愛しい夜に

 晴れ過ぎた空の日射しで、空気は発熱しているようだった。
 少し前に二学期が始まったのに、まだまだこの猛暑だ。クラスメイトの四人グループでお昼を食べているとき、誰からともなく「アイス食べたい……」と言い出していた。それが放課後には、自然と「絶っ対アイス食べよう!」になっていた。
 春に通いはじめた高校から駅への道のりに、ちょっとお洒落なアイスクリーム屋さんがある。すでに一学期にもお世話になった、味はかなりおいしいお店だ。いつもにぎわっているけれど、席数は少ないから、テイクアウトする人が多い。
 けれど、その日は入れ違いにお店をあとにしたおばさま方がいた。おかげで、心地よいクーラーのきいた店内で、私たちは四人がけの席を取れた。
りんが何か置いてよ」
 そう言われて、私だけ物を置いていくの? とは思ったものの、何も言えずに学習ノートを置いた。「勉強で長居すると思われるじゃん」とさらに言われたけど、ほかのふたりが「いいから食べよー」「マジ暑っついわ」とショウケースのほうに歩き出したので、それ以上は言われなかった。
 友達はショウケースのカラフルなフレーバーを覗きこむ。そして、店員さんにあれこれ長いフレーバーやトッピングを伝えはじめた。カフェとかでもそうだけど、相変わらず呪文みたいに言うなあ、と私はつい圧されてしまう。
「凛、ちゃんと席取れた?」
「あ、うん」
「注文しなよー」
 私もショウケースの中に並んだアイスを見た。いつも思うけど、パレットみたいだ。さまざまなフレーバーがある。今日は冒険してみようかな、と思っても、たぶんみんなみたいに唱えられないし、やっぱり一番好きなフレーバーを食べたい。
「えっと……バニラをダブルで。カップでお願いします」
 ごくシンプルな注文に、友達は揃って顔を見合わせた。そして、「またそんな地味な奴を」なんて言ってくる。
 彼女たちのこういう感覚は苦手だ。私はバニラが好きだし、それを自分のお小遣いから食べようとしてるのだから、いいじゃない。
 けれど言えずにいると、何だか念押しみたいに店員さんが「トッピングなど、よろしいでしょうか?」と訊いてきた。私が「はい」とうなずいたことで、友達はいよいよ笑い出す。
 私がすっかりむすっとしたときだった。
「お、中岡なかおかたちじゃん」
「何バカ笑いしてんだよ」
 そんな声がかかって、振り向くと、クラスメイトで見憶えのある男の子たちだった。「ちょっと聞いてー」と友達のひとりが私をしめし、いちいちバニラの件を話しはじめる。
 ああ、もうこの人たちにまで笑われるの? うんざりしながらため息を押し殺し、お財布を取り出していると、「バニラいいんじゃね?」と声がした。
「アイスの王道はバニラだろ。バニラかチョコが王道だろ」
「え……、でもさ、もっとかわいいのあるじゃん」
 そう言った友達に、その男の子は変な顔をして首をかしげた。
「かわいいって何? アイスはうまいかどうかだろ」
 友達は目を交わし、何だか黙りこんだ。まあ、彼女たちにとっては、アイスはまず「映えるかどうか」だろうけど。
 私がお会計をしていると、「よし、俺もバニラにしよー」と、意に介さない様子で彼はバニラを店員さんに注文した。
「へへ、同じだな」
 私は彼を見上げた。三矢みつやくんだっけ、とようやく思い出す。名前は知っていても、特に意識もしないクラスメイトだった。
 彼にも、これまで私はその程度の存在だっただろう。けれど、この一件で私たちはすぐ仲良くなった。違和感のある友達グループの中にいるより、三矢くんと話しているほうが楽しかった。友達は案の定というか、ぶつぶつ言いながら私をグループから外した。けれど、ぜんぜん寂しくなかった。ようやく厳しい残暑が終わった頃、私は三矢くんとつきあうようになっていた。
 冬休みに入って、お互い帰省などもなかったから、初詣に一緒に行くことになった。大晦日の夜に駅で待ち合わせして、ちょっと遠出して有名な神社に行った。
 指先や耳たぶがちぎれそうな寒さだった。けれど、神社は隙間もないほど混みあっていた。ざわめきが澄みきった冬の星空に飲まれていく。参拝の列は鳥居の外まで続き、警備員の人たちが必死に接触が起きないように車を誘導していた。
「うまいもん調達してから並ぼうぜ」
 三矢くんは、無邪気なくらいきらきらした瞳で、闇に揺らめくように並ぶ屋台をしめす。
 たこ焼き、焼きそば、フランクフルト。チョコバナナや回転焼き、林檎飴や苺飴。どの店からも、おいしそうな匂いの誘惑がすごい。「お参り終わってから、もう一度ゆっくり食べ歩こう」ということになると、私はひとまずさくっとしたアメリカンドッグ、三矢くんはほくほくのじゃがバターを買った。
 参拝の最後尾に並ぶと、舌を火傷しないようにしながら、それぞれ選んだものを食べる。湯気からもおいしそうな香りが立ちのぼる。
「うまい?」
「うん」
「ひと口」
 私は咲って、三矢くんの口元に、ケチャップのかかったアメリカンドッグをさしだした。そしたら、けっこう大きくかぶりつかれて、「えー……」と私は眉を寄せる。「ほら」と三矢くんも咲うと、溶けたバターがたっぷり染みこんだじゃがいもを私の口元にさしだす。私は負けないように食べさせてもらった。
 年が変わる瞬間は、周りが自然とカウントダウンを始めたことで分かった。わあっと歓声が上がって、それでもまだ前方に拝殿は見えてこない。
 ふと、三矢くんが私の手を手ぶくろ越しに取って、「あけましておめでとう。今年もよろしくな」と微笑んだ。私は何だかどきどきして、「こちらこそよろしくお願いします」と敬語になってしまいつつ、同じく手ぶくろ越しに三矢くんの手を握った。
 やっと参拝できたあと、三矢くんがお守りを買ってくれた。「何のお守り?」と何となく訊くと、「色が綺麗な奴」と言われる。
「お守りには、健康とか安全とか、縁結びとかあるんだよ」
「ピンクだったから縁結びじゃね?」
「私、三矢くんともうつきあってるし……」
 そう言いながら、取り出してみたお守りには、『安産祈願』とあった。「安産……」と私が神妙につぶやくと、「はっ?」と三矢くんはびっくりした顔になる。
「いやっ……違うしっ。そういう意味じゃないぞっ」
「そういう意味って……」
「か、返してくるか? いや、変える? 今なら、もしかして──」
「……たぶん無理だと思うし、気持ちと思っていただきます」
「何かすまん……」
「ううん。確かに、綺麗な色のお守り」
「……サンキュ」
 私はにっこりして、「屋台、見てまわろう」と三矢くんの手を引いた。「おうっ」と三矢くんは私の隣を歩いて、そのあと私たちは、屋台にずいぶんとお小遣いをつぎこんでしまった。
 高校時代が過ぎ去り、私たちは大学生になった。凛と孝治こうじ、名前で呼び合うようになった。別の大学だったから、休日には家を行き来して、お互いの両親とも仲良くなった。両親同士の顔合わせの食事のときには、みんな早くも結婚の話をしていた。
「ごめんね。うちの両親、気が早くて」
 両親たちが談笑する席を外れ、窓から春陽が射すスペースで私が言うと、「こっちこそ」と孝治は苦笑した。
「でも、俺は嬉しい」
「え」
「凛の両親に、旦那さんは孝治くんしかいないとか言われると、テンション上がる」
「……ふふ。そうだね、祝福してもらえるのは嬉しい」
 微笑んだ私の髪を撫でて、「結婚は、就職して安定してからだと思うけど」と孝治はまじめな声で言う。
「大学の卒業がお互い決まったときには、一緒に暮らさないか」
 私は孝治を見上げた。大学二年生。私も孝治も、もう二十歳。私がこくんとうなずくと、孝治は自分の肩に私の頭を抱き寄せた。
 約束通り、大学卒業と就職が決まると、私と孝治は大学時代に貯めた資金で同棲を始めた。同棲を始めたのは三月だった。入居した日は夜遅くに作業が終わって、近くのコンビニでお弁当を買って食べた。そして、段ボールからとりあえずふとんを一枚出すと、それに一緒にくるまって眠った。
 カーテンもつけずに眠ったから、朝は窓から初春の緩やかな朝陽が入ってきた。私はふとんの中から、スマホでまだ少し時間があるのを確かめると、まだこのまま眠ってたい、とすやすやしている孝治の胸にしがみつく。
 そんなふうに、私たちふたりの生活が始まった。孝治の仕事は、かなりいそがしそうだったけど、そのぶん私は、モールに入ったアクセショップでバイトするくらいの働きでよかった。家事は基本的に私が担当する。「ごめん、手伝えなくて」と孝治は謝ったけど、私は家事が苦手とか嫌いとかではなかったから、「大丈夫」と請け合っていた。
「凛、今日遅くなるかも」
「そうなの? じゃあ、食べたいものある?」
「先に凛が自分の好きなもの食ってていいよ」
「孝治が好きなもの作りながら、待ってるのも悪くないよ」
 孝治は私を見つめたのち、なかなか嬉しそうに笑ったあと、「昔懐かしナポリタン」とリクエストしてくれた。私はうなずいて、「いってらっしゃい」と笑顔で孝治を見送る。
 穏やかな毎日は、数年くらいあっという間に過ぎた。孝治は仕事に慣れてきたものの、それと同時に、後輩の面倒を任されることが増えた。たいていは男の子を任されていたけど、同期の女の人が結婚退職して、今度中途採用で入ってきた女の子の指導を行なうことになったらしい。
「……かわいい子なの?」
「まあ、ぼちぼち」
「そう……」
「いや、どうせ彼氏いるって」
 孝治は笑ったけど、どうせ、という言いまわしが少し引っかかった。どうせ、なんて高をくくって。もしも、実際にはその子に彼氏がいなかったら、どうかしたいとか考えるの?
 それ以来、孝治の帰りが遅いと、もやもやするようになった。けっこうしんどい。気にするな、そんなまさか、と振りはらおうとしても、胸の奥がかりかり引っかかれて、不愉快にいらついてしまう。
 これを孝治にぶつけるわけにはいかない。こんなの、私の勝手な醜さだ。孝治は仕事でその子と接しているだけだ。頭に言い聞かせても、その子といて孝治は楽しかったりするのかなと思うと、喉元が靄で傷ついた。
 秋めいてきた日の夜、今日も孝治遅いなあと、落ち着かずに何度も時計を見上げていた。肌寒さを感じて、カーディガンを羽織っていたら不意にスマホが鳴った。通話着信。慌ててスマホを握って応答すると、「凛」と孝治の声がした。
「どうしたの? 遅いから心配してた」
『すまん。今夜、ちゃんと帰るんだけどさ。山澤を送っていかないといけないんだ』
 山澤。例の後輩の女の子のことなのは知っている。
「送るって……」
『今日、接待で相手が山澤に酒を勧めすぎてさ。すげー酔っぱらっちゃってんだよな。ひとりで帰すと危ないから』
「そ……う」
『ちゃんと終電までには帰る。でも、もし凛が眠かったらぜんぜん──』
 電話の向こうで、声がした。女の子の声。何て言ったかは分からないけど、ずいぶん甘えた声で──
 すぐ分かった。この子、孝治に気がある。
『ごめん、凛。またあとで』
 電話が切れた。ひと息に、不安といらだちが噴き出してくる。
 孝治。何でそんなことも分かんないの? 狙われてるんだよ? それとも……今頃、誘われて彼女に応じているの?
 帰ってこないかもしれない。覚悟していたけど、零時をまわった頃に玄関で音がした。私は顔を上げたけど、わざと迎えに出なかった。
「凛?」
 孝治が明かりのついたリビングを覗いてくる。ソファで膝を抱える私は、無表情にそちらを見た。孝治も、私の面持ちの理由は分かっているらしい。
「いや……俺、ちゃんと帰ってきたじゃん」
「……送ったの? 家に上がった?」
「上がるか。てか聞けよ、彼氏いたらまずいなと思ってたら、実家住みで親父さんが出てきたぜ。怖すぎるだろ」
「……何で怖いの?」
「怖いわっ。どういう関係かとか訊かれるし」
「何て答えたの?」
「そんなもん、『職場の上司』だよ」
 私は孝治を見つめた。頭では、分かってきていた。彼は嘘なんてついていない。裏切るようなこともしていない。
 でも……
「『彼氏です』って、言えたらよかったね」
 私が思わずそう言うと、「はあ?」と孝治はさすがにムカついたような声を出した。なのに、私はまだとげとげと続ける。
「かわいい子なんでしょ? 彼女だったら自慢だよね」
「あのなあ──」
 ああ、もう、違う。こんなの違う。私は、ごめんねって言わなきゃいけないのに。今すぐに。嫉妬でいじけるなんて、本当にみっともない。
 しばらく沈黙が流れた。孝治は息をついた。私は少し、身を硬くさせる。
「まあ……分かるけど。俺もさ、お前がバイトしてる店のオーナー嫌いだもん」
「……は?」
「凛がめちゃくちゃお洒落な男の人なんだよって話してたときから、すげー嫌い。いや、会ったことも見たこともないけど」
「………」
「だから、凛も……こういうの、嫌だろうなって分かってた。なのでっ」
 そう言った孝治は、大股で私の前に来ると、白いふくろをさしだした。
 コンビニのふくろだ。
「ごめん。許して」
 そっと、ふくろを受け取って中身を覗いた。そこに入っていたのは、バニラのカップアイスだった。
 ……ああ。あの日も、そうだった。孝治は「かわいい」より「おいしい」を選んでいた。そして、私たちは始まった。
 私は泣きそうなのをこらえて、立ち上がると孝治の首に抱きついた。「寂しかった」と言えた。ようやく素直にそう言えた。
「うん」
「怖かった」
「うん」
「私、かわいくないね」
「俺の前でだけ、かわいかったらいいんだよ」
 私は孝治にぎゅっとしがみついた。孝治はゆったり私の髪を撫でる。
 寝室に連れていかれて、私たちはそのまま愛し合っていた。同じ毛布に包まって、溶けかけてしまったバニラアイスを思い出し、やっと銀色のスプーンで食べさせあう。
「こんな時間にアイスとは、罪深いなあ」
「ふふっ。でも、おいしいね」
「うん。てかさ、さっき、ほんとに……その、中によかったのか?」
「うーん、安産祈願はずいぶん昔にしてるから」
「はは、そうだったな。凛との赤ちゃんか。早く会いたいな」
 私は自分のお腹に触れ、さっき孝治に温められたお腹をさすった。私も孝治と同じ気持ちだ。いつでも来ていいよ、と思う。
 ふたりで眠れる夜が、私たちの特別な時間。何でもない毎日を送る私たちの、大切な時間。
 バニラアイスが、ゆっくりと溶けていく。この温もりが、とても幸せだ。
 この人とずっと一緒にいたい。そう思える夜が今まで続いてくれて、これからも続いていくことが、私はとても愛おしい。

 FIN

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