目の前を落ち葉が横切り、アスファルトにひらりと落ちた。それを虚ろな目でたどり、僕は唇を噛んだ。
彼女の微笑も、ひらりと視覚をよぎる。そうだ。あの笑顔に誓うなら、僕は幸せになってはいけない。そんなもの、得る資格もない。
十五歳で、社会に出た。もう家にはいたくなかった。喧嘩ばかりの両親は、僕のことなどお構いなしに怒鳴りあってばかりいた。
僕にやつあたりが来るとか、そういうことはなかった。けれど、僕が枷で離婚できないのは明らかだった。両親は僕に無関心で、あの冷えきった目が幼い頃は怖くて、成長するにつれて鬱陶しくて──義務教育はかろうじて済ますと、僕は家を捨てた。
働きはじめたのは、住みこみの寮がある工場だった。ろくな奴がいなかった。ねちねちした主婦の集団、椅子で金ばかり数えるえらそうな上司、心も頭も弱そうな女、筋肉しかないような男。
僕はどのグループにも属さず、昼休みの食堂では、毎日ひとりで白米とたまご焼きだけの弁当を食べた。働きはじめて一ヶ月もしないうち、その弁当を隠されたり捨てられたりする、子供じみたイジメが始まった。
犯人は分からなかったし、知ろうとも思わなかった。この世には、どうせそんな奴らしかいない。僕だって、そういうくだらない人間だ。そんなことが起きて驚く場所でもなかった。
工場の裏手に、ぼろぼろの寮がある。錆び落ちそうな階段、薄い壁や天井、入居からカビが生えていた水まわり。生活で必要なもの以外、何もない。
そもそも、僕は趣味や娯楽なんて興味もない。部屋にいるときは、万年床に転がってひたすら眠る。物音は筒抜けだけど、あの怒鳴り合う声ではないだけ、マシだった。
部屋を出て、工場までの短い道に沿って、大きくない木が並んでいる。生活の中で、季節感はその木くらいだ。春は緑が茂り、夏は木漏れ日が波打ち、秋は枯葉がこぼれ、冬は日陰が落ちる。
その日は、そんな四季を何度か繰り返した、日射しが緑に透ける初夏だった。
弁当箱が便器に突っ込まれていて、さすがに弁当箱変えなきゃなあ、とため息をつきながら、便器を掃除してトイレを出た。手を洗っていて、「あの」という声は聞こえても、自分への呼びかけだと気づくのには、ずいぶんかかった。
振り返ると、長く黒い髪を後ろでひとつにまとめた、シャツにジーンズという軽装の女の子がいた。誰、と思っていると、女の子は持っていた紙ぶくろから包みを取り出した。
「よかったら」
少し、眉を寄せた。包みの中身が何かくらい、大きさで分かった。
「……何で」
「見たの」
「え」
「……あなたのお弁当を持ってく人たち」
「ああ……」
「止められなかったから」
嗤笑をもらしてしまった。このすれた職場で、綺麗なことを言う。
「気にしなくていいよ」
「私が気になるから」
「君が捨てたって言うなら別だけど」
「そ、そんなこと、………」
僕は彼女の艶やかな睫毛が震えるのを見つめた。
「……君が?」
ちょっと信じられないまま言うと、彼女は強いまなざしを上げた。
「そう思うなら、思っていい。とにかく、これ」
胸に包みを押しつけられ、僕は下目をする。淡い桜色の包みだ。別にいいか、と僕はおとなしくそれを受け取った。
「じゃあ、私──」
「……名前は」
「え」
「名前が分からないと、弁当箱、返せない」
黒髪をひるがえして去ろうとしていた彼女は、わずかに痛みを孕んで微笑んだ。
「私は、もう紙のお弁当箱に変えてるから」
「え」
「いつも捨てられるんだもん、買い替えてるお金がない」
僕は目を開き、手の中の重みを改めて感じ、さすがに「ごめん」と言った。彼女はまた微笑んで首を横に振ると、「実千留だよ」と言った。
「え」
「名前」
「……みちる」
その名前を舌に刻むうち、彼女はぱたぱたと作業所のほうへ駆けていった。廊下に残された僕は、午後の作業の予鈴ではっとする。壊れないように弁当を抱くと、午後はサボるか、と裏口へと歩き出した。
ときどき、実千留と過ごすようになった。職場で過ごしてもろくなことにならないのはお互い分かっていたので、外で会うのが多かった。遠出をした帰り、電車で僕の肩にもたれて眠った実千留の寝顔を見ていて、この子が好きなのかもしれないと思った。
実家に住む彼女を家まで送る夜道、勇気を出して手をつないだ。実千留は肩を揺らしたけれど、拒むそぶりはなく、僕の手を握り返した。暗目にも艶々としている実千留の髪は、職場以外ではいつもほどかれていて、そのときもぬるい夏風に揺れていた。
実千留といると、幸せだった。その気持ちが僕を動揺させた。だって、実千留は僕といて幸せなのだろうか。僕なんかが彼女を幸せにできるのだろうか。
実千留の幸せを願うようになればなるほど、自信がなくなった。実千留には幸せになってほしい。だったら僕は、だからこそ僕は──
「好きな人ができたんだ。だから、もう実千留とこんなふうには会えない」
そんなことを言って、僕は実千留にどう反応してほしかったのだろう。
泣いてほしかった? 見抜かれて、否定されたかった?
呼吸がずきずきするほど、心臓が痛みで腫れていた。冬が近づく晩秋で、日が暮れかけていた。実千留は思いつめる僕を見上げると、一瞬何も言わなかったけれど、なぜかわずかに咲って、「そっか」と息をついた。
「君が幸せなら、私はそれが幸せだよ」
──ひとりで帰してしまったその日、実千留は歩道に突っ込んできた酔っぱらいの運転に巻きこまれた。
さいわい、命は落とさなかったそうだ。だけど、彼女は仕事を辞めてしまい、そのまま僕たちは接点がなくなった。
僕が幸せなら。
──僕の幸せは、実千留だった。
あのとき、僕が実千留に伝えた言葉が、もし、「好きだよ」だったら? 君といるのが僕の幸せだと、素直になっていたら?
僕の勇気ひとつで、実千留は事故にも遭わず、今も僕の隣にいて、僕も彼女も幸せだったのではないか?
僕は実千留を傷つけた。くだらない嘘で、その心を。家に送り届けず、その軆まで。
だから、僕は二度と幸せにはならない。君が幸せなら。実千留はそう言ったけど、彼女が隣にいなくて、この虚しさのどこが幸せなんだ?
また落ち葉がこぼれてくる。僕は黙って寮に急いだ。ひらりひらり、落ち葉よりとめどなく、後悔を涙にしながら。
FIN