嘘つきな熱

 君のそばにいたいと思っていた。本当に、そう思っていたよ。
 それだけじゃダメだったのかな。どうすればよかったのかな。
 それとも、うまくいくはずはなかった? だって、僕と君はどうせ違うんだもんね。
 十一月になって、急に吹きつける風が強く冷たくなった。先月の半ばぐらいまで、執拗に残暑が停滞していたのに。
 めまぐるしい気候の変化に、軆の調子が狂ってしまったようだ。何か喉が痛いな、と朝から思っていたら、昼頃にはどうやら熱も出て、ひどく軆が重たくなってきた。
「保健室行ったほうがよくないか」
 一緒にお弁当を食べていた親友の律羽りつはに言われ、食欲もない僕は、律羽に付き添われて、よろよろと保健室に向かった。
 保健室登校の生徒たちの相手をしていた保健の女の先生は、ひと目見て、「ベッドで休みなさい」と僕を奥の白いベッドに連れていった。熱を測ると、三十八度が近かった。
「大丈夫かよ」と心配した律羽に何とか笑みを作ると、「少し休んだらマシだと思うから」と僕は消毒液のにおいがかすかに染みこむベッドに横たわる。
 窓際のベッドで、緩い陽光が射しこんでいる。「うつるといけないから戻りなさい」と保健の先生は律羽を教室に帰して、僕の額に冷却シートを貼った。ひんやりした感触が、ほてりをなだめていく。だるくて、眠くて、それを言うと「眠ったら多少楽だろうから、そうしてから帰りなさい」と先生はカーテンを引いた。
 風邪なんてついてないなあ、と熱でぼんやりする頭で思いながら、まぶたを伏せる。文化祭も終わって、期末考査までゆっくりできるときなのに。
 大変なときに体調を崩すよりマシなのは分かっているけれど、やっぱり、のんびりできるときに風邪なんてひくのも、もったいなく感じる──そんなことを取り留めなくなく思っているうちに、気だるい眠気に襲われて僕は意識を失った。
 気がついたのは、額を優しくさすられる感触がしたからだった。何、と思った次の瞬間、顔に当たっていた陽光がさえぎられて、唇に何か柔らかく触れた。
 え、と僕は目を開く。誰かが僕の上に身をかがめている。誰、と僕がまばたきして気づいたのに気づくと、その人ははっと身を引いた。
 僕と同じ、黒い学ランを着たその相手は、律羽だった。
「律羽──」
「……ごめ、」
 律羽はぱっと身を返して、カーテンの向こうに逃げ出そうとしたけれど、「待って、」と僕はかろうじてその手首をつかんだ。まだ熱で頭がくらくらしていても、眠ったおかげか、さっきより軆が軽い。
「どうして」
 律羽はうつむき、黙っていたけれど、不意に僕を見て「好きだから」と小さな声で言った。
 カーテンの向こう側には人がいて、こちらのことは気にせずしゃべっているのが聞こえる。
「好き、って……」
「高校に入学したときから、お前が好きだった。だから二年で同じクラスになって、……近づいた」
「僕、男……だよ?」
「……だから、そういうことだよ」
 そういうこと。律羽は同性を好きになる人なのか。
 知らなかった。そして、律羽の知らなかった面を知ることができて、僕は単純に嬉しいと思った。
「僕、……嫌じゃなかった」
「え」
「今の……嫌じゃなかったよ」
「………、じゃあ、つきあってくれるのかよ」
「僕でいいの?」
 こちらの反応が思いがけなかったのか、律羽のほうが狼狽えている。僕は律羽の手首をつかむまま、じっと彼の瞳を見つめる。
 その視線を受けていた律羽は、ため息をつくとベッドサイドに腰かけた。そして僕のほうを向くと、「あとから気持ち悪いとか言うなよ」と僕の髪に触れた。僕は微笑んでうなずくと、つかんでいた手首を放して手をつないだ。
 それから、僕と律羽は周囲には伏せてつきあうことになった。律羽は優しくて、同性とつきあうなんて考えてもみなかった僕でも、自然と幸せを感じることができた。
 休日にも会って、一緒に遊んだり勉強したりする。そのとき、そっとキスしたり抱きしめあったりすると、もうとっくに風邪は治っていてもどきどきと軆がほてった。
 冬休みに入っても、クリスマスやお正月を一緒に過ごした。ふたりだけで楽しむ恋だったけれど、それでもじゅうぶん温かかった。このまま律羽と一緒にいられたらいいなあ、なんて思っていると、三学期が始まった。
「あのね、ずっと……好きだったの」
 一月が終わりそうな昼休み、隣のクラスの女子に、クラスメイトから伝言されて呼び出された。特別教室の並びで人気のない廊下、無視するのも可哀想な気がして、とりあえずおもむいた。すると、少し予感はしていたけれど、そんな告白を受けた。
「中学も同じだったの憶えてるかな。君がここに進むって聞いたから、私も──」
「……いや、あの」
「う、うん」
「その、僕──好きな人が今いるから」
「えっ」
「悪い、けど……」
「そ、そう……なんだ」
「ごめんね」
「ううんっ。私こそ、何か……空気読めてなくてごめんなさい」
 僕は泣きそうな彼女を見ていたけど、仕方ないよね、ときびすを返した。階段へと廊下を曲がろうとして、そこに律羽がいたのでびっくりした。
「どうしたの」と訊くと、「よかったのか?」と言われてきょとんとする。
「どういう意味?」
「告られたんだろ」
「うん、まあ」
「振っていいのかよ」
「だって、僕は律羽と」
「でも、お前はもともとストレートだし」
「僕は……」
 律羽が好きだよ。そう言いたいのに、確かにストレートである自覚で、声がつっかえる。
 ストレートなのに、同性の律羽が好きだなんて、言っていいのだろうか。律羽のことは、好きだけど。僕にそう言える資格はあるのか──
 言葉に詰まっているうちに、律羽は階段を降りていってしまった。いいんだよ。ストレートだけど、律羽のことは特別にいいんだ。そう言えばよかったことにいまさら気づいたけれど、そう言って律羽が信じてくれるかは分からなかった。
 それから、僕と律羽はぎくしゃくしてきた。目が合ってもそらしたり、ばらばらに下校したり、やっと口をきいたかと思えば何だか口論になってしまったり。
 何でうまくいかないんだろう、と僕はひとり夜の自分の部屋で泣いてしまった。あんなにはっきりと幸せだったのに、こんなにたやすく気まずくなってしまうなんて。
 あまり気にしたこともなかったバレンタイン、チョコ渡したら戻れるかなあ、なんて用意してみたけど、その日律羽は学校に来ていなかった。どうしたのかな、と思って勇気を出してメッセを送信してみたものの、既読がついただけで返信はなかった。
 こんなの親友だったときより遠い、と哀しくなっていた翌日、律羽が昨夜未成年なのに二十時以降もクラブにいたところを補導されたとみんなの話題になっていた。それがゲイクラブだったことも、一緒にうわさで流れていた。
 律羽は一気に学校に来なくなって、そのまま三年生になった。
 青空からの光も春めいて、通学路の花壇の彩りや香りも鮮やかになる。律羽の担任の先生は、律羽と仲の良かった僕を訪ねてきて、登校するよう説得してくれないかと頼んできた。
 僕たちはもう、スマホの連絡すら取ってないのに。そう思ったけれど、「分かりました」と僕はそれを引き受けた。先生に頼まれた。そんな大義名分で、律羽に会いにいけるからだ。
 日曜日、僕は電車に乗って律羽の最寄り駅で降りた。家にいるかなあ、と歩き出そうとしたとき、くすくすと笑う中学生くらいの男の子たちとすれちがった。「ホモだぜ」「ゲロー」という言葉が混じっていて、一瞬考えたあと、はっとして彼らが出てきた二番出口の階段をのぼってみた。
 すると、踊り場のところで、軆を重ねてキスを交わす少年ふたりがいた。
「律羽」
 僕がそう名前を呼ぶと、少年のひとりがこちらに顔を向けてわずかに驚きを見せた。
 やっぱり律羽だ。僕はその場まで階段を駆け上がり、「何やってるの」と律羽の手首をつかもうとする。
 けれど、ぱしっとそれを拒絶されて、僕は身をすくめてしまう。相手の男の子がじろじろと僕を見て窃笑すると、「何?」と律羽を見る。
「ただの友達だよ」
「ふうん……?」
 僕は律羽を愕然と見つめる。
 友達。ただの友達。それは、当然だけど。自然消滅で当たり前だけど。
 それでも、僕は、まだ──
「ほんとに?」
 男の子は、今度は僕に向かってそう訊いてくる。僕はそれを見返し、強気なことを言いたいのに言えなくて、言ってもきっと律羽に拒否されるから言えなくて、なぜかごまかすように咲ってしまった。
「……ただの友達、です」
 好きなのに。僕はまだ、律羽が好きなのに。こんなに胸がえぐれそうに痛むのに。
 ふたりはまたキスを交わして、通りすがりの人に眉を顰められながらも口づけあって、僕はがっくり首を垂らすと階段を引き返した。
 僕じゃダメなんだ。僕はストレートだからダメなんだ。やっぱり律羽は、自分と同じゲイの男のほうがいいのだろう。そのほうが安心なのだ。僕なんか、ストレートだから……
 じゃあ、僕もこの気持ちを押しつけないよ。確かに、いつ壊れてしまうか分からない。でも、それでも、律羽には信じてほしかったけど。僕は律羽のことが好きだって、賭けてほしかったけど。
 律羽。君にとって、僕は何だったのかな。好きだって言ってくれたのは、熱に浮かされていたときの夢だったのかな。優しくしてくれたのは、全部嘘だったのかな。
 ねえ、僕はこんなに君が好きになっちゃったのに。
 もう信じてくれないなんて、そんなのずるいよ。

 FIN

error: