁際に背中をつける。
「お前はおとうさんのところに来なさい」
 たぶん「外面」状態のそいつは、静かにそう言った。意味が分からなくて私が眉を寄せると、「さっき、おかあさんと先生と三人で話し合ったんだ」と勝手な説明が続く。
「おかあさんは実家で静養するそうだ。だから、お前はおとうさんのところに来るしかない」
 おかあさんを見た。おかあさんは目をそらし、反論の様子も見せなかった。
 どうして。いや、そもそも救急隊の人に伝える連絡先は、どう考えたってこいつじゃなくて、遠方とはいえおじいちゃんとかじゃない。
 もしかして、最初から私のことはこいつに任せてしまうつもりだった? それに気づくと、屈辱的な威圧を覚えて、さっきおかあさんとつないでいた手を、スカートの陰でこぶしにして握りしめる。
「私、別に……ひとりでも」
 何とかそう絞り出すと、「生活費はどうする?」とあきれた声なんか出される。
「中学生だから働くこともできないだろう」
「………、」
「お前はまだ養われる立場なんだよ。おとうさんは再婚も何もしてないから、気を遣うこともない」
 そういう問題じゃない。何。何なの。おかあさん、よく知ってるじゃない。こいつの狂気、たくさん薬を飲んだおかあさんが一番知ってるじゃない。なのに、私をこのイカれた男に預けるっていうの? そんなの……私のことが、もはや憎いみたいだよ。
「おかあさん──」
 私はおかあさんを見た。おかあさんは白々しく天井を見ている。
 まさかおかあさんは、のんきに幸せな毎日を送りはじめていた私が、忌ま忌ましかったの?
 訊きたくても、訊けなかった。肯定されるのが怖かった。否定されても信じられそうにない。「一度帰って荷物をまとめたら、またここに来なさい」とあいつは言い、私は嫌だとふざけるなと叫びたかったけど、ふと背中におかあさんの陰湿な視線を感じてしまい、ふらふらと病室を出た。
 家にたどりついたのは、秋の夕闇が迫ってきた十八時頃だった。荷物って、何をどれだけ、まとめるんだろう。そんなことをぼんやり考えていて、不意に涙がこみあげてきた。
 心を踏みつぶされたみたいだった。おかあさんの苦しみに気づいてあげられなかった私も、悪いのかもしれないけど。学校生活を満喫して、確かにずうずうしかったかもしれないけど。だからって、私をまたあいつの元に押し返すって何? 私もおじいちゃんたちの家に行っちゃいけないの? 私が一緒にいたら目障りなの? じゃあ、もう、捨てられて施設にでも行ったほうがマシだよ。
 クローゼットから引っ張り出しただけで、何もつめていない大きなバッグを膝からおろし、私は手の甲で涙をぬぐいながら立ち上がった。
 鍵をかけて家を出ると、街燈の灯る夜道を歩いた。昔みたいに、五分では行けない。秋の虫の澄んだ声が闇にこだましている。残暑がやっと抜けてきた涼しい風が、頬の濡れたあとの上をすべる。唇を噛みしめたまま、二十分くらいかけて昔住んでいた団地におもむいた。迷うかなと思ったけど、思いのほか道は憶えていて、世里くんの家がある棟にもちゃんとたどりつけた。
 四階のドアの前で、しばらく躊躇ったのちにチャイムを鳴らした。昔は直接ドアが開いたけど、まさか私が来るなんて思っていなかったのだろう、インターホンから世里くんの声がした。私が名前を言うと、一瞬驚いた沈黙があったものの、『すぐ開ける』と答えて世里くんはドアを開けてくれた。
「どうしたんだよ。真っ暗だぞ」
「……誰か、いる?」
「いないけど」
「家政婦さん……みたいな人は」
「中学から俺が家事やってる」
「そう、なんだ」
「何かあったのか?」
 世里くんの黒い瞳を見上げた。言おうと、口を開いたものの、何だか声が出ない。
 だって、どうするのかな。世里くんに言って、どうにかなるものでもない。困らせるだけだよね。だったら、私はただここで「さよなら」だけ伝えておけばいいのかもしれない。
「わた……し、」
「うん」
「………」
「何?」
 瞳が涙に震えかけてうつむく。ダメだ。さよならもダメ。そんなの意味深で、どのみち心配をかける。
「ちょっ……と、遠くに、行くの」
「遠く?」
「うん」
「また引っ越すってこと?」
「うん、そう。だから、もう会えなくなるかなって」
 違う。怖い。怖いの。私、あの父親に元に行くことがすごく怖いの。だから、昔みたいにぎゅっとしてほしい。世里くんの腕の中に抱きしめられたいよ。
「そっ、か」
「……ん」
「寂しくなるな」
「………」
「彼氏には言ったのか?」
「えっ……あ、まだ」
「彼氏が先だろ」
「……そ、だね」
「引っ越し先ではそんな浮気すんなよ」
 そう言って咲った世里くんに、私も弱々しく咲うしかなかった。そう、だよね。そんなの言っちゃいけない。私たちはもうそんな仲じゃない。こういうとき、私が逃げこむ相手は、世里くんではないのだ。
 つながってるって思ってた。
 つらいときは受け止めてくれる気がした。
 でも、その架け橋は、虹だったみたいに消えちゃってるんだ。
 私たちをつないでいた虹は、とっくに崩れ落ちてしまっていた──
 世里くんは私に「元気でな」と微笑んだ。私はそれに微笑み返して、「世里くんも」と答えた。
 ああ、怖い。怖いな。私、この人の腕がないから、素直に泣くことさえできない。
 吹き抜けから、月が私たちを見下ろして照らしている。暗い空にくっきり浮かぶ満月。気が狂れそうにまばゆい明月。逃げ場のない私は、いっそその狂気に溺れて、さらわれたいと思った。そして何も、恐怖も喪失も絶望も感じなくなって、冷たい濁流にのまれて心さえも堕としてしまいたい。
 暗い森のようにざわめく私の胸の中を見透かす、月の光に酔いながら、帰り道を歩いた。振り返っても、もちろん手を振る世里くんはいない。
 ひとりぼっちなんだ。
 そう痛感したとき、私は急に立ち止まった。そして、家に向かう道ではなく、誰かの一夜限りの温もりにたどりつける、夜の街を目指しはじめた。

 FIN

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