海智乃は昔からかわいらしい女の子で、僕も彼女をお姫様みたいだと思っていた。
ふわふわのウェーヴの髪、長い睫毛が縁取る黒い瞳、綺麗な鼻梁やふっくらした頬に、柔らかい顎、白い肌に映える桃色の唇。小柄だけど、手足はすらりとしてどんな服もよく似合う。
ただ、その愛らしさで目立つせいで、人の視線に臆病で、引っ込み思案な性格をしていた。すぐ僕の後ろに隠れて、うつむいてしまう。そして、僕とふたりきりになってから、やっとほっとしたように咲ってくれるのだ。
幼稚園の頃から、海智乃はよく大人の男の人に声をかけられていた。海智乃と手をつなぐ僕は、それは「ちかん」だから守ってあげてねと海智乃のおばさんに頼まれていた。おろおろする海智乃の手を引っ張って、僕は人のいるところまで走った。
同年代の男子は男子で、海智乃の気を引こうと悪戯をしかけたり、意地悪なことをしたりする。だから、海智乃は男がかなり苦手な女の子に成長した。
小学校の高学年あたりになると、やたら海智乃のあとをついてまわり、しかし声はかけてこないストーカーみたいな男も現れた。おかげで海智乃は、背後に人の気配を感じるだけで怯えてしまうくせがついた。
女の子の友達は一応いたけど、リーダー格の子の好きな人が海智乃だと分かって、仲間外れにされるようになった。ひとりでぽつんといる海智乃を放っておけなくて、僕も友達を作るより、そのそばにいてあげることが多かった。
さいわい同じクラスだったから、海智乃が孤立しかけているときには駆けつけられた。休み時間、ひとりでいることが増えた海智乃に、僕が「大丈夫?」と声をかけると、海智乃はこちらを見て、何やら顔を伏せた。
どうしたの、と言おうとしたら、その前に「空弥ちゃん」と海智乃が僕の名前を呼ぶ。「うん?」と首をかしげると、海智乃はぱっちりした瞳を涙にゆらゆらさせながら僕を見つめた。
「私、家族以外の人は、空弥ちゃんしか安心できない」
僕は海智乃の言葉にまばたきをしたあと、小さく咲って、「そっか」と言った。海智乃は僕を窺い、「ごめんね」と睫毛を伏せる。
「重いよね」
「そんなことないよ。僕は海智乃のそばにいるから」
海智乃はそう言った僕を瞳に映し、ようやく安堵を混ぜて微笑んだ。僕はそれに微笑み返し、チャイムが鳴るまで海智乃の席のかたわらにいた。
海智乃は大切な女の子だ。そして、当たり前のようにその気持ちには愛おしさが絡むようになった。
でも、男の好奇にさらされてきた海智乃は、そんな気持ちを知ったら僕を怖がるようになるだろう。海智乃には僕は、あくまで「友人」で「幼なじみ」なのだ。僕を「男」とは思っていないから、「空弥ちゃん」「空弥ちゃん」と頼ってくれる。
だから、僕はこの気持ちを絶対に海智乃に知られてはいけないと思っていた。
中学生に進学して、海智乃はますます美しくなり、校内では有名な美少女になった。けれど相変わらず僕の陰にいようとしたから、海智乃と一緒に僕も顔を知られるようになってしまった。
「お前、あの子の彼氏なのか」と突っかかってきた先輩もいて、僕は動揺しつつもかぶりを振った。しかし、それでも僕と海智乃が共に過ごすのは変わらなかったから、その先輩は僕に嫌がらせを行なうようになった。
それはあまり陰湿なものではなく、直接的な暴力が多かった。顔は殴られなかったけど、服で隠れるところなら遠慮なく痣をべったりつけられた。海智乃といるときでも、それは先輩には少しでも彼女と話せる機会だったから声をかけてきて、「ちょっとこいつ借りるね」と僕を連れ出して、仲間と一緒に暴力を振るう。
海智乃には心配をかけないように何も言わなかった。それでも、「ほんとにあの先輩と仲がいいの?」と訊かれた。僕はずきずき疼く痣を我慢して、咲ってうなずくしかなかった。
あの冬の放課後も、僕は海智乃と帰るはずだったのに、先輩につかまって数人に暴行されていた。ひと気のない踊り場の壁に追いつめられ、刺すように腹にこぶしを突き立てられる。軆の中が逆流して吐きそうになった。
「もうあの子に近づくんじゃねえよ」
そう言われても、それを肯諾することはできなかった。だから今度は髪をつかまれ、後頭部を硬い壁に打ちつけられる。ごんっという鈍い音と頭蓋骨がきしむ痛みに唇を噛みしめ、涙をこらえた。そのあとも、突き飛ばされたり蹴りつけられたりして、壁際にへたりこんだ僕はひとり取り残されていた。
寒くて身震いしているのに、全身の痣は腫れ上がって熱い。投げうたれていたスクールバッグをたぐりよせると、夕闇が迫る中でスマホのLEDが覗いて、着信がついていることに気づいた。
軆の痛みをおして、僕は腕を伸ばしてスマホを手にする。おかあさんからのメッセだった。
『みちちゃんが帰り道で襲われたって。
空弥は今どこにいるの?
大丈夫?』
どくんと心臓がわななき、目を見開いた。
嘘だ。そんな、今日に限って。
僕は立ち上がり、打撲に眉を顰めつつも、校舎をあとにしておかあさんに電話をかけた。おかあさんはすぐに出て、海智乃が男に背後から襲われたこと、通りかかった人がいて最悪の事態にはならなかったこと、それでも今は海智乃が病院にいることを教えてくれた。
「今からその病院に行く」と言うと、『車で送るから一度帰ってきなさい』とたしなめられ、僕はひとまずそうすることにした。
月もない道を駆け足で帰宅すると、おかあさんはすぐに僕を車に乗せた。「空弥、みちちゃんと一緒じゃなかったの?」と言われて、僕はさすがにこの状況で友達といたとかのんきな嘘はつけなくて、正直に先輩からの暴力を話した。
おかあさんは表情をこわばらせ、「そのことは学校に話すからね」と言った。僕は助手席で何も答えず、何で先輩から早く逃げなかったんだろうとか、どうして海智乃に「教室で待ってて」でなく「先に帰ってて」と言ってしまったんだろうとか、ぐるぐる考えていた。
窓の向こうはすっかり暗くなり、行き交う車のライトがいくつも流れていた。
病院に着くと、海智乃のおじさんとおばさんがいた。僕が謝ろうとすると、おかあさんがそれを制し、先輩のことを話してしまった。おばさんは蒼ざめた顔にますますショックを浮かべ、「何で海智乃も空弥くんもこんなひどいことに」と泣き出した。
それを聞きつけた看護師さんによると、海智乃は傷の手当てをされ、今はカウンセリングを受けているということだった。「空弥くんが来てくれたと、あの子に伝えてもらえますか」とおじさんが言伝すると、看護師さんは請け合って、おばさんには付き添い室のベッドを勧めた。
おじさんがおばさんの肩を抱いて付き添い室に行ってしまい、僕はおかあさんと廊下の長椅子に座った。「今のおばさんたちに僕のことまで言わなくても」とちょっと思ったので言ってしまうと、「そうだね」とおかあさんも少し反省したようにうつむいた。
だいぶ待っていたと思う。おかあさんのスマホにおとうさんから連絡が入り、いったんおかあさんは帰ることになった。「帰るときは電話してくれたら迎えにくるから」と言われてこくんとした。
ひとりになって、寒いなと学ランのまま身をすくめていると、さっきの看護師さんが毛布を貸してくれた。「ありがとうございます」と素直にそれを膝にかけていると、「空弥ちゃん……?」といつもの僕の呼ぶ声がしてはっと顔を上げた。
海智乃が診察室から出てきて、廊下をきょときょとしていた。「海智乃」と僕が思わず立ち上がると、「空弥ちゃん」と海智乃は僕に駆け寄ってきた。看護師さんは僕の肩をぽんとしてからその場を離れてくれて、僕と海智乃はふたりきりになった。
海智乃もセーラー服のままだった。左頬にガーゼが当てられ、膝も手当てされている。海智乃は僕の手を握ると、泣き腫らした瞳にまた涙を浮かべた。
僕は「ごめん」と言ったきり、どんな言葉がいいのかも分からなくて黙ってしまった。海智乃はぽろぽろと涙をこぼしながら、「もう空弥ちゃんしか信じられない」と言ってしがみついてきた。
僕はどきっとして、そのまま早鐘になる鼓動に焦る。
「男の人なんて、みんな嫌い……!」
嗚咽と共にそう言う海智乃の匂いと感触に、僕はどぎまぎしつつも、手にしていた毛布をその肩にかけてからそっと撫でた。海智乃は僕の胸に顔を伏せて泣き出した。
男の人なんて、みんな嫌い。僕だって男なのに。君の華奢な軆に、こんなにどきどきしてしまう男なのに。もし海智乃に想いを告げて、僕もそんな「男」のひとりだと感じさせてしまったら、裏切りになるのだろうか。
「海智乃、僕……」
僕に近づかないで。僕は君が好きだから。君を傷つけた男と何も変わらない、欲望を隠し持った男だから。
「……僕が、海智乃を守るよ」
言えない、そんなの。だから、精一杯のそんな言葉を口にする。好きなんて言えない。愛してるなんて言っちゃいけない。僕は海智乃を傷つけられない。
きっといつか、僕はこの気持ちを抑えることがつらくなる。そして、海智乃のそばを離れてしまうかもしれない。そのときまでだとしても、僕は海智乃に恋心を悟られないように彼女を守ろう。
大事な女の子だから。海智乃は昔から僕のお姫様だから。
誰かにそのガラスのような心を壊されないように、僕自身が君を砕こうとしてしまうぎりぎりまで、僕は海智乃のそばにいる。
ナイフになれないあいだは、君の手をこうして握って、離さずにいるよ。
FIN