治らない恋

 その死体は、冬、山奥の廃病院で見つかった。壊れた電球や空の瓶の中で、もうだいぶん腐敗していた。

     ◆

『失恋から立ち直れないあなた。
 ハートクリーン療法で心を正常化しましょう。』
 朝起きて、「おはよう」という声でネットを起動させると、今日の日づけや天気、予定がアナウンスされて、区切りにはそんなコマーシャルが流れる。
 私はベッドの上で眉を顰めながら、息をついて顔にかかった長い髪をはらう。
「失恋」が「病気」と見なされるようになり、その治療法として発達したのがハートクリーン療法だ。愛する人を失って傷ついた心を穏やかにする──なんて謳われているけれど、実際は「愛する人への恋という感情を心から殺す」だけの洗脳だといううわさも絶えない。
 それでも、ハートクリーンの施設は、いつもカウンセリングの予約がいっぱいであるらしい。
 まあ、私には関係ない。だって、浩成ひろなりとは終わってないもの。ただ連絡がずいぶん来ていないだけで、それはきっといそがしいからで、私は失恋なんてしていない。こちらがほんとにたまに連絡したら、既読だけはつけてくれるし。
 なのに、友達や同僚は「絵菜子えなこ、失恋してない?」「ほんとに大丈夫?」なんていちいちうるさい。いそがしいと言われてるのに、寂しいやら返事が欲しいやらと、駄々をこねる女には私はなりたくない。そうしたほうが、よっぽど嫌われて失恋になるじゃない。
 私はそう思っていたのに、ある日、ネット上のポストにこんなメッセージが届いていた。
本宮もとみや絵菜子えなこさん、ご両親からの相談で、あなたは失恋を患っていることが認定されました。速やかにハートクリーンの施設でカウンセリングを受けてください。カウンセリングを拒否した場合、あなたの失恋は重篤化する恐れがあり──
 もちろん、私は実家のおかあさんに通話をかけて、何を勝手に相談なんかしているのかと怒った。するとおかあさんは、『浩成くんにお願いされたのよ』とあきれた声で言った。
『こっちからはもう半年以上連絡していないのに、いまだにたまにメッセージが来て迷惑だって……怖いとも言ってたわよ? 認めたくないのは分かるけどね、あんたはとっくに捨てられてるのよ』
 何……それ。
 何でそんな作り話するの? 浩成がそんな残酷なこと言うはずがない。そんなの、おかあさんより私が知っている。浩成は、むしろ少し気が弱いくらい優しくて──
 もちろん、カウンセリングなんか受けずにいたら、またハートクリーンからメッセージが届いて、通院を催促された。メッセージを拒否しようと思っても、国の公式からのメッセージなのでできない。
 さすがに浩成から説明してもらおうかな、とも思っていた夏の日、私は失恋の重症患者だと通報を受けて、無理やり施設に引きずっていかれた。「誰が通報したの?」と車に乗せられながらわめいても、「通報者の情報は保護されているので」としか言われなかった。
 しぶしぶ、カウンセリングを受けた。ちゃんと話せば、医者は周りが勝手に過敏になっていることを分かってくれるだろうと思った。
 しかし、私は通院どころか、早急に施設で暮らしたほうがいいと判断された。自分の部屋に荷物を取りにいくことさえ許されないまま、施設での生活を余儀なくされた。
「分かるー。あたしもそんな感じでここに来たよ」
 食堂や浴場での、患者同士の接触は禁止されていない。だから、私にも施設内に友達ができた。
 特に仲良くなったのが、少し年上の女の人である姫奈ひめなさんという人だった。
 私がこの施設に来たいきさつを愚痴ると、姫奈さんはうんうんとうなずきながらそう言った。私も姫奈さんも、淡いピンクの病衣を着せられている。
「カウンセリングでさくっと恋を殺せる人もいるけど、あたしはやっぱ無理なんだよね。穴が埋まらないまま、今じゃ末期だよ」
「……自分は失恋した、とは思うの?」
「どうだろうねえ。ここ、見舞いも禁止だしさ……あの人がどうしてるか、分かんないじゃない。待ってくれてるかもって期待してるから、あたしはここを出してもらえないのかもしれない」
「私は──失恋なんて、したと思ってない」
「いいんじゃない? どのみち、恋してる心を殺すなんて、あたしはいいことだと思わないよ。想うぐらい自由だよ」
「そう、だよね。これは私の気持ちなのに、何で周りに殺せ殺せって言われるか分かんない」
 それでも、少しずつ、麻痺が軆にまわっていくみたいに、私は失恋したのだろうかと思うようになってきた。
 なぜなら、一緒に暮らしている人たちが、みんな私と同じだから。
 私はいそがしい彼を待ってるだけ。僕は冷たくされても彼女を愛している。あたしはあの子のことを信じていたい。俺はあいつを忘れるくらいなら死ぬ。
 好き。好き。分かっているけど好き。いや、ここさえ出たら、また連絡をくれるかもしれない。この想いを受け入れてくれるかもしれない。
 だから、あの人を愛しているまま、自分をここから解放してほしい──
「そもそも、恋というものが心の異常なんです。失恋で異常は病に進化します。でも、きっと治るものだから」
 医者には、何度もそう言われた。私は泣きながら首を横に振った。
 違う。病気じゃない。私が浩成を愛したのは、異常なんかじゃない。ただ彼の隣にいたいと思っただけ。今もそう思っているだけ。
 そして、彼だって私がこんな場所を出て、隣に戻ってくるのを待ってくれている。
「本宮さん。今日は大事な話があります」
 入院していても、カウンセリングは行なわれる。
 ここに来て、どのくらい経っただろうか。姫奈さんと話していたのに、看護師に呼ばれて診察室に来た。
 医者はむずかしそうな顔をしていたものの、告げるときは私の目をまっすぐに見た。
「心の症状が致命レベルに達しています。このままではひどい精神状態が続くでしょう。そこで、ハートクリーンの手術をお勧めします」
「手……術?」
「心を安楽死させて、リセットする手術です。これまでの記憶もなくなりますが、生活に必要な習慣や言語能力は残しますので──」
「え……えっ? 記憶がなくなるって、そんな、冗談じゃない──」
「本宮さんは、遠藤えんどう浩成ひろなりさんを記憶している限り、失恋を治せないと診断されました。なので、これからも健やかに過ごすためには、遠藤さんへの気持ちを除去する必要があります」
 は……?
 何、それ。
 分かんない。わけが分からない。浩成を愛していることが、そんなに重罪だっていうの? 一度死ぬような体験をするほど? 仮に浩成に失恋していたとしたって、そんなことは……
「失恋……した、ことを」
「はい?」
「私が失恋って認めたら、手術しなくてもいいですか……?」
「………、症状の経過によりますが、検討はされるかと」
「じゃあ……私、失恋でいいです。忘れたくない。殺したくないです。もう浩成に関われなくてもいいから、私──」
「本宮さん」
「浩成には嫌われたって認めるから、死にたくない」
「……手術は急を要しません。どうか、健康でいられる方法をよく考えてみてください」
 いつのまにか、私は泣き出していた。看護師さんに肩を抱かれて診察室を出た。
「絵菜子ちゃん」と泣き声を聞きつけた姫奈さんが、看護師さんの代わりに私の肩を抱いた。私は手術のことを話して、浩成を忘れたくない、だから私は失恋でいい、と訴えた。
 姫奈さんは何も言わずに私の肩をさすっていてくれた。
「絵菜子ちゃん、もしかしてあたしたちは、死んだほうがいいのかもしれないね」
 やっと私の嗚咽が落ち着いた夜、ほかに人はいなくなった談話室で姫奈さんがそうつぶやいた。
「記憶消して心を殺せなんてさ……そんなの、死ぬのと何が変わらないの? そこまでして得る『健やかな心』って何だろう。恋さえしなきゃよかったのかな。でも、忘れたってきっとまた、誰かに恋はするじゃない。それがまた失恋になったら、そのこともまた忘れるの? そんな壊れやすいもの、生きてるって言えないよ」
 私は窓から見える月を見た。浩成と一緒に、月って見たことあったかな。何だか、もう思い出せなくなってきた……
 浩成のそばにいたかった。
 つながっていたかった。
 でも、もう彼は私のことなんて葬り去っている。
 ああ、本当に、私が生きてる意味なんてないや──。
 それから数日後、姫奈さんがあっけなく自殺してしまった。方法は伏せられていた。それが分かったら、真似して自殺を選ぶ人がいるからだそうだ。
 ここに来てから、たくさん話をして支えてくれた姫奈さんがいなくなって、私はいよいよバランスを失ってきた。
 浩成の名前を呼んでいた。最初だけ。次第に「おかあさん」と泣いているようになった。それでやっと面会を許されておかあさんに会えたとき、「ねえ絵菜子、手術しよう。おかあさんのことは忘れないようにしてもらえるから」と言われて、ついに私はうなずいてしまった。
 手術の前日、私は手紙を書いた。遺書みたいな内容だった。いや、たぶん遺書なのだろう。これまでの私は、明日には死んでしまうのだ。
 そう思うと、書き終えた手紙に詰まった『今』の私が惜しくて、ベッドに仰向けになっても涙がこぼれつづけた。
「絵菜子ちゃん」
 ふとそんな声がして、私は伏せていた睫毛を上げた。
「楽になってね」
 そう微笑んだ姫奈さんが、私を哀しそうに見つめている。

     ◆

 落ちていた遺書によると、彼女は精神病院を転々としていて、どこで何を言っても妄想や妄言が顕著だと診断され、それがつらかったと書かれていた。最後には彼女の名前があった。本宮絵菜子。遺体は最終的に自殺と判断され、事件として報道されることもなく、捜査は幕を閉じた。

 FIN

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