さっきから、修平はスマホの画面を見て顰め面をしている。
今夜のメニューはビーフシチュー。お肉は、たっぷり煮込んだほろほろの奴。それに、ポテトサラダとコーンスープを添える。サーモンピンクのエプロンをまとうあたしは、盛りつけた皿を、黄色のテーブルクロスに並べていく。
その料理の匂いに気づいたのか、修平はやっと顔を上げ、リビングからダイニングに来た。「手伝う?」と一応言ってくれて、「平気、座ってて」とあたしは微笑む。
「おー、うまそうじゃん。ワイン開けたくなる」
「開けてもいいんじゃない?」
「何の日でもないのに」
修平は笑いながら、引いた椅子に腰を下ろす。スマホを連れてきているけど、画面は伏せられている。
「別に、普通の日に飲んでもいいと思うけど」
あたしがそんなことを言っていると、「んー、でもなー」とか言いながら、修平はさっき置いたスマホを手にして無造作にいじった。そしてまた、顰め面。
「仕事の連絡?」
ミネラルウォーターをグラスにそそいで、食事に添えながら訊いてみる。
「えっ、何で」
「すごい嫌そうな顔してるから」
「……そうかな」
「うん」とあたしが苦笑すると、修平は憂鬱そうなため息をついて、観念したようにスマホを置いた。今度は、画面が上だ。
「実は、職場の女の子に告られてさ」
「え」
「もちろん断ったぞ。でも、相手が納得しなくて」
「納得って」
「俺は結婚考えてる奴がいるし、つきあえないって言ったんだ」
あたしは首をかしげて、「結婚考えてるの?」とそこをまず突っ込む。
「初耳なんだけど」
「え、お前考えてないの?」
「……それは、プロポーズとしてどうかと」
「プロポーズは、改めてやるから」
そういう問題じゃないけど、と思ったけれど、「で、その子が?」と話をうながす。
「俺に『目を覚まして』とか言うようになってきたんだ」
「何それ」
「頑張れば、また恋愛できるからって」
「意味が分からない」
「『もう恋愛はしない』って言い方をしたからかも。俺、その……お前が最後だし」
言ってみてちょっと照れている修平に、あたしは軽く噴き出しながらエプロンを脱ぐ。
「それで、だいぶ泣かれてさ」
「うざい女だなあ」
「だろ? で、連絡頻度とかおかしくなってて……でも、同僚だからブロックできねえし」
「ストーカーじゃん」
「そう、ストーカーなんだよ」
「警察行く?」
「それは怖くね?」
「ほっとくほうが怖いじゃん」
「俺に通報とかされたら、その子、自殺しそうで」
「病んでるなあ」
「すっげー病んでるぞ。リスカ痕見えたことあるし……ちょっと見ろよ、これ」
修平は画面ロックを解除して、少しスワイプしたあと、あたしにスマホをさしだした。受け取って見てみると、ものすごいメッセ連投、ものすごい数の不在着信があった。まるで呪われたものであるかのように、「怖い」とあたしは修平にさっさとスマホを返す。
「それ、証拠になるから、スクショは撮っといたほうがいいかも」
「……お前がさ」
「ん?」
「お前……いや、彼女さんがいなきゃ私のこと見てくれてたの、とか言われて」
「ふうん、見てたの?」
「どっちみち嫌だわ、こんなメンヘラ」
あたしは息をつき、修平の正面の席に着いた。修平は料理に手をつけず、「心配なんだ」とあたしを見つめる。
「お前のこと、殺されたりしねえかなって」
「そこまで──」
「そこまでなんだよ! それくらいやばい感じはある」
「その子って結局自殺するの? あたしを殺すの?」
「お前を殺すか、あるいは、俺を殺して自分も死ぬ」
あたしは修平の真剣な瞳を受けて、「うーん……」と唸って首をかたむけた。
なるほど。「あのこと」はあくまで言わないわけか。そこまで正直に話してくれたら、まだ、許さなくもなかったのに。
ねえ、あたしはもう知ってるの。その子が何度もあんたに抱かれてること。
車でしたんだよね。ダッシュボードにコンドームを隠してるでしょ。
この部屋にも連れこんだよね。洗い立てだったはずの寝室のシーツにあった、ごわついた染みに気づいたよ。
修平、あんたが彼女に、絶対「好き」とは言わないのは知ってる。その狡さが、あたしは余計に許せないの。
ふと、ドアフォンが鳴り響いた。あたしは席を立ち、「出てくる」と言った。
「大丈夫か? こんな時間に誰だろ」
「宅配を夜指定にしてたからそれでしょ」
「そっか。じゃ、心配ないか」
あたしはダイニングを出て、玄関へと歩いた。靴を履いて、深呼吸した。黙ってチェーンを外すと、ドアを開ける。
小柄で、真っ黒なゴスロリっぽい服装の女の子がいる。
「……何で、呼んだの」
「あたしは殺されたくないから」
「………、」
「あいつを殺して、あなたも死ねばいいんじゃない?」
彼女は赤みの強い唇を白くなるほど噛んだ。そしてあたしを押しのけると、土足で部屋に踏みこんでいった。拍子に、修平の怯え切った悲鳴が上がる。
「お、お前、何でここにっ……」
「殺すの!」
「はっ?」
「先輩、先に死んで! すぐに追いかけるからっ」
あたしは玄関で、シューズボックスにもたれ、無表情に一部始終の物音を聴いていた。
それは彼女の本当の願いではないのだろう。
あいつと幸せになりたかったんだろうな。
プロポーズもしてほしかったんだろうな。
修平の悲鳴が、やがて力ないうめきになって、消えていく。彼女の荒い息遣いが残る。やがて、それは弱々しい嗚咽になる。
ほら。やっぱり自殺する勇気なんてない。
あたしはポケットから、自分のスマホを取り出した。一応、警察は呼びますか。あたしが彼女をここに呼んだことなんて、ただ話し合いをしたかったとか、どうとでも言える。
冷たい女?
確かにあたしは、修平の浮気を知って、氷をまとって心を守ったの。花びらにその血が飛んで、汚れたりしないようにね。
復讐は冷徹にやらないとでしょう?
110番はすぐにつながって、あたしは震えた声を作ると、向こう側に彼女の犯行を伝えはじめた。
FIN