たとえば君が死んだら

 育った場所のことは思い出したくない。
 家族家庭実家父親母親両親──どんな言葉も、俺にとっては呪詛のように忌まわしい。家族なんていない。家庭なんか知らない。実家は帰りたくない。父親は嫌いだ。母親は許せない。両親は愛し合っていなかった。
 その場所では、何かにつけてとうさんがかあさんを殴っていた。そんなとうさんからかあさんは逃げなかった。だから俺は、そこにいると消えてしまいたくなった。
 とうさんのあの怒号をもう聞きたくなかった。
 かあさんのあの痣をもう見たくなかった。
 幼い頃、うずくまるかあさんの手を引っ張って「もう離婚すればいいよ」と俺は言った。「離婚したらおとうさんとおかあさん、どっちにする?」なんて質問が幼稚園で流行り、それで俺は「離婚」で「結婚」を解消できることを知った。
 俺の言葉を聞きつけたとうさんは、「そんな言葉どこから知ったんだっ」と怒鳴り、「お前が吹きこんだのか!」とかあさんを蹴たくった。かあさんは俺の手を振りはらった。そして、「そんなことは考えていません」と泣きながら謝った。俺は振りはらわれた手をこぶしにして、唇を噛みしめた。
 こんなふうにはなりたくない、と強く思った。こんな男になりたくない。そして、こんな女にしがみつきたくない。そう思って、俺は大人になったはずなのに──
 冬が終わりかけた春先、昼の陽射しは柔らかくなってきても、夜になるとすりぬける風はまだ冷たい。
 今夜は琴里ことりとデートだった。一緒に観た映画が期待外れで、チケ代もったいなかったなと思っていた。琴里はあのシーンがよかったとか、この台詞がよかったとか言うけど、つまらないと思ったものを、そんなに褒められてもかえっていらいらする。俺が目も合わせずに、人混みの中「飯行くぞ」と早足になると、琴里は俺のいらだちを気取って黙りこんだ。
 こんな気分なのに、食いたいものなんかない。目についたファミレスに適当に入ると、琴里は急いでついてきた。俺は食べたいわけでもないパスタを適当に選び、琴里はポテトグラタンを注文した。ウェイトレスが去ると、琴里はいったん席を立って、俺と自分のお冷やを持ってくる。それをひと口飲んで、「おもしろくなかったな」とやっと俺が感想を述べると、「そう、だね」と琴里はどこか哀しそうにうなずいた。
 会話がはずむこともなく、俺はファミレスの雑音をぼんやり聞いた。
 話し声。笑い声。いらっしゃいませ。ご注文のドリアになります。フォークやスプーンが皿に当たる音。ドリンクバーがホットの飲み物を、湯気と吐き出す──
 ふと、琴里がバッグの中を一瞥した。
 ほんの一瞥。きっとスマホを見た。
 そう思うと、一気に神経が逆立って、意識が腫れあがった。不安。着信がついたのか? 不安。誰から? 不安。もしくは、誰かの着信を待っている? 不安。あの男とまた連絡を取っているとか──不安が脳髄をかきまぜるように渦巻き、胸苦しくなって息が浅くなる。
せん?」
 琴里が俺の様子を察知して、心配そうに見つめてきた。俺はそれを冷え切った眼で見返し、琴里の瞳がびくんとこわばる。
 ウェイトレスが料理を運んできた。テーブルに料理を並べて「ごゆっくりどうぞ」と立ち去ると、俺はあさりやエビが絡んだシーフードパスタをすぐに食べはじめた。琴里もとまどいながらもポテトグラタンを口に運ぶ。
 俺は味わうこともなく、十分ぐらいで胃につめこむと席を立ち上がった。琴里は食べかけを置いて俺を追いかけてくる。会計してひんやりした外に出ると、俺は琴里の手首をつかんで引きずるように歩き出した。
「仙、」
「何か来てたのか」
「えっ」
「スマホ」
「べ、別に、何も──」
「俺といるときは、スマホ見るなって言ってるだろ」
「えっ、あ……」
「俺と会ってるのに、何で別の誰かの連絡が気になるんだよっ」
「ご、ごめんなさい、私──」
 琴里の華奢な手首を握りしめてずんずん歩き続け、到着した俺の部屋に引きずりこんだ。明かりをつけ、鍵をかけ、カーテンを閉める。
 細い軆を乱暴に床に投げつけると、間髪入れずに振り上げたこぶしを琴里の側頭部に振り落とした。そのまま折れそうに首ががくんと曲がり、ついで軆がふたつ折りになる。俺は琴里の胸倉をつかみ、その腹に何度もこぶしを突き刺した。殴打がめりこむ鈍い音が響く。琴里は声か、あるいは食べたものを吐き出さないように唇を噛んでいる。
 やがて、ぐったりとその身が床にくずおれると、俺は息を荒げながら今度は腰や背中を容赦なく蹴りつけた。琴里はやっぱりうめきひとつもらさない。目をつぶり、俺の猛威が去るのを待っている。そんな受け身にいよいよ腹が立って、俺は長いこと一方的に琴里を打ちのめしていた。
 琴里がぴくんとも動かなくなると、俺はどさっとベッドサイドに座って、深く煙草を吸った。煙は吐かずに肺に溜める。その煙たさが心臓に浸透すると、トゲが剥き出しになっていた神経がやっとなだらかになっていった。
 目を閉じて、胸のあたりを暴れまわっていたイガの針が落ち着くのを待つ。こんないらいらする針、酒で一気に焼いてしまいたいけど、何とか煙草でじりじり焦げ落ちるまで耐える。ゆっくりまばたきをしてみると、自分の瞳から、陰惨な毒が抜けていくのが分かった。
 いつのまにか、床に横たわる琴里がかすかに震えていることに気づいた。俺は琴里の背中を見つめ、ようやく言いようのない自己嫌悪が噴き出してくるのを感じた。
 こんなひどいことをする仙なんか嫌い。今にも琴里がそう言い出すのではないかと急激に怖くなり、俺は煙草をつぶすと琴里のかたわらにひざまずく。
「琴里……ごめん」
 琴里がぴくりと動き、薄目で俺を見る。その疲れきった瞳の色に、俺は琴里を抱き起こしてぎゅっと擁した。
「仙……」
「ごめん、琴里」
 言いながら、涙までこみあげてくる。自分は何ということをしたのだとぞっとして焦ってくる。
「ごめん、怖くなったんだ。琴里が、俺以外の奴のことを考えるのが怖い。俺のことなんか嫌いになるのが怖いんだ」
「仙の、こと……私は、大好きだよ」
「でも、不安なんだ。頼むから、俺を不安にさせることはしないでくれ。怖い想いはしたくないんだ」
「……うん、ごめんね」
 琴里は上体を起こし、俺の軆にしがみつくように腕をまわす。
「デート中なんだもん、仙のことだけ見てればいいんだよね。私がいけなかったの」
「琴里に嫌われたくないよ。俺には琴里しかいないんだ」
「私は仙をひとりにしたりしない。大丈夫、そばにいるよ」
 琴里は微笑んで、涙を流す俺の頭を撫でてくれる。俺がどんな仕打ちをしても、琴里はこうして赦してくれる。そんな琴里の温かい心に包まれ、俺は初めて安堵を覚える。
 俺はきっと、琴里がいないと生きていけない。琴里の愛情をこんなかたちで確かめて、それに愛想を尽かされないことで、愛されていることを知る。俺だってこんなことはしたくないのだ。普通に愛し合いたい。だから、どんな些細なものであっても、琴里には俺を不安にする所作はしないでほしい。
 桜がひらひらほころびはじめた頃、俺は営業から帰社すると、経費で落とした領収書をまとめて提出し、飲み会はかわして会社を出た。琴里とは何も約束していなかったけれど、何となく会いたいと思った。
 スマホを見ると、『今から夜番に入るよ。頑張るね。』というメッセが十七時前に来ていた。琴里はファッションモールビルのアパレルの店で働いている。いつも上がるのは二十二時近い。今日は無理か、と息をついて駅に向かおうとしたとき、「すみませんっ」と不意に声がかかって足を止めた。
 そこには、黒目がちの瞳で俺をまっすぐ見つめる男がいた。何か見たことあるな、と感じても思い出せずにいると、「初めまして」と男は頭を下げてから、「館野たての真伊まないと言います」と言った。
 名前にも聞き憶えはない。「ちょっと誰か分からないんですけど」と俺があやふやな顔になると、館野という男は「琴里のことで話したいんです」と言ってきた。
 琴里の、こと。それで俺は、その男の面影に気がついた。
 そうだ。こいつ、琴里と会ってよくCDを交換していた──
「……何であんたが」
 急速に声を冷えこませた俺に、館野は負けないぐらい冷ややかな目を向けてきた。
「琴里とは相変わらずですか」
「………、あんたには関係な──」
「俺は琴里の友達だ。ずっと相談も聞いてきた。関係ある」
 ひと息に語調を厳しくした館野に眉がゆがむ。「俺と琴里が連絡つかなくさせたのは、どうせあんたなんだろ」と館野は俺を鋭く睨みつける。
「そんなふうに束縛して、……殴って、あんたは琴里をどうしたいんだ」
「俺は、」
「いいか、これ以上琴里を苦しめるな。あんまりひどいようなら、警察に通報する」
 目を開いた。頭の中がぐるぐると闇に落下していく気がした。
 琴里を苦しめる? 俺が琴里を苦しめているというのか? 俺は琴里に愛されていたいだけなのに。ただ幸せになりたくて、不安になりたくなくて、琴里の心を確かめているだけなのに。俺のせいで苦しんでいる。琴里はこいつにそう語ったのか?
 体温が消え入って蒼白になるのを感じた。俺がふらふら歩き出すと、「おい、」と館野は引き止めようとしてきたけど、「琴里に確かめる」と俺はその手をはらった。
「確かめるって、また琴里を殴るのか」
 ゆっくり館野を振り返る。
「何であんたは、それが琴里を傷つけてるってことが理解できないんだ」
 心臓が不穏に血を吐く。呼吸が薄くなって、俺は引き攣った笑みを浮かべていた。
「傷つけてもそばにいてくれるって、それが愛されてるってことじゃないのか……?」
 館野は俺を見つめた。そして、じわじわ嫌悪を浮かべると、「あんた狂ってるよ」と吐き捨てて、夜が降りてくる雑踏に紛れこんでいった。
 狂って、いる。そうなのか? 俺はおかしいのか? でも、分からないのだ。愛情なんて、琴里に出逢って初めて感じた。だから、俺はそれの確かめ方が分からない。俺は琴里を愛しているけれど、琴里が俺を愛しているなんて、そんなことたやすく信じられない。
 俺は愛される人間なのか? とうさんの無関心。かあさんの拒絶。自信がない。琴里に愛される自信がない。愛した人に愛されるなんて奇跡は、信じられない。
 だから、俺は琴里を壊すことしかできない。琴里の中に壊すものがあると知って、壊されても咲ってくれることを見て、初めてほっとする。そんな俺は、頭がイカれているのだろうか?
 俺は部屋に帰らず、琴里の部屋の前に行ってスーツのまま座りこんだ。『今、琴里の部屋の前にいる。』とメッセを送っておいた。
 十九時半。既読はつかない。
 仕事中だと分かっていても、終わらない悪夢のように不安が増幅する。捨て置かれた子供のように、黒い絶望感で頭がくらくらして、過呼吸で肩がわなないた。
 俺はどうなるのだろう。琴里に拒否されるのか? こんな俺は愛していないと言われてしまうのか。
 ふと着信音が鳴ったときには、二十一時をまわっていた。
『すぐ帰るね!
 待たせてごめんなさい。』
 メッセからは、琴里の感情は読み取れない。せめて、声を聞かせてくれたらいいのに。俺の声を聞きたくないのかもしれない。いや、今日は会う予定なんてなかった。もしかして、館野に電話して俺のことを愚痴りたかったんじゃないか?
 苦しんでいる。傷ついている。そうだ、琴里は俺のことなんか愛していないのだ。俺は愛されていない。
 頭の中が感電して、にぶい頭痛が襲ってくる。意識がばらばらになって、落ち着かない感情に不安があふれる。
 何でこんなにうまくいかないんだ。いつもそうだ。俺は何とかしようとしているけれど、精神がろくに追いつかない。このまま自分がどうかなってしまいそうで怖い。ひどく無気力なのに、ひどく感覚がとがっている。脳内に画鋲が散らばったみたいだ。片づけたくても、刺さって痛くて、どうしようもない。
 どんどんいらついてくる。神経に針がのめりこんで膿が出る──
「仙っ」
 突然名前を呼ばれて、のろのろと顔を上げた。そこには琴里がいた。琴里の瞳の中で、俺の瞳はもう完全に濁っている。
「ずっとここにいたの? まだ夜は寒いのに、」
「……あいつに会った」
「えっ」
「琴里の好きな男」
「え、誰のこと──」
「まだ会ってたんだな。やっぱり連絡も取ってたんだ」
「私は、連絡取ってる男の人なんて仙だけ──」
「じゃあ、何であいつがわざわざ俺に会いにくるんだっ」
 俺の大声に琴里はびくんとした。それから急いで鍵を取り出すと、「入って落ち着いて」とドアを開けて、俺を立ち上がらせて室内に入れる。
 部屋には琴里の匂いがしたけど、その程度では落ち着かない。俺は鍵をかける琴里の腕をつかみ、靴も脱がずに部屋に上がりこんだ。
「俺は琴里を苦しめてるって言われた」
「え……っ」
「琴里と一緒にいて安らぎたいだけなのに、そんな俺は狂ってるって」
「狂ってるなんて、私は思ってな──」
「でも、あいつはそう言った! どうせ裏ではあいつとそんな話して嗤ってたんだろっ」
「あ、あいつって、誰なの」
「俺の前で連絡先ブロックして、削除もしてたのに……っ。ほんとはメモでも残してたんだろ。それとも、最初からまた会う約束があったからいったん削除しただけかよっ」
「え……も、もしかして、真伊? 真伊に会ったの?」
 琴里があの男の名前を口にしたことで、耐えきれなくなって俺は琴里の腕を引っ張って足元をふらつかせ、そのまま床に転ばせた。フローリングにぶつけた腰にとっさに手を当てる琴里を見下ろし、自分の息遣いが乱れていることに気づく。
 いらいらする。振りはらおうとしても、取りついて離れない。琴里が俺を見上げたとき、その瞳が怯えていて、こめかみで線が切れたのが分かった。
 琴里におおいかぶさって、頭も胸も腹も、普段は何とかこらえる顔も殴りつけた。ごつっ、がつっ、という骨の感触がこぶしにじかに響く。琴里は軆をこわばらせていたものの、もう何も言わずに俺の暴力をただ受けた。それがいっそう心をきしませて、琴里の肌が青黒く変色するまで殴りつづける。
 何で。何で何で何で。
 琴里も。かあさんも。されるがままなんだ。反応しないんだ。俺がこんなにも苦しいことがどうでもいいのか。
 俺はぎゅっとこぶしを握りしめ、殴るのをやめた。痣だらけの琴里は、床にぐったりとしてほとんど死んでいるみたいだった。そんな彼女を見ても、まだいらだちはおさまらない。
 俺は琴里の服を音を立てて破いた。琴里の視線がわずかに動き、俺を捕らえかけるものの力がこもらない。琴里の上体の素肌は青と赤が混ざり合って、紫のまだらになっていた。スカートはたくしあげて、ストッキングと下着はむしりとる。
 触れてみたそこは乾いていたけど、指で闇雲にかきまわして、強引に入口にした。俺は自分のものをスラックスから取り出すと、こすって硬くして、琴里の中に押し入った。こすれた乾燥のひりつきに、琴里がさすがに小さく悲鳴を上げた。それでも俺は構わずに動き、動きながら琴里の首をつかんだ。
「せ……ん、っ」
 かすれた声をもらした琴里の細い首を絞める。すると、琴里の中が異常な感じで痙攣して俺を締めつけた。俺は唇を噛んで、琴里の喉を押しつぶす。琴里の顔色がおかしくなってくる。
 もう、殺してしまいたい。殺すしかない気がする。殺したら、琴里は俺のものになる。そうなったのを確かめたあとで、俺もあとを追って死んでしまいたい。それくらい琴里を愛しているのに、琴里は俺のことなんか……
 誰も俺を愛してない。
 俺は誰にも愛されない。
 とうさんにも。かあさんにも。こんなに愛おしい恋人にさえ、俺は愛してもらえなくて孤独だ──
 不意に手の力が抜けて、突然、琴里が激しく咳きこんだ。俺は琴里の上に突っ伏して大きく泣き出した。琴里の壊れそうな息切れが耳元で反響する。俺は泣きながら琴里に繰り返し謝って、琴里は虚脱している腕を俺の頭にまわして髪を撫でてくれた。
 俺は涙でぐちゃぐちゃになった視界を琴里に向ける。琴里がどんな表情をしているかは見取れない。でも、喉がつぶれた声で琴里は言ったのだ。
「大丈夫だよ、仙のこと、愛してるから」
 俺は目を開いた。
「怖かった、よね……あの男の子に、嫌なこと言われたんだよね」
「琴、里……」
「私は、仙の味方……だから。あの子が何を言っても、仙のそばにいる」
 涙がますますあふれてくる。琴里は引き攣る指で俺の頭を撫でていて、優しくささやく。
「仙のこと、大好きだよ。……ほんとに、大好きなの」
 俺は琴里の軆を抱きしめた。いつのまにか乾いたつながりはほどけていたけど、さらに続けようとは思わなかった。ただ琴里の体温を皮膚に溶けこませた。そうして、ようやくとげとげしかった精神が穏やかに丸くなっていく。
 琴里の首に指を伝わせ、絞め殺そうとした痕に口づけた。優しく食むように甘噛みしながら口づける。
「琴里は……俺のものだ」
 俺がそうつぶやくと、「うん」と琴里は俺の髪に頬ずりをする。
 琴里がいる。琴里が俺のそばにいる。琴里だけは俺を愛してくれる。
 だから俺は生きている。琴里が俺のすべてだ。琴里が死んだら、生きていけない。琴里がいるから、まだ死んでいない。どんなにあの記憶が暗くまといついても、琴里がいれば生きていける。あの光景に引きずりこまれそうになる俺を救ってくれるのは、いつだって琴里なのだ。
 箱を壊すと、いつもこうして、透明な光を現して俺を包みこんでくれる。そんな琴里を、俺はいつか、壊すんじゃなくて、きちんと鍵をまわして開けるようになるだろうか。
 分からないけど、それがたまらなく怖いけど、琴里は俺のそばにいる。大丈夫、彼女は俺を独りにしたりしないから──。

FIN

error: