心結び

 中学一年生の初潮が訪れた日、おかあさんとおばあちゃんはお赤飯を炊いた。
 その日の夕食時、「今日は赤飯なのか」とおとうさんとおじいちゃんはめずらしそうにしたものの、「お祝いですからねえ」と言ったおかあさんとおばあちゃんに、こちらを見て「ああ、そうなのか」とふたりとも納得した。
 顔を伏せて、下腹部の鈍痛を憎々しく感じながら、お祝いなんかじゃないと思った。こんなもの、来てほしくなかった。だって、こんなものが来たら、僕はやっぱり女の子じゃないか──
 ふくらんでくる胸が嫌だった。自分の胸を殴りつけ、つぶせないかと思った。かわいらしいブラジャーなんかはつけたくない。精一杯妥協して、ベージュのスポーツブラで胸のふくらみをつぶした。
 筋トレで筋肉がつくようにしても、周りの男子みたいに骨格までは成長しない。丸い肩、くびれる腰、安産型とか言われるとめちゃくちゃムカついた。
 何で。何で僕の軆は、こんなにも女の子として成長していくのだろう。何で股間に生えてくることがないのだろう。脚のあいだからは、ただ毎月、真っ赤な血が流れていく。
 泣きながら下着のナプキンを取り換えた。この軆の中が、どうしようもなく女としてできていることが悔しい。僕のお腹には子宮がある。こんなもの、かきだしてしまいたい。この軆を捨てたい。
 だって、僕は男なんだ。きっと誰も信じてくれないけど、男なんだよ。
 制服のスカートが嫌だ。
 胸の谷間に溜まる汗が気持ち悪い。
 男子の視線に吐きそうだ。
 中学のあいだ、ただひたすら自分を抑圧して過ごした。高校もまた、三年間こんなふうに過ごすのだろうか。そんなふうに思いながら、リビングの座卓で進学先の資料を見ていた僕は手を止めた。
 資料の表紙に、スラックスを穿いている制服すがたの女の子がいたのだ。思わずほかの資料をはらって、それを開いた。
『我が校では女子生徒もスラックスを選択できます』
 制服の案内のところに、確かにそう書いてあった。心臓がどきどきしてくる。
 スカートじゃなくていい。男子と同じようにスラックスを穿ける。
美晴みはる、何を見てるんだい」
 ふとそんな声をかけられてはっとすると、おばあちゃんが隣に腰をおろしていた。「……あ、」と慌ててその資料を隠そうとしたけれど、「どれどれ」とおばあちゃんは僕が凝視していた資料を覗きこんでしまう。
「あらあら、今は女の子もズボンなんだねえ」
「……お、おかしい……よね」
「自分の着たいものを着れるのは大切なことだよ」
 僕はおばあちゃんを見た。それから、「私も似合うかな」とぽつりと訊いてみると、「美晴が着たい制服を着るところを見たいねえ」とおばあちゃんはにっこりした。
「おかあさんたちも、そう思ってくれる?」
「もちろんさ。美晴が決めていいんだよ」
 おばあちゃんが励ましてくれたことで、僕はその夜、おとうさんとおかあさん、おじいちゃんにもその資料の高校に進んで、制服はスラックスがいいと伝えた。
「制服だけでその高校にするのか?」とおとうさんが眉を寄せ、「……スカートは嫌だから」と言うと、「それなら、今はほかにも女の子がスラックスを穿ける高校は増えてるでしょう」とおかあさんが思いがけない情報を口にした。
「仮にズボンを認めてない高校でも、美晴が自分はスカートは嫌だと言ってみてもいいだろう」
「おじいちゃんの言う通りだ。ちゃんと学力も考慮に入れて決めなさい」
 僕はぽかんと家族を見た。もっと、怒られるとか、怪訝そうにされるとか、そんな反応を予想していた。そんなことはないのか。僕がスラックスを穿くことを──いや、スカートを穿きたくないことを、こんなにあっさり受け入れてもらえるなんて。
 そんなわけで、家族も協力してジェンダーレスに理解のある高校を探してくれて、僕は学力にも見合った高校に進むことができた。
 そこには僕以外にも、スラックスをえらんでいる女子生徒がいた。もちろんスカートの女子生徒いる。男子はほとんどスラックスだったけど、何人かスカートの奴もいた。その中のひとりが、悠成ゆうせいだった。
 高校二年生で悠成と同じクラスになった。同じクラスになって知ったけど、悠成はご両親の理解を得て、性別適合手術を段階的に受けていた。確かに肩幅とかにごつさがなく、胸にもふくらみがある。
 僕は思い切って悠成に話しかけて、悠成はびっくりした様子だけど気さくに笑みを返してくれた。顔立ちは特に女っぽいというわけではなかったけど、眉は手入れしてあるし、肌も綺麗だ。僕と悠成はすぐに仲良くなった。
 悠成に初めて、僕は自分の心と軆の違和感を話せた。「どうりで美晴はかっこいいと思った」と悠成は咲って、「悠成はすごくかわいいじゃん」と僕も言うと、悠成ははにかんでうつむいた。
 僕はそれを覗きこんで、そっとキスをした。目を開いた悠成に「嫌だったかな」と僕が視線を下げると、悠成は首を横に振って「初めてがちゃんと男の子で嬉しい」と言った。その言葉に、僕の心は一気に奪われた。
 僕と悠成は、自然とつきあうようになった。悠成のご両親も温かく僕を受け入れてくれた。「美晴くんは手術とか考えないのかい?」とおじさんに問われて、「家族、何も知らないから……」と僕はうつむく。
 すると、悠成のご両親は悠成の心が女性であることには昔から気づいていた話をしてくれた。「この子から話してくれるのを待っていて、それが小学六年生のときだったかしら」とおばさんは懐かしそうに語る。「怖くなかった?」と僕に問われた悠成は、「卒業式に親友に告白したら、気持ち悪いって振られちゃって」と悠成は哀しそうに微笑む。
「死のうと思った。でも、『死ぬくらいなら何でも受け止める』っておとうさんが言ってくれて、全部話したら、『そのことは知ってたよ』っておかあさんも」
 その話を聞いてから、家族は僕が男だと受け入れてくれるだろうかと考えはじめた。考えつつも、言えないまま高校を卒業した。
 大学に入学しても、悠成とのつきあいは穏やかに続いた。悠成は手術を終えてすっかり女の子で、名前も「ハルカ」とみんなに呼ばれるようになっていた。胸はさらしでつぶしてシャツにジーンズの僕も、男だと思われるまま大学では「セイ」と呼ばれていた。
 二十歳になった冬、両親が晴れ着のレンタルカタログを僕に見せて「本当は買ってあげたいんだけど」と謝った。
 僕は色鮮やかな振袖のページを見つめて、首を横に振った。
「このページだけじゃないから、ゆっくり考えて」
「……そうじゃない」
「何だ、やっぱり買ってほしいのか?」
「違う。……す、スーツじゃダメかな」
「スーツ?」と両親は顔を見合わせた。
「そりゃあ礼服だろうが、せっかくなら──」
「そうじゃない。男用のスーツが着たい」
 両親だけでなく、同じ座卓でお茶を飲んでいた祖父母もこちらを見た。僕はフードパーカーをぎゅっと握って、「女なのは、二十歳で終わらせたい」と胸をちぎるような緊張を覚えながら言った。
「僕は女じゃない。そんなの軆だけだ。ほんとはずっと、心は、男なんだ」
 リビングが静まり返る。その静けさが苦しくのしかかり、泣きそうになった。でも、僕の涙がこぼれおちる前に、おじいちゃんが沈黙を裂いた。
「ようやっと言ったな」
 僕ははっとおじいちゃんを見た。その隣で、おばあちゃんもにこやかに「これで、一緒に考えていけるねえ」とうなずいた。おかあさんは涙ぐみながら僕を抱きよせ、「よしよし、よく言った」とおとうさんは僕の頭をぽんぽんとした。
「苦しかっただろう。おとうさんたちも苦しかったよ。お前の素顔を見ることができなくて」
「本当。でも、これでやっと、おかあさんは美晴のことを息子として支えていいのね?」
 僕は結局、泣き出してしまった。家族は僕を抱きしめてくれた。息子として、僕を抱きとめてくれた。
 それから、やっと家族にハルカのことを紹介したりできた。そしてあっという間に、ハルカの両親とも家族ぐるみで仲良くするようになった。僕はハルカも通っているジェンダークリニックに通いはじめた。診断がおりて、男性ホルモン投与を開始するか主治医に問われて、僕は少し迷った。
 ハルカは女の子だ。しかし、妊娠できることはない。ハルカとの子供は欲しい。それなら、軆はこのままにしておいて、いずれ僕が生むという選択肢は──
「ゆっくり、ハルカさんと考えなさい」
 僕が正直にそのことを相談すると、家族を代表しておとうさんはそう言ってくれた。
「そうだ。じいちゃんもばあちゃんも、まだまだ長生きするからな」
「ひ孫の顔を見せなさいとは言わないけどね、美晴が決めた人生はもっと見たいもの」
 おじいちゃんとおばあちゃんはそう言ってくれて、おかあさんもうなずく。
「おかあさんたちも、美晴が納得した答えを見守るからね」
 僕は家族の顔をひとりひとり見て、うなずいて笑顔になった。
 分からない。まだどうするか分からない。父親である僕が出産すること。やっぱり違うかなとやめておくかもしれない。それも有りだと挑戦するかもしれない。分からないけど、どんな答えでも僕の家族は味方でいてくれる。
 ああ、おとうさんもおかあさんも。おじいちゃんもおばあちゃんも。いつまでも僕のそばにいてほしいなんてダメかな。叶わない望みかな。それでも、僕はみんながこうして僕を理解して、愛して、受け入れてくれることが心強い。
 ずっと、いつまでも、みんなに僕のかたわらにいてもらうこと。それがわがままなら、せめて健やかに、長く、長く──
 必ず僕は、みんなに息子でよかったと思われるように生きていくから。

 FIN

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