騎士の夜

 俺と麗奈れなは、すぐに何かと喧嘩する。そのたび周りは、また始まったとか、喧嘩するほどとか言うけれど、いつも俺と彼女はマジで喧嘩している。
 ……まあ、切っかけはいつもくだらないかもしれないが。
 何だかんだ言って、俺たちはつきあって五年近くが過ぎている。二十九歳と二十七歳、たぶんこいつと結婚するかなあとお互いに思いはじめた。
 だけど、一応様子見の期間を作ろうということで、同棲することにした。期間は来年の七月に俺が三十になるまで。つまり、だいたい十ヶ月程度だ。
 辛辣なことを言うと、いつ解消するか分からない。なので、部屋を新たに借りるより、実家暮らしだった麗奈が俺の部屋に来た。「いつも来てたから新鮮じゃないねー」とか言いつつ、麗奈はころころと咲っていた。
 俺と麗奈は、オフィスの職場恋愛だ。だから、同棲を始めて以来、ふたりとも定時に上がれたら一緒に帰るようになった。すし詰めの帰宅ラッシュで地元に帰ると、見切り品の食材をスーパーで買いこんで、暗くなるのが早くなった中でマンションの一室に帰る。
 九月終了まであと数日、日中は残暑が汗を絞り取ってくるが、この時間帯になると風がちょっと涼しい。
「料理は麗奈が担当だよな」
「は? 昌親まさちかもやれよ」
「俺、料理とかしたことな──」
「あたしもだわっ。男は家事やらないとか、何時代の話なの?」
 このような会話で、初日から例によって喧嘩になった。結果、俺も料理をするようになった。それまで出来合いばかりで、キッチンなんてろくに使わない領域だったけど、徐々にシンクにも焜炉にも生活感が現れはじめている。
 鶏肉とたまごと玉ねぎを用意した今日は、俺が親子丼を作ることになった。牛丼がよかったなあと思うけど、牛肉があんまり安くなかった。つけあわせはトマトのマリネと、冷蔵庫で保存していた塩レモンの浅漬け。
 慣れない料理に浮かぶ額の汗をぬぐいながら、「できたぞ」とキッチンから俺が振り返ると、「おつー」と麗奈はテレビから目を離さずに応じる。
 麗奈の前に出ているミニテーブルに料理を運ぶと、「わーい」と麗奈は銀のスプーンを手に取った。
「昌親のほうが料理の上達早いのムカつくー」
「麗奈は手間かかるの作るからだろ」
 俺は麗奈の向かいに腰をおろす。ほかほかの親子丼の香りが、我ながらうまそうだ。
「何だよ、毎回たまごかけごはんでいいのかよ」
 ふくれっ面になって極論を吐く麗奈に、「嫌だわ」と俺は即答する。
「でも、カレーとかさ」
「昌親って甘口でしょ?」
「甘口だな」
「あたし、せめて辛口っていうか……できれば激辛でも」
「味覚がおかしい」
「三十前になって甘口カレー食べてるほうがおかしい」
「この問題は、麻婆豆腐とかにも関わってくるな」
「からいからご飯が引き立つんじゃん」
「そういうの食べたいときは、外食しようぜ」
「そだねー。ん、あたしが作った浅漬け、レモンさわやか! 野菜がまずくない」
「野菜ってどんどん食べないとすぐ腐るよなー」
「そう?」
「そうだろ。カビが生えてくんのも早すぎ」
「はは、やっぱ昌親のが所帯じみてる」
 そんなことを話しながら、ふたりとも仕事を終えて腹は減っているので、ぱくぱくと夕食を食べる。
 クーラーで汗はだいぶ引いたけど、入浴は毎日するようにしていた。俺と麗奈は、一緒に湯船に浸かるのが好きだ。今日も一緒に風呂に入り、エロいこともだいたいこのときにやる。
 おかげで夜が更けて一緒にベッドに入るときは、ふたりとも賢者状態で、ただお互いが同じふとんの中にいることに何となく安堵して、眠りにつく。
 俺も麗奈も寝坊ぐせがあるから、平日の朝はばたばたする。トーストにマーガリンかいちごジャムを塗って、俺はコーヒー、麗奈は豆乳をコップ一杯飲む。弁当など作っているヒマはない。着替えて身支度をすると、「時間やばい」「分かってるって!」とおなじみの言い合いをしつつ、朝陽があふれる外に飛び出す。
 そんな毎日を過ごして、あっという間に同棲生活は三ヵ月が過ぎ、年末になった。仕事終わりのスーパーでの買い出しで、「意外と同棲続きますね」とか俺が言うと、「そうですね」と麗奈はデザートコーナーで立ち止まる。
「何か食べんの?」
 そう言った俺を、麗奈は何やらじろりとしてきたので、太るぞ、と言おうとした言葉は飲みこんだ。代わりに「食パン取ってくるわ」と残し、パンコーナーに行く。毎朝がトーストだから、とにかく消費が早い。あとは、朝のコーヒーがホットになったから、粉スティックも買わないと。
 そんなふうに別行動でうろついても自然と合流できる──なんてエスパーではないので、こういうときはレジ前で待ち合わせることにしている。落ち合った麗奈は、謎の豪気でプリンやアイスをかごに放りこんだ。
「こんなに買うのかよ」
「千円渡す」
 いや、千円ぶんも買うのかよ。そう思いつつ、「はいはい」とセルフレジに向かい、俺のカードで支払いをする。
 カードをしまうときに、麗奈は千円札を渡してきた。遠慮なく受け取っておき、買ったもので重くなったエコバックを提げ、寒空の夜道を部屋まで急ぐ。
 今夜の夕飯を作るのは麗奈、マカロニグラタンだそうだ。冬だなあとか思いつつ、ビールでも飲みながら待つかと冷蔵庫を開ける。ビールの缶を取り出し、プリンがふたつあるのに気づいた。
 ほう。俺のぶんも買ったとは殊勝ではないか。そう思って何の疑問もなくひとつかっさらい、テレビと向かい合って蕩けるようなカスタードプリンを味わっていると、「え、プリン……」とふと麗奈が俺に目を留めてつぶやいた。
「あー、俺のぶんもらってるわ」
「いや……誰が食べていいって言ったの?」
「二個あったじゃん」
「二個……とも、明日のぶんだよ!」
「……太るぞ?」
 あ、言っちまった。そう思ったの同時に、当然癇に障ったらしい麗奈は、見る見るうちに鬼の形相になる。
「最低!」
「いや、まあ……プリンひとつぶんダイエットになったと──」
「問題そんなんじゃないし! 何で? 何で黙って食べるの?」
「あー、じゃあ金返すから、」
「うるさいっ。今食べたいなら、そのぶんを自分で買っとけばいいじゃんっ」
「いいだろうがっ。また買ってやるよ」
「そのプリンはあたしのお金で買ったところで、昌親のものじゃないのは察してよ」
「プリンくらいいいじゃねえか」
「よくないもん! 女子にとってのスイーツの大きさを分かってない!」
 俺はジト目になって麗奈を見る。麗奈もむすっとした顔で俺を睨む。
 あー、もう。また始まりますか。
「ふたつ買ったプリンのひとつくらい、彼氏の労いにしていいだろうが」
「労いはグラタンの役目で、そのプリンは──……そう、あたしの癒やしだったの!」
「俺も癒やされていいじゃねえか」
「自分で買えよ」
「彼女が『お疲れ様』とか言ってくれるプリンのがうまいわ」
「あたし、そんな気の利いた女じゃないですー」
「今日からそうなれよ」
「やだっ。プリンを返しなさい。今すぐコンビニでもっといいものを買ってきなさい。何ならふたつ」
「何でだよ。嫌だね」
「昌親が悪いんだよ?」
「麗奈の心が狭い」
 麗奈はぎりぎりと歯軋りをしていたが、急に「もう知らないっ」と言い出した。
「グラタンはひとりで作って食べて。あたし、今日こそ切れた。出ていく」
「いや、たかがプリンだぞ」
「プリンの価値観が合わないなら、昌親とは無理なんだよ!」
「あのなあ……」
「じゃあね、荷物はあとで取りに来る」
 そう言った麗奈は、脱いだエプロンをばしっと床に投げつけ、バッグをつかむと玄関へとつかつか向かう。
 プリンの価値観って。ちょっとわけが分からない……。
 と思っていると、ばたんっ! と本気で麗奈が出ていった物音がした。何で、久々のめんどくさい喧嘩の原因がプリンだよ。相変わらず、くだらないと言えばくだらないけど。
 まあ、一時間くらいで帰ってくるか。仕方ないので投げ出された仕込みを引き継いで、マカロニグラタンを作った。ひとりでそれを食べてしまっても、麗奈は帰ってこない。
 自分で買え。察しろ。昌親が悪い。
 言われたことを思い返していると、むしろせいせいするわ、と俺は麗奈が買っていたバニラアイスも食ってやった。
 しかし、二十一時をまわっても麗奈は帰ってこなかった。大丈夫かよとさすがに心配になりはじめる。実家に帰っているならいいけど──出戻りの原因がプリンって、親御さんも困るだろう。
 バッグは持っていっていたから、スマホは持っているのか。しかし、こちらから連絡するのは負けみたいだし。もやもや考えていると落ち着かなくて、俺は立ち上がって食器を洗うと、ひとりでシャワーを浴びた。
 二十二時になっても、麗奈は戻ってこない。
 乾燥器にかけていた食器が仕上がり、ひとつずつふきんで拭いて食器棚にしまう。麗奈のぶんのまだ焼いていないグラタンは、冷蔵庫にしまっておく。
 あいつ、プリンでそこまでご立腹なのか。何なんだ。うまくいっている気がしていたけれど、やはりこんな喧嘩をしてしまうなら、結婚はダメなのだろうか。
 二十三時、俺はため息をついて寝ることにした。もう勝手にしろ、知らん。プリンひとつで何だって言うんだよ。俺のほうは、寝て忘れさせてもらう。
 ベッドにもぐりこんで、リモコンで明かりを消した。目を閉じたが、結局、何度も寝返りを打って寝つけない。腕の中におさまるものがないし、同じシャンプーの香りの髪がくすぐったくないし、伝わってくる柔らかい体温もない。
 ひとりでベッドを使えて、のびのびできるではないか。そう思って大の字になってみたりするけど、やはり暗い天井を睨み、何か違うなとそわそわする。
 何なんだよ。麗奈と暮らしはじめるまでは、このベッドにひとりで寝るのは当たり前だったのに。どうして、寂しいとか感じるんだ。同じふとんの中に、彼女がいないだけで胸がざわつく。
 くそ。どうして帰ってこないんだよ。一緒に暮らそう、うまくいけば結婚しようって、そう決めたのに。
 まさか、とは思うけど。やっぱり、麗奈だって女だし。夜道を歩いていて、何かあったとか──そんなことを思って、むくっと起き上がったときだった。
 突然、まくらもとの俺のスマホの着信音が鳴った。通話着信。ぱっと手に取って見ると、友達の名前が表示されていて、何だよ……と息をついたが、まさか何か麗奈に関する緊急の連絡かも、と急いで応答をタップする。
『あー、昌親か?』
「お、おう。何かあったのか?」
『何かあったのかって……分かってんだろ。今、瑛子えいことかおさむと俺の部屋で飲んでるんだけど、麗奈が乱入してきた挙句、酔いつぶれてんぞ』
「………、」
『お前のこと呼んで泣いてるから、何でもいいから迎えにこい』
「……プリンの件はいいのか」
『は? ああ、プリンが何とか言ってたな……いや、あれはお前が悪い』
「何で?」
『明日、お前らつきあって五年か何かなんだろ。だから、一緒に食べるつもりだったらしいぞ』
 俺は眉を寄せて考え、「あー」と声をもらした。
 そうか。そうだ。クリスマスを一緒に過ごしたいから、この時期にこちらから告ったのが、俺たちの始まりだった。
『とにかくマジで頼むわ』と友達は通話を切り、俺は頭をかきむしってから「しょーがねえなあ」とベッドを降りる。
 本当に、俺たちはすぐに何かと喧嘩する。でも、しょせんお姫様は麗奈で、従う騎士は俺なのだ。
 お姫様がかたわらにいない夜は落ち着かず、その身を案じてしまう。俺は白馬に乗った王子様ほどかっこよくないけど、麗奈もやっぱりこんな俺がいないと寂しいらしい。
 ちぇっ、そういうところ、結局かわいいんだよなあ──
 コートを羽織り、ポケットにスマホと財布と鍵を突っ込むと、俺は部屋を出た。
 零時までには迎えにいかないと。俺のお姫様は、きっと今夜は夜更かしして、記念日になった瞬間をプリンで祝いたかったのだろうから。
「よし」とつぶやくと、俺はマンションを出て、月明かりの下を駆け出した。

 FIN

error: