『発作。今度こそ死ぬかと思った。
ほんと、もう嫌だよ。
私は何でこんなふうに生まれたんだろう。』
指をすべらせて、スマホでSNSを流れを追っていると、また千里佳のそんな発言が目に入った。こめかみに静電気のようないらだちが走る。
それからしばらく、千里佳は幼い頃からの心臓病について語りはじめる。
『つらい』
『苦しい』
『どうして私はこんなに──』
舌打ちしてスマホを投げた私は、しばらく呼吸をこらえて過ぎ去るのを待ってみた。憎悪にも近い、醜い感情の暴走が神経を逆撫でていく。
うるさい。うるさい。あんたがつらいのはよく分かってるよ。でもわめきちらすのはやめてよ。私はこんなに頑張って生きている、そんなアピール、私にはうざったいだけ。
はあっと大きく息を吐くと、あきらめてベッドスタンドの脇のゴミ箱を足元に引き寄せた。手首はまだかさぶただ。それでもまくらもとのカミソリを手に取り、ゆっくり皮膚に刃を刺しこんで手首を切っていく。
ひと筋。ふた筋。赤い雫がふくらんでしたたり、ぱた、ぱた、とゴミ箱の中に音を立てて落ちていく。痛みはない。それにさらにいらいらする。
もっと深く刃を刺して、そのまま力をこめて横に引いて。やっとつきんと裂け目が痛む。
──この程度?
泣きたいのに、涙が出ないから嗤う。もっと頭も心も痛いのに、手首さえそれを表現してくれなくなった。
初めて手首を切ったときは、もっと痛くて、それが嬉しくて。今では、もう切っても痛くない。この程度では満たされない。手首に殴り書く叫びは、錆びつくだけで人にも届かない。
白い壁の黒い時計を見ると、零時が近い。急速に暑くなった七月の深夜を、二十五度設定の冷房がなだめている。虫の声と隣人のいびきが混ざって耳障りだ。
今の仕事がバイトから準社員になって、二十七歳、やっとひとり暮らしを始めた。あの家を出られるなら何でもよくて、こだわりもなくこの安くて狭い部屋に決めた。いざ住んでみると、壁が薄くて生活音が汚いほどうるさい。
それでも、あの家よりマシだと考える。怒鳴る父。無責任な母。この部屋にいても、相変わらずうんざりする気分になることはある。それでも、あのどんどん腫れ上がっていく狂気じみた殺意に犯されていくよりはいい。
明日も仕事かとため息をつきながら手首にティッシュを巻くと、冷風でひんやりしたシーツに横たわった。
スマホを手にして、画面を起こそうとしたものの、やめて充電コードにつなぐ。電気消さなきゃ、と思っても動くのがかったるくて、電燈に目を細める。
千里佳、また発作か。そっか。いい加減にしろよ。不幸できらきらされるのは疲れる。
軆の感覚が溶けて、うつらうつらと意識が揺らめく。手首を一瞥すると、ティッシュが赤を毒々しく吸っている。ぼやける視界でその深紅を見ていると、少しだけ、楽になった気がした。
汗と化粧の臭いが混ぜ返る、暑苦しい満員電車で会社に向かう。女子社員がさざめく更衣室で、制服の紺のベストとタイトスカートを身につけて、配属されている部署のオフィスに踏みこむ。
朝陽がまばゆく、同僚たちが挨拶を交わすその中には、すでに千里佳のすがたがあった。無視したって気づいたら来るよな、とデスクを縫って歩み寄る。
スマホをいじっていた千里佳は、「おはよ」と私に声をかけられて、顔を上げて笑顔を作った。
「おはよう」
「昨日、大丈夫だった? 早く寝ちゃって、TL気づいたの朝で」
「うん。彼氏が来てくれたし」
「そっか。今日もあんまり無理しないで」
「ありがとう」
もう一度微笑んだ千里佳は、細く白い腕を半袖のブラウスから伸ばしている。全体的に細身で、髪はウェーヴのボブカットで、箱入りのお嬢様に見える。
頭もいいし、気もきくし、ほぼ同期なのに、私より先に準社員になったのも当然なのだろう。
笑顔は上っ面で愛想の使い方が下手な私のブラウスは、いつも長袖だ。切りはじめた中学生の頃から、手首は人に見せない。特に、社会人になってからは気をつけている。自傷癖なんて知られたら、その場でヒカれて仕事もクビだ。
千里佳は心臓の病気のことを職場に理解してもらっている。気立てのいい子なので、それを理由に追いつめる人はいないし、むしろみんな気遣っている。
生きていくことに必死なのは同じなのに、私は傷を押し隠さないとやっていけない。千里佳は励まされて支えてもらえる。何でだろう。私だってあんな家で育ったという幼い頃からの重荷があるのに、そんなことは何の言い訳にもならない。私の傷は、千里佳の病のようには認められない。
千里佳に罪はない。千里佳を怨みたくなるときもあるけど、彼女が病気なのはどうしようもない。
ただ周囲の人間にひどくいらいらする。千里佳には優しい。千里佳ばかり選ぶ。期待も心配も千里佳に向ける。
卑屈だと分かっている。自意識過剰だと思う。それでも、息を止めている私に、誰かひとりでも目を留めないのだろうか。苦しげに息切れする千里佳にしか目がいかないのだろうか。
こんなクズなことを考える人間だと、感じ取られているのかもしれない。だとしたら、確かに誰も私なんか見ないだろう。
だから死にたくなる。さすがに死んだら、一瞥くらいするでしょう? その一瞥のために死にたいと思う。
ないがしろにされつづけていると、頭がおかしくなる。比較されて、切り捨てられると本当に死にたい。同い年の私と千里佳は、この職場でいつも較べられる。そして私はいつだって「ダメ」なほうだ。
誰ひとり、千里佳より私を見るなんてしない。もはや、私は死ぬしか能がない気がする。死ぬこと以外で、自分の気持ちを伝えられない。死にたいな。千里佳といると、そんなふうに感じる。
空をでたらめに引っかく蝉の声と、汗で全身がどろどろになる猛暑が続いて、いつしか通勤ラッシュの中に制服すがたがいなくなった。夏休みか、とそれでも座席はないから扉に押しつけられて、会社の最寄り駅で吐き出される。
その日出社すると、いきなり課長に残業できるか訊かれた。こういうときだけ、君ならできるからと媚びられる。いつもは、できるのは千里佳のほうだと言っているくせに。
無論、千里佳はどうなのかなんて言ったら、遅くまで使ってあの子の軆に負担をかけるのかとか言われるから黙って引き受ける。まあ、私が遅く帰宅したところで、実際誰も心配しない。千里佳は家族や彼氏が心配する。
自分の作業は夕方までに片づけて、十七時、欠勤した人のぶんの仕事である残業に取りかかる前に、チョコチップクッキーを齧って休憩を入れる。スマホの着信をチェックすると、寿弥から短いメッセが来ていた。
『給料入ったから飯おごってやってもいいぞ。
とりあえずお前の会社行く。』
そのメッセを眺めて、ほんと分からん、と思った。寿弥は小学生のときからの幼なじみで、腐れ縁がいまだに続いている。
たまにこんな連絡をよこすのだけど、いい奴なのか、気があるのか、悩みそうになるときがある。実際食事に行ったらぜんぜん色気なんてないし、彼女持ちのときだってあるし、やはりただのいい奴なのか。
今は彼女はいなかったように思うけど、だからといって私は寿弥に名乗りを上げたいとは思わない。まあ、めずらしく私の相手をしてくれるので、ありがたい存在ではある。
しかし、今日の私は残業で、ここまで来てくれてもすぐ動けないのだけど。一応その旨をメッセして、集中のためにスマホはマナーモードのまま、私はPCのキーボードをたたきはじめた。
オフィスには私ひとりで、別部署には人がいるのだろうけど、捨て置かれたようないつもの被害妄想が意識を圧迫する。
せめてほかの人に分配して残業にしてくれたらよかったのに。そうしたら残業代が余計に出るから、課長がやるわけないけど。時給のバイトでもなくて、自分たち社員でもない、準社員はちょうどこき使いやすい。
でも、それなら準社員はもうひとりいるじゃない。千里佳も準社員じゃない。なのに、何で私だけ、欠勤の穴埋めなんてやらされているのか──
そのときだった。突然オフィスのドアの向こうで物音がした。手を止めて振り返ると、「大丈夫ですか!?」と騒がしい声もして、その声に聞き憶えがあった私は立ち上がって廊下を覗いた。
そこでは、私服の千里佳が壁に手をついて軽く息を切らしていて、その肩を寿弥が支えていた。ほかの部署のドアもいくつか開いたけど、「すみません」とその人たちには私が素早く断って、千里佳に駆け寄る。
「発作? 救急車呼ぶ?」
千里佳は首を横に振り、「めまいがして」と寿弥の腕から壁に移って寄りかかり、丁重に呼吸する。
私は私服の寿弥を一瞥し、「何であんたがいるの」と言いながら千里佳をオフィスにうながす。寿弥は我に返って追いかけてくる。
「いや、もう電車乗ったから行くわってメッセしただろ」
「読んでない」
「ああそうですか。その人、大丈夫なのか。てか知り合い?」
「同僚。ついてくるならこのドア開けて」
「あ、おう」
寿弥は先まわりして、私と千里佳のオフィスのドアを開けた。私は手前の応接のソファに千里佳を座らせて、「帰ったんじゃなかったの?」と隣に座る。「さすがに」と千里佳は背もたれに沈みながら私を見る。
「女の子ひとりじゃ危ないでしょ」
「………、どうせこれが来ると思ったから」
ソファのかたわらで腕組みをしていた寿弥をちらりとすると、「彼氏できたんだ」と千里佳はちょっと咲う。
「冗談。ただの友達だよ」
「隠さなくてもいいのに」
「彼氏できたんなら、とっくに報告してるし」
「そうなんですか?」と千里佳は寿弥を見上げて、「こいつだけは女として見れないです」と寿弥はまじめくさった顔で言った。ムカつく。いきなり「彼氏です」なんて名乗られても困るけれど。
「そっか」とやっと信じた様子で千里佳は息をついて、「でも、どっちみち余計な心配だったね」と立ち上がろうとして、私はそれを止める。
「少し休んでいったほうがいいよ。私は仕事残ってるけど、こいつが相手するでしょ」
「でも──」
「俺でよければ、ぜんぜんついてますよ。どうせ、こいつが仕事上がるの待ちますし」
千里佳は私を見て、私は肩をすくめて立ち上がり、「ほら」と寿弥の肩を千里佳の隣へと押した。寿弥は千里佳の隣に腰を下ろし、「すみません」と千里佳は身を起こして頭を下げる。
私は自分のデスクに向かい、止まっていた画面への入力作業を再開した。千里佳は気さくな子だし、寿弥は親しみやすい奴だし、すぐにふたりは打ち解けた様子だった。相変わらず取り入るの早いなあ、とぼんやり考えながら、気にしないように努めてキーボードをたたいた。
残業が終わる頃には、千里佳も回復したようで「じゃあまた明日ね」と手を振って帰っていった。
私は私服になって、オフィスの戸締まりをすると寿弥と一緒にビルを出て適当な居酒屋に移った。「何かすごいなー」とビールをふたつ注文した寿弥は、カウンターに頬杖をつく。
「すごい?」
「千里佳さん。病気のこととか話してくれたけどさ。軆の管理だけでも大変なのに、頑張って働いててさ」
「彼氏いるよ」
「何でそうなる」
「何となく」
「聞いたわ、それくらい。むしろ、連絡先交換してよかったのかな」
「訊いたの?」
「訊かれた」
「じゃあ、いいんじゃない」
そう言っておいたけど、夜、部屋に戻ってシャワーを浴びて、スマホでSNSを見た私は眉を寄せた。ここでも千里佳と寿弥はつながったらしく、会話が私のTLにまで筒抜けだった。
私の話題は出ていない。私は見れないメッセで悪口をやりとりされるよりいいのだろうけど、そのはずむ会話を見ているといらいらした。
何だか、ここで私が何か発言すれば、混ざりたいみたいだし。実際、スルーされたら傷つくだろうし。でも別に構ってほしいわけではなくて──舌打ちすると、スマホを投げてまくらに突っ伏した。
「寿弥さん、いい人だね」
SNSでの会話を見たなんて言わなくても、私が見ているのは分かっているだろう。八月に入った昼休み、特に説明もなく千里佳はそんなことを言ってきた。
いい人。ある意味、完全に対象外の言葉だけど。そういう差し障りない感じでなく、ちゃんと好意がある口調だった。私は千里佳を見て、あんた彼氏いるじゃん、と思った。
「ほんとに、寿弥さんと幼なじみでいいの?」
「幼なじみ以外ないし」
「ごはん誘ってくれるとか、寿弥さんは違うかもしれないよ」
「違ったとしても、私のほうがありえない」
「そうなのかなー。一度デートしてみたら?」
「気持ち悪い」
「だったら、私と、私の彼と、四人で出かけてみない?」
「いや……寿弥のことはほんとに、」
「彼氏も寿弥さんに会ってみたいって言ってるし。そしたら、四人いないとおかしいでしょ?」
私は、昼食のコンビニの鮭おにぎりを食べる。
会ってみたいって。そもそも彼氏にほかの男と盛り上がってるのを知られて、気まずくないのか。話したのだろうか。SNSを見られているのか。
分からないけど、「お願い」とか言われてそれでも断る理由も見つからない。「私と寿弥はほんとに何にもないからね」とそれだけは念を押して、あとは千里佳が彼氏にも寿弥にも連絡して、次の日曜日に四人で海までドライブすることになった。
知和さんという千里佳の彼氏とは、私も会うのは初めてだった。顔立ちは意外とかわいい感じで、これがタイプなら確かに寿弥はないな、と一見クールなルックスの寿弥を見る。
知和さんの運転で、助手席はもちろん千里佳で、後部座席で私の隣にいる寿弥は「何だよ」と私の視線にガンを返してくる。「別に」と私は窓の向こうに広がってくる海を見やった。
水着は持ってこなかったというか持っていないし、千里佳ももちろん海なんて入れない。満車に近い駐車場に車を停めると、蝉の悲鳴が反響するアスファルトを歩いて、海の家で遅めの昼食を取ることになった。堤防越しに見ても、家族連れや友達の団体、恋人同士で夏の海はにぎわっている。
波音と潮風の匂いが満ちる海沿いを歩きながら、暑いな、と思っても黒の薄手のカーディガンを脱ぐことはできない。ほかの三人は半袖で、日射で肌を焼いている。
見つけた海の家でテーブルを確保すると、焼きそばやラーメン、とうもろこしを注文して、いそがしそうなバイトらしき女の子が持ってきてくれるのを待った。
協調性があんまりない私は、楽しそうに談笑する三人にあんまり混ざれない。嘘咲いくらいしているけれど、正直、やっぱり部屋で休んでいたかったと思う。
汗がどくどくと流れて、化粧崩れるなあ、と思っていると、「大丈夫ですか?」とふと斜め向かいの知和さんが私を見て言ってきた。
「えっ?」
「いや、カーデ暑そうですから」
「あ、ああ……大丈夫です。肌焼きたくないので」
「やっぱ女の人はそうですよね。千里佳、半袖とかなー」
「日焼け止め塗ってるからいいのっ」
「けど、ほんと、千里佳さんはあんまり日に当たりすぎるのもよくないんじゃないですか」
「ん、まあ、そうなんですけど。暑いのに風通しがよくないのもいけないので」
「そっか。今年も暑いし、それがいいですよね。──お前のこだわりが分からん」
「うるさいな」
無愛想に私が答えたところで、「お待たせしましたー」と女の子が香ばしい匂いの注文したものを持ってきてくれた。
私は五つ入りのたこ焼きだ。本当はかき氷がよかったのだけど、みんながっつり頼んでいるので私もこれくらい注文しないと空気を読んでいないみたいだった。ひとつ口に頬張ろうとしたけど、ほかほかしているどころでなく熱い。
炎天下で食べるものじゃなかったと後悔しているのをよそに、三人は楽しげに食事も会話も進める。
「そういや、千里佳さんと知和さんってつきあいどのくらいなんですか?」
「あ、高校時代からです。知和くんが美術部の先輩で」
「ふたりとも絵描けるんですか?」
「いや、あの部活は美術部という名のお茶クラブだったんで。ここ茶道部じゃねって部員は言ってましたね」
「はは」
「ちゃんとした茶道部もあったんで、実際には名乗れなかったんですけど。ほんと、お茶しながらしゃべってるだけだったよね」
「でも、千里佳はわりとイラストうまいですよ。美大出てますし」
「そうなんですか。何か、繊細な絵描きそう」
「すげーアニメ絵ですよ」
「何その言い方、アニメいいじゃない」
「こいつね、ほんと部屋とかヲタですよ。ヒキますよ」
「ちょっ、ヒカないって約束で部屋入れてあげてるのにっ」
知和さんをはたく千里佳に、寿弥は笑っている。私は自分の笑みが引き攣っていない自信がない。
これいつ解散なんだろ、と早くも憂鬱になりながら、適当に相槌は入れておく。千里佳はこういうとき中心になるもので、知和さんにも寿弥にも何だかんだで構ってもらっている。
いじられたり褒められたりで幸せそうに咲っていて、私いなくてよかったじゃん、と私はやっとたこ焼きをひとつ口に入れた。
食事が終わっても三人はテーブルで楽しそうに話していたけど、「波打ち際行きたいなー」と千里佳が言い出し、私と寿弥は荷物番で海の家に残って、千里佳と知和さんは子供が走りまわる海岸へと出ていった。
まだまだ太陽は白く、空は青い。子供たちの笑う声もはしゃぐ声も空中に放たれていく。
ほんと暑いな、と少し頭痛を覚えながら千里佳と知和さんの後ろすがたを頬杖で眺めていると、「おい」と不意に寿弥に後頭部を小突かれた。私は眉を寄せ、寿弥を振り返る。
「何」
「お前、けっこう顔に出てるぞ」
「………、あっそ」
「何だよそれ。お前な、俺はともかく千里佳さんに気い遣わせるのはやめろよ」
「……何で」
「何でって。お前はさ、何つーか、人に『可哀想』って言ってもらいたいだけじゃん。その長袖だって、どうせ手首だろ」
寿弥をちらりとして、やっぱこいつは知ってたかと思った。
「悲劇ぶってるけど、お前はもう恵まれてるだろ。家も出たし、引きずってんじゃねえよ」
「あの家の話はしないで」
「自分で顔に出してんだよ、おじさんのこともおばさんのことも。千里佳さんはぜんぜんそんなことしてないのに」
「……は?」
「千里佳さんだって、きっとすげーつらいのにさ。いつ発作で死ぬか分からないとか、そうとうだと思うぜ。なのに、あんなに頑張ってて。咲ってて。お前は勝手に手首切って、自分に浸ってるだけだ」
何……? 何で、そんなことまで言われるの?
そう思って寿弥を睨みつけていたけど、自分の目つきが醜くなるのを感じて、そっぽを向いて唇を噛む。
どうして? 千里佳を引き合いに、何であの家庭がつらかったことまで否定されるの? 家を出たら終わりなんてない。
まだ実家暮らしなら自傷も許すわけ? 私だって、あの記憶の残像がひどくつらいのに。見向きもされない大したことないみたいに。病気を抱える千里佳に較べたらマシなんてないでしょ。それとも、そんなに千里佳のほうが重くて、私の痛みはくだらない?
私のことに、うんざりした顔をする。寿弥だけじゃない。きっとみんなそうだ。そして、千里佳には進んで応援の声をかける。
「千里佳さんはほんとにすごいよ。顔合わせたら、絶対つらいとか言わなくてさ。そういうのはネットに留めて。なのにお前は──」
私は鋭く舌打ちして立ち上がった。
「おい、」
「私がいると気を遣わせるなら、帰るよ。ふたりにもそう言っておいて」
「あのなあっ」
「うっせえな。あんたに私のことが分かってたまるか」
そう吐き捨てて荷物をつかむと、つかつかと道路のほうへと歩き出した。寿弥は私の名前を呼ぶけど追いかけてこない。追いかけてきてほしいとも思わない。混雑を縫って堤防に出て、階段をのぼってスマホを取り出す。
つらい、なんて。私は口にしたことはない。ネットで文字にしたこともない。千里佳はネットでつらいと苦しいとわめいている。結局、実際にそう吐いた者勝ちだ。
それでも私は言わない。それで大したことがないとか判断されても。だって、恥ずかしいでしょう? 「つらい」なんて、口走るほど心からかけ離れていくだけだ。
顔に出ている? 顔にくらい出るよ。いらいらする。手首をずたずたにしたい。みんな千里佳にしか目がいかない。
じゃあ私は、見てもらえないまま見えなくなればいいのかな。消えちゃえばいいのかな。たぶんそうなんだろうな。私なんか死ねばいいんだ。
死ねば分かるだろ。死なないと分かんないだろ。私の呼吸だって、こんなにも、胸をえぐられるように苦しいこと。
スマホで呼び出したマップを頼りに、まもなく近くの駅にたどり着いた。ICカードなんて使えない古い駅だった。切符を買って改札を抜け、ホームに立つと深呼吸する。
みんな大嫌いだ。私をないがしろにしてばかりのこの世界が、心から大嫌い。
電車が入ってくるホームの端まで歩いていく。まだまだ夏の白日が突き抜けている。ちょうど、海に行く人も海から帰る人もいないようで、こちらのホームにも向こうのホームにも人はいなかった。風が揺れて、ショートの髪とカーディガンの裾がなびく。
怖くなかった。これで終わりだ。忌ま忌ましく息づく毎日から解放される。
そう、私はずっとこうしたかったんだ。そう納得すると、やっと最高の笑みが浮かぶのが分かった。つっかえてきしんでいた呼吸も、なめらかに通っていく。
錆びた音を立てて、電車が近づいてくるのが見えた。
FIN