まだもう少し

 小学四年生のとき、仲良しのグループの中でひとりだけ違う意見を言ってしまったとか、些細なことだったと思う。
 そこから仲間はずれにされるようになった私は、しばらく不登校になった。部屋も出ようとしない私に、両親は困り果ててしまったけど、夏休みのお盆の頃、休暇中のおとうさんが「友達を探しにいこう」とドア越しに声をかけてきた。
 友達。私はそうっとドアに隙間を作り、「私の友達になってくれる子がいるの?」と顔を覗かせた。
 すると、「もちろん!」と私が顔を出したことにほっとした様子で、おとうさんもおかあさんも微笑んだ。それから車に乗せられ、連れていかれたのはペットショップだった。
 犬、猫、鳥や魚、ハムスターやリス、爬虫類まで、鳴き声が入り乱れる中でそこにはいろんな動物がいた。
実那みなが一番友達になりたい子を家族にしよう」
 おとうさんが私の頭に手を置き、「どの子でもいいの?」と私は訊く。おとうさんはうなずき、「ただし、ひとりだけだぞ」と言った。一匹、とかそういう言い方をしない私のおとうさんは、優しいと思う。
 私は動物園に少し似たにおいの中を、ゆっくり歩きまわった。犬も猫もみんなかわいい。かわいいけど、一番友達になりたい子なんて、そんなにぱっと決められない。
 そう思っていると、「かわいいけど、大型犬でしょう? 将来、やっぱりお世話がねえ」なんて声がしてそちらを見た。「そうですかー」と言うペットショップのおねえさんは、ふかふかの真っ白な犬を抱いている。その子を断ったらしい家族は、さっさとケージの中のほかの犬を見始めて、白い犬は少し寂しそうにそれを見つめた。
「すぐ家族が見つかるからね」とおねえさんに頭を撫でられたその犬は、ケージの中に戻されそうになった。それを「待って!」と叫んで止めた私は、白い犬を抱くおねえさんに駆け寄った。
「真っ白で綺麗。おとうさん、おかあさん、この子真っ白なの」
 私が声をはずませると、両親も歩み寄ってきた。私が手を伸ばすと、白い犬はこちらを見て私の指先をちろっと舐める。くすぐったくて、つい笑ってしまう。
「はは、もこもこだなあ」
 おとうさんも笑って、「えーっと、サモエドかあ」とおかあさんはその白い犬の写真も貼ってあるケージを覗く。
「はい、優しくて穏やかな性格なので、子供さんともすぐ仲良くなるんですよ」
 おねえさんはそう言うと、私の目の高さにしゃがみ、その子を抱っこさせてくれた。ぬいぐるみみたいなふわふわした感触が、柔らかく温かい。「何か咲ってくれてるみたい」と私がその子の顔を覗きこむと、「サモエド・スマイルって言うんですよ」とおねえさんはにこにこと説明してくれる。
「いいなあ。咲ってくれるの嬉しい」
 そう言いながら、私は腕におさまるその子の頭を撫でる。そのあいだにおとうさんとおかあさんはその子のケージを見て、値段とかワクチン接種、性別を確認していた。「今はこんなにちっちゃいのに、大型犬になるんですね」とおかあさんが言うと、「まだ生後一ヶ月なんです」とおねえさんは微笑む。
「生まれて一ヶ月で、家族と離されたの?」
 私がびっくりして問うと、「そうなんです。だから、私も早く新しい家族が見つかってほしいなあと思ってるんですよ」とおねえさんはその子の喉あたりをくすぐった。気持ちよさそうに目を細めるその子に、私はおとうさんとおかあさんを振り返る。
 ふたりとも、それで分かってくれた。
 そうして、そのサモエドの子犬が私の新しい家族、新しい友達になった。おとうさんの開口一番が「もこもこ」だったのと、雌なので名前は「モコ」にした。
 家の中で一緒に生活することも両親は許してくれて、私はモコと遊んだり散歩に行ったりするために、少しずつ部屋も家も出るようになった。五年生に進級してクラスも変わると、学校にも再び登校できるようになった。
 小学校を卒業して、中学も高校も大学も、家に帰ればすっかり大きくなったモコがいて、私のあとをついてきた。
 モコはボール遊びや骨のおもちゃの引っ張り合いが好きだった。けっこう力も強いのだけど、ちゃんと加減は分かっていて、私を引っ張りまわすことはない。
 私が疲れて眠たくなると、寄り添って体温を分けて、自分もすやすやと眠ってくれた。
 そんなモコが亡くなったのは、家族になってちょうど十五年になる夏のことだった。
 私は二十五歳になって、毎日仕事でくたくたでなかなかモコと遊べていなかった。それでも、休日や帰宅が早かった日は、散歩を担当することは欠かしていない。
 その朝、何だかモコは具合が悪そうで、おかあさんが病院に連れていくとは言っていた。けれど、まさかこの猛暑で体力がそこまで低下していたと思わなかった。
 おかあさんが近所の動物病院に連れていこうとしても、モコは起き上がろうとしない。大型犬なので抱っこしてあげることもできない。困っておかあさんが動物病院に電話すると、懇意の先生だったので、病院がお昼休みになってから家まで様子を見に来てくれた。
 処置はしてもらったそうだけど、そのまま夕方頃、熱中症で急死という事態となってしまった。
 夜に仕事から戻って、泣いているおかあさんにそれを聞かされた私は、しばらく茫然として涙も出なかった。
 死んだ? モコが? そこにいるのに。眠っているだけではないの?
 そう思って触れてみても、モコは目を開けてくれない。「モコ」と呼んでもこちらを振り向いてくれない。
 嘘。嘘だ。モコが死んだなんて、そんな──
 視界が揺らいで、やっと涙があふれてきた。触れたモコの軆はやはりもこもこだったけど、伝わってくる熱がない。
 死んじゃったんだ。もう私は、モコのぬくもりに触れられないんだ。あの黒い瞳に映ることも、一緒におもちゃで遊ぶことも、寄り添いあって寝落ちてしまうことも……
 翌日、有休を取った私がモコを火葬で見送った。渡された骨壺が思ったより小さい。それを抱いて帰宅すると、「おかえり」とおかあさんはモコを受け取り、玄関先のモコの犬小屋の前に優しく置いた。
 そして、犬小屋のそばの窓を見て、「モコの寝床、ここからの陽射しがいいと思ったけど、暑すぎたのかなあ」と哀しそうにぽつりと言った。
 その夜、おとうさんが夕食を食べながら「虹の橋」の話をしてくれた。亡くなったペットは、虹の橋のふもとで、飼い主を待っている。そして、飼い主が現れたときに嬉しそうに駆け出して、一緒に天国へと虹の橋を渡る。「きっとモコは、おとうさんやおかあさんより、実那を待っていると思うよ」とおとうさんは言ってくれた。私はうつむいてまた涙目になりつつ、こくりとした。
 私を待っている。私が死んで、そちら側に行けるまでモコは待っている。
 ……本当、かな。私が死ぬのっていつだろう。まだ二十五歳。何事もなく生きていけたとして、死ぬのは八十くらい?
 私、モコのこと五十年近く待たせるの?
畠瀬はたせ、元気ないね」
 翌日、昼休みにぼーっとサンドイッチを食べていると、職場の同じチームの大城おおしろくんが声をかけてきた。私は大城くんを見上げ、「そうかな」と力なく咲う。
「何だよ、失恋でもした?」
「……飼ってた犬が死んだの」
「え、そうなの? それは……寂しいな」
「小学校のときから、ずっと一緒で」
「そっか。俺も子供のとき、母親の嫁入りにもついてきた猫が死んでさ。ペットはもう飼いたくないなあって思った」
「そうなんだ……」と私はカフェオレをストローから少し飲む。
「もう飼いたくない……って思うんだね」
「え、違う? 次考えてる?」
「ううん。ただ、もし飼いたくなっても、あの子以上の子はいるわけないって思う。どんないい子でも、較べると思う」
「大事だったんだ」
「うん。会えるなら何でもしたい……」
「会えるよ。何だっけ、虹の橋とか言うじゃん」
「おとうさんも言ってた。飼い主を待ってるって」
「そう。だから、元気出して」
 大城くんは私の肩をぽんとすると、ランチに行くのかオフィスを出ていった。
 虹の橋。本当に会えるのかな。もう一生、モコは私のそばにいない。なのに、胸を張って会えるほど、私はちゃんと生きていけるのだろうか。
 あまり食欲もなく、眠りも浅い日が続いた。何とか仕事には行っていた。だけど集中力もないし、やる気も入らない。ミスが増えるより作業量が落ちて、同じチームで私の仕事を分担することになった。嫌な顔をする人はいなかったけど、みんなの仕事を増やして申し訳なかった。
 私ひとりが残業する、何ならタイムカードは終業時刻に切ると課長には言ったけど、そういうブラックなことはできないと言われた。私はふらふらとデスクに戻り、PCの画面を見つめた。そしたら、ふとその白光にすうっと気が遠くなった。
「畠瀬!」と呼ばれた気がしたけど、私はそのまま椅子からすべりおち、意識を失ってしまった。
 モコに会いたいなあ。会えるなら何でもするのに。死ねば会えるのかな? それなら、私は……
 目を覚ますと、私は若草がそよぐ草原にいた。青い空に、鮮やかな虹がかかっている。え、と思いながら起き上がると、あのペットショップのようにいろんな動物たちがいて、ひなこぼっこをしてくつろいでいる。
 私、オフィスにいなかったっけ?
 そう思って目をしばたいていると、不意に服の袖を引っ張られてそちらを見る。はっと息を飲んだ。そこで私を何やら引きずろうとしているのは、間違いなくモコだった。
「モコ」
 私が手を伸ばしかけると、モコはそれを止めるみたいにひと声吠えた。そして、今度は裾をくわえて引っ張る。
「……モコ」
 私は虹を見上げた。あれを渡れば──
「もう、天国行こう? 一緒に虹の橋渡ろうよ」
 私が泣きそうな声で言うと、モコはじっと黒い瞳に私を映した。いつも咲っているように見えたサモエド・スマイルのモコが、怒っているのがなぜか分かった。「だって」と私はぽろぽろと涙をこぼす。
「モコがいないなんて、嫌だよ。私、まだモコがいないとダメなんだよ」
 モコは私の顔に顔を寄せて、涙を舐めてくれた。そのまま、私はひとしきり泣いた。モコは私が落ち着くまで寄り添っていてくれて、それから再度、虹の空とは逆方向へと私の服を噛んで引っ張りだす。私と遊ぶときはいつも加減していたモコが、頑として私を引きずっていく。
 ああ。まだダメだって言ってるんだ。もうちょっと頑張れって言ってくれてるんだ。
「モコ、私のこと待っててくれる?」
 何とか自分の脚で立ち上がり、そう問いかけた私をモコは見上げる。今度はきちんと、サモエド・スマイル。私はそれに笑みを返すと、虹の橋に背を向けて駆け出した。
 歩いていたら振り返ってしまいそうだから、走った。
 次第に息が切れてきて、苦しい、と目をつぶったとき──
「畠瀬? 大丈夫か?」
 ぱっと目を開くと、そこは会社の仮眠室だった。かたわらに大城くんがいる。私はぽかんと彼の顔を見つめ、「あれ……」と自分を見下ろした。いつも通り、スーツを着た自分だ。
「急にぶっ倒れたから、課長もみんなも心配してるぞ。おかあさん来てくれるそうだから、そしたら病院行け」
「えっ? でも仕事、」
「バカ。もっとチームのこと頼っていいんだよ。こういうときのために、チーム組んで仕事してるんだろ」
 私はしゅんとうつむき、そうなのかな、と思ってぎこちなくうなずいた。それから、「何か、死んでたのかも」とつぶやいた。
「は?」
「今、意識なかったあいだ」
「息はしてたぞ」
「モコに会ってたの」
「もこ?」
「こないだ話した、死んじゃった犬」
「え、マジで? そりゃ……来るの早すぎて、びっくりしてただろ」
「びっくり……というか、怒ってた」
「まあ、怒るよ。後追いなんてしてほしくないだろうからな」
「……うん」
 私が顔を伏せると、ふと私の手に大城くんが手を重ねた。
「家族が死んだのはつらいだろうけど、まだもう少し、生きてみろよ」
「………、」
「誰かにそばにいてほしいなら、俺とか空いてるしな」
 私は大城くんを見た。大城くんは照れたように手を離そうとしたけど、私はその手をつかんで笑みを作る。
 モコはもういない。そんな人生、生きたくないと思った。けれど、私はひとりぼっちになったわけじゃない。モコが家族に、そして友達になってくれたとき、私は仲間はずれでひとりだったけど、今は違う。私のそばには、モコみたいに寄り添ってくれる人がたくさんいる。
 そして、そんな私をモコは見守ってくれている。あの若草の草原で。虹の橋のふもとで。
 だから、まだもう少し──
 そのとき、私の名前を呼びながらおかあさんが慌てた様子で仮眠室に飛びこんできた。私と大城くんは変な声をあげて、急いで手を離す。
 でも、ばっちりそれをおかあさんは見てしまった様子で、「あら」なんて言ってから何やら笑いを噛む。「お、おかあさんですよねっ。畠瀬さんと同期の大城と申しまして」と取り繕う大城くんの声を聞きながら、私は大城くんの体温が伝わっていた手を見つめる。
 そのぬくもりは、確かに、モコを初めて腕に抱いたときの柔らかい温度だった。

 FIN

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