「愛してる」なんて言葉は、たまに言われるからいいものなのであって、しょっちゅう言われていたらかなわない。
せめて、それは恋人の私だけに向けられるべきでしょう? なのに、日寿ときたら、いつも軽率に「愛してる」という言葉を使う──私以外の女の子にだって。
そんなわけで、今もまた私は、日寿と彼の浮気相手と、三人でカフェの四人席で話し合いをしている。
並んで座る私と日寿と、それにひとりで向かい合う女の子。話し合いと言っても、周りが振り返るような修羅場でもない。まあ、テーブルの空気は不穏だけど──
女の子は自分がセカンドだと知って泣きそうだし、日寿は普段いそがしい私に会えてにこにこしているし、私はこの状況と煙草が吸えないいらだちで顰めっ面をしている。
みっつ年下の二十四歳の日寿と、同い年くらいの女の子だろうか。ロングをゆるふわにアップでまとめて、服装も生成りのワンピが清楚で、別にこんな男に引っかからなくてもいいように見える。
女の子は自分を落ち着けるように、ホットのほうじ茶ラテを飲んだ。一度、会社の後輩にすすめられて飲んだことがあるけれど、私には理解できない味だった。
「日寿くん、私のこと『愛してる』って言ってくれたのに」
カップを置いた女の子は、涙目でそう言う。またそれを言ったのかと、私はもれそうになったため息を殺す。日寿は首をかたむけ、天パの入った柔らかい茶髪を揺らす。
「それは、愛海ちゃんが『今だけ、嘘でもいいからそう言って』って言ったからだよね」
「それでもっ……」
「じゃあ、あのとき『嫌い』って言えばよかったの? それで僕とホテル行くのをあきらめたの?」
恋人の前で、ずけずけと真実を述べることですね。
そう思いながら、私は無言でブラックコーヒーをすする。十月、温かいドリンクの機会が増えてきた。
まったく、日寿のこの自信は何なのだろう。確かに顔はいいけど。顔は。かわいい。アイドルになれそうな抜群のルックス。でも、こいつってそれだけだ。
「この人より、私のほうが日寿くんのこと好きだよ」
涼しい顔でコーヒーを飲む私を、愛海ちゃんとやらは睨みつけてくる。別に痛くも痒くもなく、おなじみのものなので、もはやいじらしい。
「それはどうかなー」
日寿は相変わらずにこにこしながら、アイスロイヤルミルクティーをストローで吸う。さすがにタピオカは入っていないけど、私よりドリンクに女子力がある。
というか、それはどうかなって、私の気持ちを勝手に測ってうぬぼれやがって。お前が浮気をするたび、私こそ本当はブチ切れそうだ。今だって──
私はカップを受け皿に置いて、「少し」とやっと口を開いた。「ん?」と日寿は私を見る。
「ふたりで話してて」
「えー、嫌だよ」
「煙草吸ってくるだけ」
「梨佳子ちゃん」
「少しだから」
言い置いて席を立つと、バッグを手にして、私は愛海ちゃんを一瞥もせずにテーブルを離れた。
カフェの外に出ると、陽射しはまばゆいけど風が抜けていて、ビルの向こうに秋晴れが広がっている。駅前の大通りに面しているので、車が行き交っていて歩道の往来も多い。
せっかくの日曜日に何やってんだか。そう思いながら、ポケットの煙草とライターを取り出す。「いまどき煙草吸う女子はださいぞ」と親友にも言われるけど、そもそも高校生のときに煙草を分けてきたのはその親友だ。
でもまあ、確かにこうして路傍で煙草を吸っていても、けして良い視線は向けられない。でも、日寿は私が煙草を吸う「堅気じゃない」すがたが好きだとよく言う。
日寿か、と深いため息と煙草の煙を綯い混ぜる。別れたほうがいいんだろうな。もう浮気は何度目なのか、数えてもいない。
私には仕事があるから、三十までには結婚出産とか、そういう目標はない。だからって、このまま無神経な日寿とつきあっていても、何も報われやしない。
こんな話し合いに休日をつぶされるのも疲れた。第一、日寿は私のことなんか──
「梨佳子ちゃん」
テノールの声に呼ばれて、私はちらりとそちらを見た。自動ドアを抜けてきたのは日寿だった。彼は私と身長があまり変わらない。
ドアが閉まるのを見てから、私は煙草を口から離した。
「あの子は?」
「泣き出したから、ほったらかしてきた」
「……あっそ」
泣きたいのは私だわ。でも、私は男の前でしくしく泣けるような女じゃない。
「それに、梨佳子ちゃんのほうが気になったし」
くるんと無垢そうな瞳でそう言われて、視線をそらす。
ひと言だ。私たち、別れよう。そう言えば、日寿は思いがけないほどあっさりうなずくのだろう。そしてあの愛海ちゃんとつきあうとは思わないけれど、まあ、また適当に女をたぶらかすんだろうな。
「ねえ──」
私がそう言いかけたとき、日寿は私の腕を引っ張って、背中を抱きしめてきた。私の肩にちょうど日寿の顎が乗る。
「僕が愛してるのは、梨佳子ちゃんだからね」
そして、耳元で、鼓膜に口づけるようにそんな言葉が響く。
……くっそ。愛してる? なんてバカバカしい言葉だ。
頭が痛くて、ため息が出てくる。こいつはそう言えば何でも許されるとでも思っているの?
ふざけんな。言われるほど、腹が立つ。
腹が立ってしょうがない。
それで彼を許してしまう自分に──ほんとに、ほんとに、腹が立つ。
「ね、もうあの子めんどくさいし、このままデートに行こっか」
悪びれずにそう言う日寿に、いよいよ私はため息をつくけれど、「そうだね」なんて答えてしまう。「やったっ」と嬉しそうにした日寿は、背中を放して隣に並び、私をエスコートして歩き出す。こいつ、こういうときの手つきはしっかりしている。
私が賢い女なら、こんな男とはいつか別れるだろう。しかし、煙草を止める学習能力もない私に、果たして日寿を切ることができるのか。
愛してる。その言葉を憎みながら、その言葉に惑わされ、結局バカみたいにつきあっていくのかもしれない。
最悪の魔法だ。煙草をやめられないみたいに、私はきっと日寿を離れられない。どんなに腹を立てながらも、何度だって彼を許してしまう。
愛してる、なんて簡単な呪文で、いつかどこかの女に背後でも刺されそうな、こんな男に中毒しちゃうなんて。ほんと最悪。
煙草を携帯の灰皿につぶす。熱の名残る紫煙が香って、指に絡む。
そう、この煙がないと落ち着かないみたいに、しょせん私は、日寿の「愛してる」がないとダメなのだ。ほかの男に「愛してる」と言われたらいいわけじゃない。
こんな魔法、ほとんど呪いだ。分かっているけど、やめられない──
惚れた弱みだわ、なんて思う私の指先から、秋風がするりと煙たさを奪うと、日寿はその手をつかんで握って、「梨佳子ちゃん、大好き」とやっぱり嬉しそうににっこりした。
FIN