この軆は、まだ、どこかの男が触れることもあるのかもしれない。でも、私の心に触れてくるのは、きっといつまでも君だけだ。
これまで、男に「この人だ」と感じたことはない。どんなに愛してた人と寝ても、結ばれたとは思えない。終わったあとの平常心は、いつも同じ。
ちなみに、酔った勢いでミックスバーに行ったとき、女の子とはキスしただけで無理だった。
君とは、結局、寝なかった。もし、触れ合っていたら、どうなっていたのだろう。私は君に「この人だ」と思えていた?
さっさとセックスしておけばよかったなんて、安易なことは思わない。けれど、そこに至りさえせずに、あっという間に君を失ったことは、後悔してもしきれない。
──夢を見ながら、これが夢だと思いはじめる。薄目に光が射しこんでくる。カーテン越しの夏の朝陽だ。唸ってタオルケットをかぶると、寝起き早々、今日が始まったことに吐き気を覚える。
幼い頃から、自分が誰かの「お嫁さん」になるイメージができなかった。親になるなんてとんでもない、子供なんてただ虐待しそうだ。かといって、仕事をして自立した女になれるとも思えなかった。
そして、もうすぐ三十七歳になる。将来がいっさいイメージできなかったはずだ。今、私は、すべてにおいて不適合者な大人になっている。
結婚はしていない。正社員でもない。そんなひとり娘にあきれて、親ともうまくいっていない。昔から精神科に通っていて、とうとう精神安定剤を手放せなくなった。
タオルケットから頭をもたげることすら困難だ。薬を飲まないと、まともな生活も始まらない。でも、昨夜もまた、ベッドスタンドに朝の薬の用意を忘れている。引き出しに取りにいくまでがあまりにもつらくて、起き上がる気力がない。
ああ、死にたいなあ。何で生きてるのかなあ。私なんか死ねばいいって、そんなことはもうずっと前から分かっているのに。
冷房かけっぱなしの室内で、ぎゅっと軆を縮める。どんどんダメになっていく。私は、何でこんなに落ちてしまったのだろう。
少なくとも、あの頃はこんなはずじゃなかった。
君と過ごした短い冬。ちょうど二十歳の冬だった。あと数年で、二十年も前のことになる。
君の顔は、もうぼんやりとしか浮かばない。声は思い出せない。あろうことか、下の名前も忘れてしまった。
河内くん、という名字だけ覚えている。
君のことを大切にして、傷つけないように、失わないように、素直になっていたら、私は強くなれて、何もかも違っていたの?
君とつきあってたのかな。
君と結婚してたのかな。
君の子供なら欲しいと思えたのかな。
いや、分かっている。君がそばにいても、私はクズのようなこういう人間だったと思う。遅かれ早かれ、見捨てられていた。君は私を拒絶して正解だった。でも、私は、君を……
二十歳、私は近所のチェーンの古本屋に勤めていた。ただのバイトだったけど、安定していた。楽しめる仕事なんてしたことがなかったから、職場に行って同僚に会うだけでもほっとする、その店舗が本当に好きだった。本がぎっしりの重い段ボール、買取価格の低さに切れる客、きついこともあったけど、みんな助けてくれたから、私もみんなの役に立とうと思えた。
たぶん、歯車が狂ったのは、居心地のいいその店舗がなくなることになったときだ。
閉店だったけど、赤字だったわけではない。むしろ、雰囲気のいい店内に、赤字が黒字になっていたくらいだった。ただ、チェーン店だったから、それを見込まれて、移転先で店舗拡大することになったのだ。
その話が出る直前、私は私生活のほうがごちゃごちゃして、メンタルを少し崩した。会議中、何だか頭がふらふらして、駐車場に抜け出して夜風に当たっていると、「山下さん」と声がかかった。小柄なのがかわいらしい女性の店長だった。
「あたしはね、山下さんと一緒に働きたいから、元気になるのをずっと待ってるよ」
店長がそう言ってくれて、私は涙をこらえてうなずき、「店長についていきます」と答えた。「そんなこと言われたら泣くじゃない」と店長まで泣き笑いになったのは、私が調子を崩したことを、本当に心配してくれていたからだと思う。
今思えば、やっぱり移転なんてなければよかった。小さな店舗で、まったり働けていればよかった。そうしたら、そもそも君に出逢っていなかった。そのほうが、君と私、お互いにとって幸せだったことは分かる。
移転が決まったのは夏の終わりで、現店舗は九月半ばで閉店するとのことだった。リニューアルオープンは、クリスマスイヴを予定しているそうだ。閉店前から、箱詰めなどの移転準備は始めていたけど、いざ閉店してしまうと、近隣店舗からヘルプスタッフも訪れるようになった。
その中にいたのが、河内くんだった。
店長の励ましでメンタルを立て直せた私は、初対面のヘルプスタッフとも挨拶を交わせたし、雑談がはずむことも多かった。そして、わりと気軽にメアドを交換してもらえた。スマホなんてない時代だから、メアドが主流だったのだ。
ちなみに、移転作業は業者には頼らなかった。会社がそういう方針らしく、スタッフが自分たちで箱詰め、トラックに載せて運び、荷解きをしたら新店舗の棚にせっせと並べていった。
九月のあいだは、延々と箱詰めを行なった。有線が洋楽チャンネルになっていて、好きなバンドが流れてきたときに、私は妙に騒いでしまった。チャンネルを変えられてしまうと、テンションがちょっと落ちて、「はあ、疲れたー」と思わずストッカーに向かってうなだれる。
「手を動かしてくださーい」
隣の棚で作業していた男の子が、苦笑混じりに声をかけてくる。
「少し休ませてくださーい」
「山下さんが休むなら、俺も休みまーす」
「えー、何それ」
「山下さんが頑張るなら、俺も頑張るってこと」
そう言って、にかっと笑顔で私を励ましてくれたのが、河内くんだった。
その日一日、仕事が終わり、私が涼しいバックでようやくちゃんとひと休みしていると、「山下さん、頑張ってたじゃん」という声が背後からかかった。振り返ると、制服代わりのエプロンをもう脱いでいた河内くんだった。
「いえいえ、河内くんのおかげなので」
私が少しとぼけてそう応じると、河内くんは楽しそうにからから笑った。
自然な流れで、私と河内くんはメアドを交換した。いろんな人とメアドを交換したけど、その後、誰より頻繁に連絡を取り合うことになったのは、河内くんだ。
十月、十一月と、涼しさが寒さが深まっていく中で、移転作業は続いた。ついにこれまでの店舗は空っぽになり、棚も撤去された。でも、その寂しさに浸る間もなく、新店舗に棚が入って、旧店舗から持ってきた在庫だけでなく、全国の店舗から集まった在庫も棚に並べていくことになる。それだけ、新店舗は旧店舗に較べたら広かった。
本やCD、DVD、ゲームを並べるだけのようで、棚は出版社別だし、その中でタイトルや作者名、アーティスト名順に並べることが当然だから、大変だった。そのぶん、ヘルプスタッフもこれまで以上の人数が入ってくれた。
その中に河内くんを見つけると、私は小さく手を振って、河内くんも軽く手を掲げて、合図を返してくれた。
そして、十二月二十四日、新店舗がオープンした。開店前から行列ができたほど、ものすごい来店があった。レジに立ったときには、混乱しすぎて泣きそうなくらいだった。かごいっぱいの商品はありがたくても、なにぶん中古品なのでバーコード処理ができず、レジはひとつずつ手打ちだから大変なのだ。
けれど、本当にたくさんのお買い上げがあって、お高めの商品も店舗にあるうちにとどんどん売れていって、一日の売り上げは百万円を超えた。閉店した深夜、もう暖房は切った店内だったけど、スタッフ全員で「目標達成!」と熱く喜んだものだった。
年末に突入しても、多忙で頭がパンクしそうだった。でも、ヘルプスタッフは引き続き来てくれていたし、その中に河内くんがいることもあった。河内くんの顔を見るとほっとして、それが私の癒やしだった。
大晦日まできっちり出勤して、元日にやっとオフをもらえた。仕事を終えたあと、年が変わる頃に、私はひとりで近所の神社に出かけた。寒風が吹きつけてきて、首が硬くすくみ、吐息は白い。ニットやマフラーで防寒してきたのに、それでも一気に体温が奪われるのが分かった。
神社は、歩いて十分くらいのところにある。住宅街の中の神社だからか、かなり混雑していた。車で訪れる人も多く、警備員のおじさんが、声を上げながら赤く光る警棒で駐車を誘導していた。たまにクラクションが鳴ると、いっそう騒然とする。
お賽銭箱にたどりつくまで、半端じゃない行列ができていた。でも、お参りしにきたのだし、私はそれに並ぶことにした。
周りは出店が明るい。たこ焼き、焼きもろこし、フランクフルトやベビーカステラ。にぎやかにいい匂いがただよっていた。
まだ、時刻は零時前だ。親子連れ、カップル、友達のグループ、もちろん私のように単独行動の人もいる。聞こえてくる言葉が多国籍なのは、異国の人が訪れているのもあれば、海の向こうへかけているのか、英語でケータイに話している人もいるからだろう。
私のケータイにも、ちらほらいろんな人から着信がついていた。ぽちぽち返信しつつも、メインは河内くんとのやりとりで、『良いお年を』で締めて途切れることがなかった。一生懸命返事を打っていたけど、さすがに「寒くて指が凍ってきた」と送ると、すかさず電話着信がついた。
『外にいるの?』
「初詣の列に並んでる」
『元気だなあ』
「河内くんは?」
『こたつでアイス』
「みかんじゃないんだ」
『それはおじいちゃんじゃん』
「あはは」
『周り、人いる?』
「いろんな人がいる。たまに英語も聞こえる」
『マジか。海外の人には、初詣って新鮮なのかな』
「そうなのかも。あと、メールより電話してる人多い」
『指凍るって書いてたもんなー。風邪ひかないようにね』
「うん。二日から、また連勤だし」
『あ、二日は、俺ヘルプ行くよ』
「ほんと? 河内くん来ると、みんな喜ぶよ」
『みんな』
「うん」
『山下さんは?』
「えっ」
『……いや、何でも、』
「あ、えと……よくしゃべってくれるし、私も嬉しい」
河内くんは咲って、「そっか」とちょっと照れたように言った。
列が少し動いて、私もじりじり進む。けれど、お賽銭箱に到着する前に、電話で河内くんとつながるまま、年を越してしまった。「あけましておめでとうございます」と言い合い、何だか笑って、『今年もよろしくね』と河内くんは優しい口調で言ってくれた。
このとき、河内くんは本当に「今年もよろしく」と言ってくれたのだろうな、と思う。そして、来年もそう言ってくれるつもりもあったのかもしれない。
お正月のすぐあとには、成人式があった。そう、私は二十歳だった。ちなみに、河内くんも二十歳だった。私は友達の誘いで何となく参加したものの、学生時代は何かとつらかったから楽しくなかった。明らかにナンパでも、ぜんぜん知らない人としゃべっているほうがマシだったのに、友達に「何考えてんの!」と怒られてしまった。何だかもやもやしながら帰宅したけど、『俺、成人式だったよ』と河内くんが電話をくれて気持ちが回復した。
「私も成人式行ってきた」
『どうだった?』
「つまんなかったかなあ」
『あー、俺も。スーツをホストみたいとか言われるし』
「ホストみたいなの?」
『見る? 写メ送る?』
「うん」
『山下さんのも送ってよ』
「分かった」
いったん電話を切って、写メを送信しあった。いつもラフな河内くんを見ているせいか、スーツすがたは……ちょっと、確かに、新人のホストっぽかった。
『山下さん、和風メイドさんじゃん』
再び電話がかかってきて言われて、「晴れ着用意するお金もなくて、コスプレ」と私は笑う。
『そうなんだ。でもかわいいよ』
「そ、そうかな」
『うん。見れてよかった』
「それなら、河内くんと会ってたほうがよかったなあ」
「えっ」
「あ、いや……成人式おもしろくなかったから、河内くんと出かけてたら楽しかったかなって」
「はは。そうかもね。俺も山下さんと過ごしたほうがよかったかも」
そんな会話が、切っかけになったのだろうか。一月の終わり、私は河内くんとオフを合わせてふたりで会うことになった。曇りがちの冷える日だったけど、私が河内くんの地元に向かった。
駅前で河内くんを待っていると、電話をがかかってきた。
『今、俺はどこにいるでしょう』
「えっ。もう来てるの?」
『来てる。山下さんも見つけてる』
「えっ。嘘。どこ?」
私は本気できょろきょろしてしまったのだけど、背後で笑い声がしてはたと振り返った。そこには、オートバイにまたがった河内くんがいた。
「後ろにいるのに、気づかないって」
「え、もう……やだ、恥ずかしいじゃん」
「おもしろかった」
「おもしろくないよっ」
それでも河内くんは笑っていて、「これ、乗れそう?」とオートバイの後ろをしめした。「乗れるかなあ……」と不安だったものの、とりあえずヘルメットをかぶって、おそるおそるまたいでみる。
「俺につかまってて」
「うん」
いいのかな、と躊躇いつつも、河内くんの黒いオーバーの背中にしがみついた。
オートバイから眺める街並みを楽しみつつ、いろんなところに連れていってもらった。でも、途中から、案の定冷たい小雨が降り出した。
「寒くなってきたね」
「ほんと? ちょっと待って」
そう言って、河内くんは自分の黒いオーバーを脱いで、私に着せてくれた。
「いいの?」
「俺は寒いの、わりと平気だから」
あっという間に夕食の時間になったけど、なかなかいいところが見つからなくて、結局通りかかったフライドチキンになった。「何かごめんね」と河内くんは申し訳なさそうだったけど、私は河内くんと一緒に食べる食事が、一番嬉しかった。
河内くんの店舗にもお邪魔させてもらった。移転のときにヘルプに来てくれた店長さんやスタッフさんに挨拶して、目敏く店長さんが「これ、河内のオーバー?」と私が来ているオーバーに目をとめた。「あ、貸してもらってます」と私が言うと、店長さんはにやにやと河内くんを見て、「何っすか、店長!」と河内くんは頬を染めていた。
そのあと、河内くんはいったん帰宅して、私は家の前に残された。まあいきなり挨拶したら逆に迷惑だよね、と思っていると、戻ってきた河内くんは、オートバイでなく車のほうに私をうながした。
「親父の車だけどね」
河内くんは苦笑いしつつ、私を助手席に乗せてエンジンを入れた。そうして向かったのは、山間の広く夜景が見下ろせる場所だった。
周りはカップルだらけだった。私たちは──どうなのだろう。夜景を見ただけで何もなかったけど、河内くんは言いたいこと、したことがあったのかな。私は鈍感で、何も気づいてあげられなかったけど──もし手を握られても、拒否なんかしなかったと思う。
なぜか言葉少なになった帰りの車で聴いた、現在では解散したバンドの曲がある。その曲を聴くと、いまだに胸が締めつけられる。なのに、ウォークマンから消すことからできずにいる。
駅まで送ってもらって、これでお別れか、と思うと、急に話したいことがあふれてきた。終電ぎりぎりまで、くだらない話をして過ごししてしまった。
「さすがに時間やばいよ」
そう言われて、今日は泊まりたいって言えばよかった?
でも、私は「そうだね」とちょっと声のトーンを落としてうなずき、「また遊んでね」と河内くんを見た。河内くんは笑顔でうなずいてくれた。
私は車を降りて、ようやく駅に向かって駆け出した。本当に、危うく終電を逃すところだったので、ほっとしたけれど、逃してしまえば河内くんといられたのかなとちらりと思った。
ほどなくして、二回目のデートをした。今回は私の地元だったのに、私は何もプランを考えていなかった。思い返すと、かなりひどかったと感じる。市内に出ても、街を案内できずに迷子になりかける有様だった。
あてもなく歩きながら、前は水商売をしていたことを話すと、「俺も今のとこ面接ダメだったら、ホスト行こうとしてた」と河内くんは咲った。私も河内くんも中卒なことも判明して、「学校って楽しくないよねえ」という意見が一致したりした。
無駄話をしつつ、アーケードの中をぶらぶら歩いた。何の計画もない、きっとぜんぜんおもしろくもない時間に、河内くんはつきあってくれた。
そろそろヘルプスタッフも来なくなって、通常営業になった私の勤める店舗にも、河内くんは遊びにきた。同僚と談笑していたとき、私のケータイが鳴った。
何だろ、と眉を寄せて確認すると、母からのメールだった。『今日、病院までには帰ってくるの?』とあった。それで初めて、今日が今もたまに通っている通院日だったと思い出した。
病院なんて、飛ばすか延期か、すればよかったのだ。何でそうしなかったのか、今の私にはぜんぜん分からない。私は河内くんに店舗に残ってもらい、いったん病院に行って、薬をもらいにいった。めちゃくちゃすぎて、たぶん、河内くんが私にあきれはじめたのならこのときからだと思う。
本当にひどい一日にしてしまったのに、河内くんは駅での別れ際、私を軽く抱き寄せた。その軆からは、何だか心地のいい匂いがした。
「河内くん、香水つけてる?」
「うん。山下さんも?」
「うん。好きな奴」
「俺もデートのときは香水つける」
「え、デートだったの?」
「デートじゃないの?」
「……デートと呼んでもよければ」
「デートだよ。いや、俺だけデートと思ってたら哀しいじゃん」
「はは。うん、デートだね」
河内くんは、私を抱きしめた。何も言わなかった。言われなかった。でも、デートということは、このときはまだ、私たちはお互いを意識していたのかもしれない。
それからも、頻繁にメールのやりとりをした。休憩時間にも、すかさずメールするくらいだった。そんな私を見て、同僚が「河内くんとは、もうつきあってるの?」と問いかけてきた。
「え、そんなんではないですけど」
「えー、つきあえばいいのに」
「……分かんないですし」
「何が?」
「河内くん、すごく優しいけど……押してこないので」
「押す」
「好きだったら、押し倒しますよね?」
「う、うーん。どうかな」
「優しくされるだけじゃ、よく分かんないっていうか」
「強引にされたい?」
「……そういう人しか、好きになったことがないので」
私は、ケータイの待ち受け画面を見つめた。
私の初恋は、水商売をやっていた頃、チーフだった人だ。その人のことが本当に好きで、でも絶望的に片想いで、なのに軆だけは求められて、拒めなくて溺れていって。結局、彼には結婚を考えているほどの恋人がいて、なのに、連絡先はいまだに削除できていない。
不意に連絡が来るときがあるのだ。私はそれを拒めない。どこかで期待している、待っている自分がいる。電話を切ったあとは、砂を噛む気持ちになって、メンタルが激しく壊れるのに。
二月に入った頃、数ヵ月ぶりにチーフから電話がかかってきた。どんな話をしたのかは憶えていないけど、嫌な気持ちになった。そして、そのあと偶然にも河内くんからメールが来た。
『何かあったの?』
『……何か、私めちゃくちゃ愚痴ると思うけど、いいかな』
バカみたい。このとき、ぐっとこらえていればよかった。昔好きだった男の愚痴なんか、それどころかその男を断ち切れていない話なんか、河内くんは聞きたくなかったに決まっている。手ひどく傷つけるだけだ。何で私は、それが分からなかったのだろう。
このときの私の無神経が、河内くんの中で、切り札になってしまった。
ひとしきり話して、「また河内くんに会えたらいいなあ」なんて、私はどの口で言ったのだろう。私は河内くんに会って、またなごんで癒やされたかったのだろう。でも、そんなの、河内くんには「俺は都合のいい男なのか?」という気分だったに違いない。
河内くんはこわばった口調で、いきなり、職場の後輩に告られたからつきあうことになったと告げた。
『だから、もう山下さんと会ったりできないんだ。電話もできなくなると思う』
それが本当のことだったのか、と今は思う。しかし、このときの私は河内くんの唐突な心変わりに思えて、びっくりして、でも責めることもできずに、「そっかあ……」と弱く笑うしかなかった。
「残念だなあ……」
思わずそうこぼした私に、河内くんは沈黙したあと、「そう言ってくれるの、遅かったかもね」と哀しそうにつぶやいた。
その後、例の同僚も河内くんに彼女ができたことを聞いたらしい。「私、余計なこと言ったかも……今からでもフォローしようか?」と言われたけど、私は首を横に振った。
余計なこと。あえて訊かなかったけど、何だろう。もしかして、押し倒されないと分からないとか、そういうことを河内くんに発破と思って伝えたのかな? 何てことしてくれたんだよ。そのときはそう思ったけど、やはり、私が昔の男に関する愚痴など聞かせたのが、悪かったのだろう。
私だって、河内くんが元カノを引きずってるような愚痴をこぼしたら、あまりにもつらかったと思う。
そして、私はメアドを変えた。新しいメアドは、河内くんには教えなかった。携番までは変えなかったけど、連絡は来なかった。河内くんとは、それっきりになった。
振り切ってすべて忘れてしまいたくて、前から考えていたひとり暮らしを始めた。しかし、なぜか急激に仕事への意欲がなくなっていった。メンタルの消耗も激しくなった。あんなに楽しかった仕事も、苦痛でしかない。
移転でかなり入れ替わった同僚のことも、嫌いだ、苦手だ、と感じるようになった。特に後輩にタチの悪いのが多くて、笑顔で話を合わせるだけでほとほと疲れた。そんな私に、元からいた同僚もいらいらして「そんな顔でレジに立たないでください」と言われたり、もはや何も注意することなく、軽蔑の目を向ける以外は無視されるようになった。
私は、職場にどんどん居づらくなった。理由づけてはバックで休んだ。売り場に出ても、隅でストッカーを延々と整理したり、名札の安全ピンで手首をぶちぶちと刺した。
そして、また例のチーフから連絡が入った。頭が虚ろすぎて、私は彼を部屋に許し入れてしまった。
ひどいセックスだったのを憶えている。勝手で、乱暴で、終わったら、コンドームが派手に破れていた。物みたいに抱かれたのに、哀しくもなくて、無感覚だった。
家に帰って、母に事情を話して婦人科に行った。妊娠はしていなかった。いっそ子供ができて、あの人を縛れたら幸せなのかなと一瞬考えて、我ながらぞっとした。あんな人と、幸せになれるわけがない。
やっと、チーフの連絡先を消すことができた。でも、不安定な精神はそのままで、自殺未遂をやらかした。病院の指示で、私はひとり暮らしを三ヶ月で強制終了され、実家に引き取られた。
「山下さん、仕事辞めたほうがいいと思う」
そして、ついに店長にそう言い渡された。
「休んだほうがいいし……その、……悪いけど、山下さんの病気、あたしは怖いの」
何だよ、それ。私と一緒に働きたいって言ったじゃん。元気になるの待つってあのときは言ったじゃん。
何で? 何で? 何で?
あとから聞いたうわさだと、店長はスタッフの男の子とつきあいはじめていたらしかった。店長のスタッフへの気配りが希薄になったのと、その時期は重なっていた。調子が狂いはじめていたスタッフは、実際私だけじゃなかった。ぎすぎすしたスタッフの関係を修復するより、男に愛されているほうが気持ちよかったのかもしれない。
私は無職になって、引きこもりになって、虚しく日々を垂れ流した。今にもまた、自殺衝動に食われそうだった。私が辞めたあと、連絡をくれる人もいなかった。移転のとき、あんなに交換したメアドも、ただ登録されているだけ。いらいらしてたまらなくなったとき、私はそれらをすべて削除した。
夏になり、私は一匹の子犬を家族に迎え入れた。ビーグル犬で、ペットショップで目が合って、お互いにひと目惚れしたのが分かった。スタッフさんに抱っこさせてもらったら、その温もりをもう離せなかった。
この子のために生きよう。そう思った。この子が、私の膝で永遠に眠るまで。それまでは、頑張って、生きよう。
私の運命の赤い糸は、その子につながっていたのかもしれない。その子との絆なら、私は素直に信じられた。その子が病気になったとき、吐いたものも下したものも、汚いなんて思わず、処理することができた。その子も、私がつらくて泣いているとき、じっとこちらを見つめて寄り添ってくれた。私が手首を傷つけたら、ぺろぺろと包帯の上から舐めてくれた。その物言わぬ優しさに、涙があふれてきた。
──でも、その子も十三歳で生涯を閉じ、亡くなってしまった。
運命を感じる男なんて、いなかった。けれど、もっと河内くんを大切にしていたら、と思うことはある。今も夢に見るのは、チーフだったあの人でなく、河内くんのことだ。
私は、彼にひどいことばかりした。河内くんはそんな私にも、精一杯、優しかった。逃した魚が大きく見えているだけかもしれない。けれど、河内くんはゆいいつ私に優しく接して、甘えさせてくれた男の子だった。
私は優しくされたことがなかった。だから、それが愛だと分からなかった。いまさら伝えることができるのなら、河内くんに「ごめんね」と言いたい。たぶん私は、君に自然と甘ったれてしまうほど、恋をしていた。
今でも、君とどうにか連絡が取れないかと画策する、間抜けな夢を見る。でも、いつも、届かない。
連絡を絶って、二十年近く経つ。たとえつながることがあっても、何もかも遅すぎる。
もう私は、誰のものにもならない。仮に軆を抱かれるようなことがあっても、心は動かないと思う。私のこんな、ケロイドまみれの心まで抱きしめてくれる人だって、いないだろう。
私を受け止めてくれる人はいない。
君はいなくなった。
君だけが、私を丁寧にあつかってくれたけど、そんな君さえ、私は大切にできなかった。
君は、どこかで幸せになってるよね。
……きっと幸せでいてね。
君を失ってしまった私には、知る由もないことだけど、ただそれだけはずっと祈っている。
FIN