「ゆーま坊ちゃま、一緒に遊びましょう」
ナナが初めて俺にそう言ったのは、いつのことだっただろう。
物心ついたときには、俺にはすでに何人もメイドがついていた。ナナもその中のひとりで──ほかのメイドと違うのは、歳が俺と同じということだった。ふた昔は年が離れているメイドばかりに囲まれ、俺が寂しがっているとでも親は思ったのだろうか。
緑の庭園で、メイドたちの目の届く範囲でボールを蹴ったり投げたりしている俺に、幼いながら黒いワンピースに白いエプロンという由緒正しいメイドスタイルをしたナナは、いつもそう言いながら駆け寄ってきた。
「お前、サッカーできんの?」
この女がどうもムカつく俺は、いちいちそう吐き捨てて冷ややかな目をやる。
「さ、サッカーですか? えーと……あ、頑張ります!」
ナナはすぐにそう言う。頑張っても、うまくできないくせに。それが、当時から俺の癪に障っていた。
「……いいや。星美呼んでこい」
「でも、今日は私がお相手を──」
「僕が呼べって言ってんだよ! お前は、僕の命令を聞くのが仕事だろ!」
「あ……はい。星美さん、ですね」
「誰でもいい。お前以外だ」
「かしこりました」とナナはぺこりと頭を下げ、いつも右に刺している青いヘアピンを陽射しで照らし、ボールを踏みつける俺からきびすを返した。
芝生を黒の革靴で駆け、屋敷の壁際の日陰で談笑するずっと年上のメイドの輪にすくみながら入り、俺が適当に名前を上げたメイドのひとりに声をかける。こちらを見たそのメイドに、俺はボールを取り上げて空に放った。
「そいつ、いらない!」
「勇磨坊ちゃま──」
そのメイドは息をつき、ロングスカートの裾をひるがえして歩み寄ってくる。
「ナナは、坊ちゃまのためにと旦那様が呼んだ──」
「つまんねえもん! お前が僕と遊べ!!」
言いながら、そのメイドの向こうのナナを見た。メイドたちの中で、ナナは必死ににこにこしている。年上の話題についていけないのは、明らかだった。
「何であんなの雇うんだよ」
ボールを拾ってきたメイドに、俺は苦くつぶやく。
「早くクビになればいいのに」
俺はしょっちゅう、そう言っていた。実際、親にナナはいらないと何度も言った。両親は俺にぎとぎとに甘かったけど、ナナのことは絶対に解雇しなかった。ナナの家は、よほど娘を身売りさせないとやっていけない家庭らしかった。
──そして、そのまま、十五年が過ぎた。
「あ……勇磨、ん、……あっ」
俺の名前が混じった喘ぎを上げながら、某お嬢様学校の制服を乱れさせた女が、俺の下で身を反らせている。俺の荒っぽい息遣いとつらぬく刺激に合わせ、彼女も腰を振り、熱くあふれる水音が蕩けている。黒いブラジャーからはみ出た白い乳房が揺れ、俺はそれを乱暴につかむと、桃色の乳首に舌を絡ませた。
いっそう強いわななきが、つながった性器から伝わる。ぎゅっと俺を締めて、そろそろやばい。俺はほどかれた黒髪を流す頭を抱き、もっと深くまで彼女を突いて動く。
「中に出していい?」
テノールだと言われる声でそうささやくと、彼女はすがりつく目をよこしてくる。
「もう……もう何でもいい、すごくいいっ……」
痛いんじゃないだろうかと思うほど、根深く刺す。それでも彼女はどろどろの快感に酔って目を泳がせ、俺の首に腕をまわす。腰と腰がぶつかる音がどんどん加速する。粗雑な息と卑猥な声が入り乱れ、俺は名前も憶えていない、お嬢様とは名ばかりの雌豚の子宮にたっぷり吐いた。
「あたし、やっぱり勇磨とつきあいたい……」
終わったらさっさと制服を着始める俺を、よれたシーツで脱力していた「今日の彼女」が、起き上がるなりそう見つめてくる。俺は一瞥くれると、「約束しただろ」とネクタイを手に取る。
「一回抱かれる代わりに、俺を忘れる」
「そうだけど……今だって、エッチ最高だったじゃん。絶対、相性いいよ」
「俺は誰とだって最高なんだ」
そう言うと、彼女は口ごもった。俺はいつもそうだ。この雌豚も着ている制服のお嬢様学校では、「勇磨と二回以上やった奴は勝ち組」とまで言われているらしい。
だから、誘いにいかなくても、帰り道、電車、伝言で女がたかってきて、俺を満たしてくれる。
俺が女を連れていくのは、安っぽいラブホテルじゃない。そのままひと晩泊まれそうな、ロイヤルホテルのスイートルームだ。これは、逆ナンしてきたOLなんかがかなり喜ぶ。支払いはカードだ──今は親名義でも、親が死ねば俺の金になるのだから、同じことだろう。
「じゃあ、俺は帰るぜ」
ブレザーの制服をきっちり着た俺は、引き止めようとする言葉を無視して部屋を出た。
女はただのはけ口で、情を持ったことはないけれど、屋敷には帰りたくない。それだけで、もう少し時間つぶせばよかったかなといつもちらりと思う。
「ただいま」
零時を過ぎた冬の冷える夜、言わなかったらお局から小言だから、帰宅したら仕方なく俺はそう言う。
俺はもう十八歳で、春になったら進む大学だって決まっている。もうガキあつかいはやめて、放っておいてほしいのに。
何か声を発したら、気づかれないことはない。特に、こののろまなメイドに限って、せめてきちんとできる出迎えをやろうとする。
「お帰りなさいませ、勇磨坊ちゃま」
ナナ。俺と同い年のこの屋敷のメイド。なぜ、こいつがいまだに俺のそばにいるのだろう。
学校にも行かず、この屋敷に幼い頃から尽くしている。どれだけの貧乏人なのか、俺には想像もつかない。そんな底辺の奴と、同じ空気を吸うことも嫌なのに、いつになったら出ていくのか。
「シャワー浴びるから」
そっけなく吐いて、暗い廊下を階段へと進もうとすると、さっそくナナはどんくさく狼狽える。
「えっ、あ……」
「何だよ」
じろりとすると、昔より髪を伸ばしておかっぱになったナナは、食堂を何度か見やる。
「あ、その、お食事は」
「はあ? 普通風呂が先だろ。汗も流さずに、あんたは飯なのかよ」
「あ、汗……かきます、よねっ。そうですよ……ね」
「冬に汗かくのが、そんな不思議かよ」
「いいえっ。あの、では、お湯をすぐ沸かしますので」
「シャワーでいい」
吐き捨てると、俺はとっととナナとすれちがった。本当に、何だというのだ。あんなのにまとわりつかれたくない。無駄にいらいらする。
シャワーを浴びているあいだに、いつも通り、勝手に着替えとタオルが用意されている。ホテルに置いてきたあの女との汗と匂いを流した俺は、無意識にタオルの位置に手を伸ばし、憶えのない紙の感触に眉を寄せた。
ちょっと近視の俺は、つかんで目の前に持ってきて眇目になる。花のイラストがあしらわれた封筒だった。
今まで、この屋敷まで俺を追いかけてきた女はいるけど、さすがに入浴中に不法侵入してきた奴はいない。何、と便箋を取り出すと、大人っぽくない、ころころした女の字が並んでいた。
『──ずっと、ゆーま坊ちゃまが、好きです。』
そんな一文でくくられていた手紙だった。俺は失笑していた。差出人は明らかだった。
何? 何だよ、あの女。俺を精一杯、揶揄ってんのか? 本物のバカなのか? 俺がこのでかい屋敷を継ぐ男だと、あいつはそれすら分かっていないのか。
食欲なんかなかった。無視して部屋で休むつもりだった。だが、さすがにこれは釘を刺したい。俺は服を着ると食堂に向かった。
食堂では、ナナのほかにシェフのチーフが残っていた。俺のすがたに、ふたりとも席を立つ。ナナが「待っていただいてありがとうございました」とチーフに頭を下げる。俺が怪訝な面持ちをしていたのか、年配のチーフは調理室に入る前にひと言残した。
「僕も坊ちゃまのお帰りを待っていたんですよ。なるべく温かい料理をとね」
俺はナナをちらりとした。その目にナナは困ったように咲う。この世で一番いらつく笑顔だ。
俺が手近の椅子に腰をおろすと、かたわらにナナが立つ。
「ええと、今夜のお夕食のメニューは──」
「いらない」
「え、でも」
「お前が食えば? いつも見てるだけだもんな。食ったことないんだろ、俺が食ってるような飯」
「いえ、私は……私なんか」
「どうせ、残したら俺に文句が来るんだよ」
ナナが言葉につまったとき、チーフが俺の前に温かい匂いを立てる食事を持ってきた。確かに、俺は空腹だ。けれど、それより──。
「ごゆっくり」と言ってチーフが食堂を出ていくと、俺は寝間着のポケットに手を突っ込んだ。
「吐き気がするんだ」
「えっ、お軆の調子──」
「最悪だよ。分かるだろ、お前なんか遊びにもならない」
立ち上がった俺は、手紙を見せながらナナを冷ややかに見下ろした。そして、わざと音を立てて手紙をまっぷたつに破り、床に放る。
「勇磨坊ちゃま──」
「ぞっとさせんじゃねえよ」
続く言葉はなかった。あっても聞く気などなかった。その顔も見なかった。言いたかっただけだ、お前の想いなど虫唾が走ると。
部屋に戻ると、とっとと電気を消してベッドに仰向けになった。言いようのないいらいらがまとわりついて、寝つけなくて、天井の冷光が消えていくのを見つめていた。
翌朝、俺を起こしにきたのは、メイドの中のお局だった。昨夜帰りが遅かったことをナナがチクっていたら、何か言われる。あいつはバカ正直だから、訊かれたら話しているだろう。
だからふとんをかぶって逃げようとしたけど、「遅刻しますよ」と冷静な声なのにやや乱暴な手つきでふとんを剥がされ、真冬の朝の冷気に当てられてしまう。
「うっわ、寒い……」
言いながら時計をちらりとして、俺は眉を寄せた。
「まだ六時なんだけど。ボケたのか、お前」
「いつも申しておりますが、お言葉を慎んでください」
「あと三十分寝れるじゃないか。ああ、俺、寝たいから」
「坊ちゃま、こちらがあの子からの挨拶です」
お局がさしだしたのは、昨日、俺が破ったはずの花のイラストがあしらわれた封筒だった。
挨拶? うざったい仕草で引ったくると、俺は便箋を取り出し──その内容に徐々に目を開いた。
この屋敷から暇を取ること。
結婚相手が決まったこと。
もう俺のそばにはいられないこと。
「な……んだよ、これ!」
俺はベッドに座るままお局を見上げた。けれど、お局の目から何か読み取れたことは一度だってない。
「結婚って何なんだよ。俺には誰もひと言も、そんな話はしなかったじゃないかっ」
「あの子と旦那様の意思です」
親父? そうだ、親ならナナを引き止めるだろう。あれだけ俺がナナはクビだといっても聞かなかったのだ。
「言ってくれよ、とうさんに。狂言だよ、もちろん。俺がナナと結婚したがってるって伝えて。そしたら──」
「勇磨坊ちゃま」
「俺の家はこんなにすごくて、あいつは、ここに身売りさせられるような──」
「七虹お嬢様は」
……ナナコ? ナナコお嬢様?
「すべて、ご両親の教育に従ってこの家にいらしただけです」
「は……?」
「七虹お嬢様の家では、女子が生まれたら、そのときから花嫁修業が始まるのです。幼い頃から坊ちゃまのお世話をして、七虹お嬢様は、立派な花嫁となることを学んでいらしたのです」
「………、」
「嫁ぎ先は、このお屋敷も較べものにならない名家です。そもそも、七虹お嬢様のご両親が教育先としてこのお屋敷を選んでくださったのが、恐れ入るほどのお家柄です」
お局。そうだ、なぜか突然思い出した。お局の名前、星美っていったはずだ──
「もう、遊ぶこともできませんね」
……何、だよ。その皮肉。でも、そうだ。遊べない。遊ぶ気になれない。
『ゆーま坊ちゃま、一緒に遊びましょう』
ナナが初めて俺にそう言ったのは、いつのことだっただろう。
物心ついたときには、俺にはすでに何人もメイドがついていた。ナナもその中のひとりで──ほかのメイドと違うのは、歳が俺と同じということだった。ふた昔は年が離れているメイドばかりに囲まれ、俺が寂しがっているとでも親は思ったのだろうか。
緑の庭園で、メイドたちの目の届く範囲でボールを蹴ったり投げたりしている俺に、幼いながら黒いワンピースに白いエプロンという由緒正しいメイドスタイルをしたナナは、いつもそう言いながら駆け寄ってきた。
でも、彼女とは結局一度も遊ばなかった。いつも近くにいたから。いらいらするほど、そばにいたから。当たり前の存在だったから、遊ぼうと思えばいつでも遊べると──
「……ナナコって、つまんねえ名前」
「七に虹と書くそうですよ。さあ、やはり三十分経ちました。起きてください」
のろのろとベッドを降りながら、唇を噛んだ。
七に虹。昨夜、いらだちながら見つめた冷光がよみがえる。消えていくだけの冷たい光。
そのもろさは、何だか虹の儚さに似ている気がした。そう、そばでいつも光っていた虹。その虹は、遠くに消えて、届かなくなった。
そして俺は初めて、暗闇に残されて初めて、あのいらだちが恋の焦燥だったと気づく。
FIN