初犯幽獄

「私の言うことを聞きなさい」
 あの日もそうだった。すべてが始まったあの日から、姉は僕にそう言っていた。
 小学五年生の夏休みだった。姉は中学一年生で、よく退屈そうな顔をしていた。でも、僕にそう命じるときだけ、狂気にゆがんだぞっとするほど美しい笑みを浮かべた。
遥介ようすけ、いる?」
 部屋のノックと共に姉の声がして、つくえに向かって宿題をしていた僕は「いるよ」と答えた。ドアが開く音がしたけど、僕は振り返らずに問題と睨み合っていた。
「勉強してるの?」
「夏休みの宿題だよ」
「そう。えらいわね」
 姉が使っているシャンプーの香りがした。振り返ろうとしたときには、姉は僕のすぐ後ろにいた。艶やかな黒髪が、僕の背中にさらりと触れる。
 姉の長い睫毛に添った視線が、僕の書いた解答をたどる。そして、白くてなめらかな指先がひとつの解答欄を指さした。
「ここ、間違ってる」
「えっ、嘘」
「ふふ、嘘よ」
「嘘なの?」
「全問正解」
「びっくりした」
 思わず振り返っていた僕は、笑いながらつくえに向き直った。背後にいる姉の距離が近かったけど、いつものことだったのであまり気にしなかった。
「遥介」
「うん」
「宿題頑張ってるから、ご褒美をあげる」
 シャーペンを握る僕の手を、姉のひんやりした手がつかんだ。白い指先が、僕の指に絡みついてシャーペンを引き抜く。そして、姉は回転椅子ごと僕の軆を自分と向かい合わせた。
「おねえちゃん……?」
 僕のとまどう声は無視して、姉は躊躇うことなく僕の脚のあいだに手を伸ばした。僕が驚いて飛び退こうとすると、姉はもう一方の手でぎゅっと僕の膝をつかんだ。
 スウェットパンツの上から、姉は僕のものを手のひらに包んだ。ゆっくり、上下に動かして刺激する。変な感覚がじわっと生まれて、「やめて……」と僕は泡のような声を出した。そんな僕に、姉は悠然と微笑んだ。
「私の言うことを聞きなさい」
 僕は荒くなりかけた息遣いに眉をしかめ、当惑するまま姉を見つめた。
 嫌でも快感がこみあげてくる。じわじわと腰のあたりが焦れったくなる。声はこらえても、唇からもれる息遣いは熱くなる。
 姉は僕のものを取り出し、直接触れた手を動かした。
「き、汚い……よ」
「そうね、こんなに硬くして醜いわ」
「……じゃあやめて、」
「自分では、こういうことしないの?」
「し、しないよっ」
「でも、知ってるでしょう?」
「知ってる、けど……」
「出したことない?」
「出すって……」
「出ちゃいそうでしょ?」
「……ダメだよ、」
「出していいのよ」
「おねえちゃん、こんなの──」
「もう出そう?」
「出ないから、」
「でも、こんなにびくびくしてる」
「やめたらすぐ落ち着くから」
「気持ちよくなれるわ」
「僕は、」
「全部出して」
 会話のあいだにも、姉の手は僕のものを刺激し続けた。僕は泣きそうなうめき声をこぼした。耐えようとした。けれど、姉の潤んだ唇が先端に触れた瞬間、どくんと脈打って吐き出してしまった。
 僕の白濁が、姉の口元に飛び散る。僕が震えていると、姉はくすりと微笑んだ。
 そして、次の瞬間、耳をつんざくような悲鳴を上げた。
遥子ようこ!? どうしたの!?」
 すぐに母の声がした。僕はぽかんとして、泣きじゃくる姉を見ていた。間抜けに射精した股間をさらしたまま。母が僕の部屋に駆けつけ、勢いよくドアを開けた。
 僕と母が、茫然と見合った。それを引き裂くように、口元を穢された姉は泣きながら訴えた。
「ひどい、遥介! おねえちゃんにこんなことさせるなんて……っ」
 悲痛な姉の嗚咽に、母の目にざあっと嫌悪が湧き起こった。僕はまだ何を言えばいいのか分からなかった。母はこちらに駆け寄ると、すぐに姉を腕の中にかばい、僕を汚物のように見た。
「おとうさんが帰ってくるまで、絶対に部屋を出ないで。遥子に近づこうとしたら許さないわよ!」
 違、う。違う。違う!
 僕は泣きそうになりながら、そのまま「違う」と言った。何度か言った。母は「何が違うの、そんなだらしない格好で!」と苦々しく吐き捨て、姉を僕の部屋から保護していった。
 ほんの一時間前、昼食を食べ終わって「宿題するね」と言った僕に、「一気に根詰めなくてもいいんだからね」と微笑んでくれた母。そのときの影は、もう微塵もなかった。
 夜に帰宅した父には、僕はめちゃくちゃに殴られた。姉は母の腕の中で身をすくめ、怯えるように耳をふさいでいた。
 ──この日、僕は完全に両親からの信頼を失った。
 投獄するように自室に打ち捨てられると、何で、と僕はやっと涙を絞り出しながら悔しくなってきた。何で、こんな。僕が悪いの? 僕はやめてって言ったのに。執拗に触ってきたのは姉のほうだ。なのに、何で僕が……
 両親は、僕をいったん家から追い出し、祖父母に預けることも考えたらしい。とにかく姉から僕を引き離すべきだと判断したようだ。しかし、僕と姉を仲のいい姉弟だと思っている祖父母に、事を伝えるのも残酷だ。通報して施設に追いはらうことすら思案したようだが、姉が他人に事情を知られたくないと言うと、それも却下された。
「遥介が私に触れてこないなら、私が頑張るから……」
 姉の健気な震える声を、両親の軽蔑にさらされてすでにざらつきはじめていた心で、僕は黙って聞いていた。両親は僕を憎々しげに見つめて、その約束を破ったときには、二度と家に入れることは許さないと言った。
 こうして僕は、姉の言うことに、絶対に絶対に絶対に逆らってはならない奴隷となった。
「あのお菓子、おいしそうだから盗んで。買っちゃダメよ」
「それ、大事にしてるのね。自分で壊して捨ててきなさい」
「私の悪口を言う子がいるの。嫌がらせして黙らせてきて」
 両親には見つからないように、姉は僕の耳元に命じ続けた。命令が毎日のように降り積もった。僕の意志や感情は事切れていった。やがて僕は、あの忌まわしい遊戯の駒として使われるようになった。
 姉は人のものを奪うのが好きだった。昔から人のものを盗んでいることがあった。隣の席の子の筆箱に入っていたいい香りの消しゴム。招かれた家からその家の子の誕生日プレゼントの人形。中学生になり、姉が人から奪うものは女の子の彼氏になった。
 姉はいつも、彼氏のいる女の子と仲良くなった。そして彼氏をあっという間に籠絡し、奪ってしまう。そして、ここで僕を使う。取り残された女の子を、すかさず僕が誘惑するのだ。
 落ち込む女の子は、優しい僕にあっさり堕ちる。そのタイミングで、姉は奪った男を捨てる。男は元カノとよりを戻そうとするが、その女の子はとっくに僕に夢中になっている。
 僕を罵ったり、殴ろうとする男もいた。しかし女の子は僕をかばう。そして、愛し合っていたはずのふたりは激しく言い争う。
 その様子を僕は無表情に見ていた。姉も僕が持つ隠しカメラから眺めていた。きっと、狂おしくゆがんだ、美しく恍惚した、あの笑みを満面に浮かべているのだろう。
 他人の絆を踏みにじる姉の遊戯に、僕は道具として利用され続けた。
 僕の心はとっくにすりきれて、何も感じなくなっていた。姉の奴隷として生きていく中で、感情なんてあるだけ邪魔だった。だから捨てた。そうしたほうが、姉の命令をそつなくこなせた。
 そのうち、僕も姉も成人した。遊戯は続いた。姉は美しく成長したし、僕も整った容姿に育った。両親は相変わらず僕を毛嫌いし、姉には過保護なほどだった。
「そろそろ鬱陶しくなってきたわね、おとうさんもおかあさんも。早く死んでくれないかしら……」
 両親が寝静まった深夜、僕に黒いペディキュアを塗らせながら、ベッドに腰かける姉は物憂げに息をつく。
 こんなところを両親に見つかったら、たとえ足だろうが、僕は姉に触れていることを叱責されるだろう。しかし、姉には僕が父に髪をつかまれて引きずられることなどどうでもいいので、使いたいときには使う。
 姉の美貌が、まるで生血を喰らっているおかげのようだと知っているのは、依然として僕だけだった。
 そんな僕と姉の元に、ある日突然、一通の結婚式の招待状が届いた。僕は二十二歳の大学生、姉は二十四歳のOLになっていた冬のことだった。
 僕たちの従妹からだった。親戚の中に、そんな子もいたような気がした。しばらく思い出すのに苦労したほど、かわいくない、モテそうにない、陰気な子だったと記憶している。
 その子に幸せが訪れることはないと姉も踏んでいたのだろう。見向きもしていなかった女に幸福を見せつけられ、姉はいらいらした様子で黒い爪を噛みながら僕に命じた。
「この子のことを壊しなさい」
 姉の命令は、今でも絶対だ。僕は表情ひとつ変えずにうなずき、従妹の心春こはるに近づきはじめた。
 心春は、母の妹の娘だ。隣の県に住んでいる。接触できない距離ではない。二十歳になるが、大学には行かずにバイトをしているらしい。なんでも大学受験にはすべて落ちたそうだ。
 僕は心春が家にいる日を狙って、叔母の家を訪ねた。僕と姉に起きたことは、祖父母に伝えなかったのだから親戚も誰ひとりとして知らない。心春も叔母も、ついでに叔父も僕を歓迎した。
「婚約おめでとう、心春ちゃん」
 僕は笑顔に模した表情を貼りつけ、心春にそう伝えた。「ありがとう」と心春ははにかみながらも、嬉しそうに微笑む。
「これ、ねえさんと僕からのお祝いだよ」
 僕が差し出した上品にラッピングされたお菓子の箱を受け取り、「わあ、有名なとこの奴だ」と心春は目をしばたく。
「いいの? ふたりが結婚式に来てくれるだけでも嬉しいのに」
「ぜひ婚約者の彼と食べてよ」
「うん……! 彼も甘いの好きだから、喜んでくれると思う」
 僕は心春を眺めた。別に野暮ったい容姿に変化があるわけではないのに、その笑顔が幸せそうなだけで、何だか愛らしい花が咲くようだった。
「彼とはどこで知り合ったの?」
「職場だよ。ほら、私ってどん臭いから初日から迷惑ばっかりで……彼も最初はあきれてたけど、それでも頑張りたいって伝えた日から根気よく仕事を教えてくれて」
「いい人なんだね」
「うん、素敵な人!」
 あふれるような心春の無邪気な笑顔に、でも今頃そいつは姉と会ってるけどな、とぼんやり考える。
「ねえ、心春ちゃん」
「うん?」
「今夜、夕食に誘ってもいいかな? お祝いだから」
「えっ。そんな、このお菓子ももらったのに」
「でも、心春ちゃんが結婚しちゃったら、いくら僕が従兄でもふたりで食事なんてできなくなるし」
「そ、そうかな?」
「そうだよ。ダメだよ、結婚したらほかの男と食事なんて」
「そんなものなんだね……。じゃあ、お言葉に甘えようかな。いいかな、おかあさん」
 いいんじゃない、なんていう叔母の声が聞こえる。僕は絶え間なく笑みを造りながら、ちょろい奴らだと冷たく思った。世間知らずなだけか。従兄といはいえ、婚約中に男とふたりで食事することに何の疑問も持たないなんて。
 心春は僕が運転する車の助手席に乗った。僕はそこから、心春の心の綻びをつかもうとしはじめた。また結婚前にごはんに行こう。心春ちゃんとデートできるのは今のうちだから。それにしても、かわいくなったね……
 心春は僕の言葉に照れながら、「そんなことないよ」と咲っていた。揺れたような動揺は感じられなかった。やや焦れったくなってきた僕は、着いたレストランの駐車場で心春の手を握った。暗がりの中で、心春はきょとんとして「なあに?」と僕の手を何事でもないように握り返した。
 それで、僕も気づいた。心春にとって、僕は当然のように「無し」なのだ。おそらく、心から結婚相手の男しか見えていないから。
 僕は小さく奥歯を噛み、しかし冷静さを努めて、「いいな」とゆっくり息をついた。
「え?」
「心春ちゃんと結婚できるなんてうらやましい」
 心春は僕を見つめて、くすりと咲うと握っていた僕の手を優しく僕の膝に戻した。
「私、実は昔、遥介くんのこと好きだったの」
「えっ」
「でも、それを遥子ちゃんに相談したら、意地悪されたからすぐあきらめちゃったんだ」
「……ねえさんが」
「うん。あっ、意地悪っていってもそんなひどいことじゃなくて」
「何、されたの?」
「う、うん……大したことじゃないよ」
 心春が初めて僕から目をそらした。おそらく、姉は深く傷つけることをしたのだろう。
「ねえ、今からでも間に合うよ?」
「えっ」
「僕も心春ちゃんがずっと好きだったから」
「遥介くん──」
「もしよかったら、このあと僕と……」
 心春は僕を見つめる。僕をそれを真剣に見つめ返す。
 不意に心春はふっと息をつくように微笑すると、「ありがとう」と穏やかな瞳で言った。
「もう私を選んでくれた人がいるから、大丈夫」
 僕はじっと心春を見た。心春はやはり揺らがなかった。僕はまた奥歯を噛みしめつつも、ここはいったん「そっか」とさわやかに言って、食い下がらなかった。
 帰宅すると、かなり不機嫌そうな姉がいた。姉は心春の婚約者に会っていたはずだ。まだ「お友達」だが、そろそろ既成事実に踏み込むようなことを楽しげに語っていた。それがなぜ不機嫌かと思えば、どうやら僕のように相手にされなかったらしい。
 姉はいらいらと爪を噛んでいた。黒いマニキュアが剥がれるほどに。そして、すりつぶすような声で僕につぶやいた。
「絶対に、あのふたりを壊しなさい」
 感情なんて、僕はとうに捨てた。姉によって射精して、その顔を穢してしまった日から。
 そう、僕が姉を穢した。
 僕が姉を穢した。
 僕が姉を穢したのだ。
 だから、僕は責任を取らないといけない。傷ついた姉の言うことは、何でも聞かなくてはならない。そのために、僕はあの忌まわしい快感と引き換えに、温かい感情もとっくに捨てた。
 捨てた、はずなのに。
 僕は、心春の幸せを壊したくてたまらない。心春を奪いたくてたまらない。そんな感情の源が、おぞましてたまらない。
 いびつに執着するまま、僕は心春に接触を続けた。心春はけして僕になびくことはなかった。でも優しくて、執拗な僕を拒絶したりしなかった。
 次第に心春がひとりになる隙を狙うようになった。仕事の行き帰りなどは、姉を袖にした男が一緒で、彼は心春を愛おしげに見つめていた。
「壊すのよ」
 姉は焦点の合わない目で僕に命じる。僕はなおも心春をつけ狙った。ある早朝、ひとりでゴミぶくろを提げて家を出てきた心春を視界に捕らえた。
 追いかけた。ゴミ捨て場にふくろを捨てて、手をはらっている心春がいた。僕はその背後を躊躇いなく襲い、素早くガムテープで口をふさいだ。僕の顔を認めた心春が目を開いた。
 僕の顔は機械のように無表情で……なのに、涙だけは流していたせいかもしれない。
 僕は、もがく心春を薄汚れた路地に引きずり込んだ。心春は容赦なく暴れようとした。だから僕は、その腹をしたたかに殴った。
 頭の中に響く姉の声。
『私の言うことを聞きなさい』
 幼かったあの日も、その言葉に縛られて、僕は抵抗できなかった。もう、僕の中に、それはプログラムされている。
「分かったよ、ねえさん……」
 地面に転がした心春を見下ろして、僕はぽつりと無機質につぶやく。そして、心春にのしかかった。
 恐怖にゆがむ心春の顔に、僕の涙がまだぽろぽろと落ちる。
 僕はその顔を一度だけ優しく撫でると、初めての罪に囚われるまま、彼女が心まで傷つくようにその軆を引き裂いた。

 FIN

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