二学期が始まるタイミングに、自殺する学生は多い。
夏休みが終わりかけた日、リビングで青いソーダアイスをかじっていると、テレビにそんなニュースが流れた。俺はクラスメイトの黒木を思い出し、何とも言えない靄を覚えた。しかし、まさかな、とそんな最悪の事態は振りはらって、テレビを消すと冷たいかけらを飲みこんだ。
それでも、そのニュースが、どこか心に引っかかっていたのだろうか。
二学期初日は、少し不安を抱えながら登校した。そうしたら、本当になかなか黒木が登校してこない。いつもの連中も「あいつ遅っせえな」とか言い出していた。
「よーし、席つけー」
チャイムが鳴ると、そう言いながら担任の坂原が教室に踏みこんでくる。
黒木はやっぱり来ない。遅刻か? それとも、まさか……
「せんせー、黒木さんが来てなーい」
連中のひとりである女子が声を上げると、坂原はそちらを一瞥した。そして、小さく息をつくと、「黒木は、夏休み中に転校することになったそうだから」と言った。
「みんなにはよろしくだそうだ」
転校。俺が思わず息をのんでいると、「マジでー?」「挨拶なしかよ」と教室はさざめく。「もういいだろう!」と坂原はやや語気を強めた。
「転校したんだから、これ以上はほっといてやれ」
クラスメイトたちは顔を合わせたあと、やっと静かになる。
……坂原も、俺と同じか。黒木を助けられなかった。守れなかった。そんな自分が悔しいから、そういう言い草になってしまうのだろう。
坂原が出席を取りはじめると、俺はうつむいて、つくえについた小さな傷を睨んだ。「神田」と呼ばれて「はい」と出欠の返事はしたあと、ほんとに何もできなかった、と唇を噛む。
黒木永美子は、中学一年生のときにも同じクラスだった女子だ。一年後期、俺も彼女も図書委員になった。毎週木曜日の放課後は、一緒に図書室の受付をした。何もすることがないとき、黒木はいつも小説を読んでいて、「神田くんも、ヒマなら何か読みなよ」と俺に本を勧めた。
漫画しか読んだことがなく、小説なんて最初は気乗りしなかった。でも、黒木のお勧めの本は確かにおもしろくて、次第に俺は「次は何読もう?」と彼女の推薦を受ける本をどんどん訊いて、小説を読むようなった。
図書室は私語禁止で、あんまりしゃべれない。だから、暗くなって彼女を家まで送るついでに一緒に帰り、俺は感想をああだこうだと述べて、黒木はそれを楽しそうに聞いていた。
二年生でも黒木と同じクラスで、正直嬉しかった。新入生のときには気づきもしなかったけど、四月の出席番号順の席も近くて、黒木も俺が近くの席にいることに咲ってくれた。
だが、五月に連休が明けて席替えが行なわれ、席は離れてしまった。何だか、女子にわざわざ近づいて話しかけるのは恥ずかしいな。そんなむずがゆさのまま、俺は男友達と過ごすのを優先していた。
もし、そんなことは気にせず、俺が黒木に話しかけていれば、その後、彼女がイジメられることもなかったのかもしれない。
始業式が終わったあと、席に着こうとして、少し動いたつくえの中で音がした。まだ引き出しは空っぽだけどな、と開いてみると、そこには一冊の文庫本が入っていた。何だ、と手に取ってみて、目に入った作者の名前に心臓が跳ねる。黒木がよく読み、俺にも勧めてくれた小説家の名前だったからだ。
──黒木だ。え、いつの間に? 夏休み中か?
ざわざわと胸が騒ぐのを感じながらも、俺はさっと文庫本をスクールバッグに押しこんだ。手紙とかはさまっているなら、家でゆっくり見たほうがいいと思ったのだ。
「転校までするとか、反応受けるわ」
教室のざわめきの中に、そんな笑い声が当たり前に混じっている。そんな声を、俺はやはりたしなめることができない。そんな俺を、責めるような言葉を見つけるのだろうか。それでも、どこかで、黒木が俺に何か残してくれたことにほっとしていた。
午前中に教室を解放されると、友達の声は「悪い、用事あるわ」とかわして、俺は急いで家に帰った。
蝉の声はない。それでも残暑が厳しい中、焼けつく匂いのアスファルトを走ると、息がはずんで汗が流れる。よく晴れた空は、雲もなく、めまいがしそうに青かった。
ぬるい風を突っ切って、団地の中の一棟に到着すると、三階の自宅に駆けあがる。踊り場で折り返すときは、スクールバッグが遠心力で跳ねる。
「ただいまっ」
とうさんもかあさんも仕事、にいちゃんも高校で、誰もいない。だけど、家の中にはそう声をかける。
部屋に飛びこむと、蒸し暑さのこもった室内に「うわっ」とつい声を出し、まず冷房をかける。スクールバッグをつくえに投げ、音を立ててファスナーを開くと、例の文庫本を取り出した。
表紙は、誰もいない教室のシルエットの絵だった。窓が切り取る青空の青が、目に沁みる。作者の名前は、月城真織。タイトルは、『こぼれるときに』。そんなにぶあつくはない。
ぱらぱらとめくってみたけど、はさまっているものはなかった。俺は首をかしげたものの、椅子に腰かけ、その本を読みはじめる。
読み進めて間もなく、また鼓動に雑音が混じるような息苦しさが起きてきた。中学生のイジメの話だったからだ。
無視されたり、陰口を言われたり、持ち物を隠されたり──暴力とか、見せ物にするとか、けして派手なイジメではなくても、明らかに「悪意」を向けられて主人公は苦悩する。その心理描写が、黒木の心とシンクロしたのは俺でも分かった。
淡々とイジメ描写は続く。学校に行きたくないと訴えても、家族は分かってくれない。先生は相談には乗っても、きっぱりとイジメを止めてくれない。大半のクラスメイトたちは見て見ぬふり。主人公は、ひたすら教室になじめずに落ちこぼれていく。
三年生への進級をひかえた春、主人公は通学路で梅の花が枯れているのを見かける。自分の生命力も、同じように尽きてしまったように感じる。
だから、その日は学校に行くのはやめて、ビルの非常階段をのぼって高いところに行く。
『心がこぼれていく。ここから飛べることもできずに、落ちてしまえばいいの?』
その一文に重なる、濡れた痕の染みがある。
主人公が、ゆらりと足を踏み出すラストシーンまで読んだとき、「ただいまー」というかあさんの声が聞こえた。
俺ははっとして、窓から射しこむ光がうっすら茜色になっていることに気づいた。ひぐらしが鳴いて、帰宅したときのままの冷房の温度で、いつのまにか軆が冷えている。
俺はペン立てから、ボールペンをつかみだした。
「ちょっと、コンビニでコーラ買ってくる」
夕食の支度を始めるかあさんに言い置いて、俺は家を出た。そういえば、制服を着替えてもいないが、まあいいか。
夕焼けが空にじんわりと広がっていた。オレンジとピンクが滲み、その中に濃い赤色も染み出している。パレットで夕暮れを作っているみたいな空の色だった。
アスファルトの照り返しで、まだ空気は半袖の腕に絡む。まだ幼い小学生が無邪気に咲いながら、「また明日ねー!」と友達と別れている。どこかの夕飯の匂いで、昼飯食ってねえや、と気づきながらも、俺は戸建ての住宅街に急いだ。
坂原は、黒木は転校したと言っていた。しかし、家が引っ越したとは言っていなかった。だから、もしかしたら──
そう思って、行き着いた黒木の家の表札は、変わっていなかった。俺は安堵しながら深呼吸して、どくどくと不安を吐く心臓のあたりをさすり、チャイムを鳴らした。
『はい、どちら様でしょうか』
そんな女の人の応答が来ると、俺は一瞬口ごもり、自分の名前を名乗って、黒木はいるかどうかを尋ねた。
『すみませんが、あの子は今日は疲れて、休んでるので──』
「ほ、本を……読んだからって」
『本?』
「その話をしたいって、それだけでも伝えてくれませんか」
しばし沈黙だったものの、応対した声は俺の名前を改めて確認して、『永美子に訊いてみるので、少しお待ちください』と言ってくれた。俺はまた深呼吸して、そわそわと反応を待った。
不意に「神田くん」と声がしたとき、俺ははっと玄関のほうに顔を向けた。
「黒木?」
「………、月城先生の本、読んでくれたんだ」
そう言いながらドアを開いて、すがたを見せた黒木は、私服が見慣れなかった。門扉の前まで歩み寄ってきてくれたが、瞳の色合いは重く暗く、俺との帰り道で咲ってくれていた影はない。
「読んだよ、これ。……お前の話かよって思った」
「………」
「読んで、黒木がどれだけの気持ちだったか、分かった気がした」
「……そっか」
「だから、その──あ、とりあえず返すな」
「あげるよ」
「返すって」
「いらない」
「じゃあ、もらってくれ。もう一度、最後まで読んでほしい」
俺が本をさしだすと、黒木はゆっくり手を持ち上げ、本を受け取った。そして、いきなり本をめくりだしたので、「いや、今じゃなくても」と俺は慌てて言いかけたけど、そのときには、黒木は本編の最後のページを開いていた。
俺は、ボールペンの下手くそな字でこう書き足していた。
『「俺はそばにいるから」と呼び止める声がした。』
黒木はその一文を見つめ、急に表情をゆがめて息を震わせた。涙があふれて、なのに、何だか仕方ないみたいに咲う。
「何これ……いきなりじゃん。こんな登場人物、伏線にもいなかったし」
「ん、まあ……」
「文章もつながってないし」
「そうだけどっ」
「最後の一行は、書き換えちゃダメだよ……」
俺は門扉に身を乗り出し、「そんなことないよ」と力強く言った。
「書き換えていいじゃないか。この話は、自分のことだって思ったんだろ? でも、結末までは同じじゃない。今から、黒木には俺がいるから」
黒木は俺を見つめた。涙はほろほろ止まっていなくて、暗くなってきた夕暮れの中で凛と光る。
「私……は」
「うん」
「学校には、もう行かない」
「……うん」
「今日、フリースクールで友達もできたし」
「そっか」
「それでも?」
「え」
「それでも──仲良くしてくれるの?」
「あ、当たり前だろっ。というか、俺、……ごめん。もっと、何かできたのに。もっと、黒木が好きな本を、一緒に読みたかったのに」
黒木はうつむき、本を抱きしめて鼻をすすった。「ありがとう」とかぼそい声がして、俺はぶんぶんと首を振ると、「そばにいるから」と繰り返した。
黒木は俺に向かって、泣き咲いで、「神田くんにそう言ってほしかった」とほのかに頬を染める。その言葉に、俺も思わず照れ咲いをしてしまう。
俺も、黒木に言いたかった。守ることも、助けることもできなかった。けれど、これからは君のそばにいる。ちゃんと、君の友達のひとりとして、その心を支える。
梅がこぼれるように、命を終わらせる──ラストシーン、あの小説で主人公の選択を引き止める者はいなかった。しかし、黒木の手は、俺がつかむ。
ラストシーンなんて、越えていこうぜ。俺は君を未来にも連れていきたい。君と一緒に、生きていきたいんだ。
FIN