「先生ってさー、あたしのタイプなんだけど」
そんなませた台詞を吐いてにっこりした穏香朋子に、俺は仏頂面で腕を組んだ。
茶髪、ピアス、化粧にアクセサリー、校則違反の塊だ。
でも、まあ、将来有望な美少女だ。この高校一の人気を誇るのは分かる。高校生なんて、まだまだルックスしか見ない。
しかし、俺はもう二十八にもなる、それなりに中身も味わって、結婚だって考えなくてはならない男だ。俺は、二学期一発目の国語の補習のプリントを手に取り、目を眇めた。
「このプリントを見逃したら、つきあってくれるってことか」
「えっ、マジで」
身を乗り出した穏香に俺はにっこりとして、白紙だったプリントを突き返した。
「だったらなおさら、このあとデートがあっても、最後のひとりになったお前の全問正解を待たないとな」
穏香は整えた眉を寄せ、「デート」とつぶやく。俺はプリントをつくえに置いて、くせで眼鏡を押し上げた。
教室には、実際俺と穏香以外残っていない。窓の向こうは残暑の夕暮れで、俺はため息をついてかたわらの席の椅子を引いて座った。
「俺が振られたら、本当にお前のせいだ」
「彼女いんの?」
「関係ないだろ。ほら、さっさと──」
穏香は俺のネクタイに手を伸ばして引っ張った。至近距離の目ににやりとして、穏香はささやいた。
「先生となら、あたし、つきあってもいいよ」
この生意気な女生徒は、先輩、同級生、後輩から、それはフィクションの世界のように告白を受けているらしい。そして、すべてそれを断るのも有名だ。眼鏡に滑った指を、俺は吐息と共にはらった。
「学力のない女に興味はない」
夕焼けに染まる中で、情緒のかけらもなく、穏香の表情はガキっぽくむくれた。俺は眼鏡を正して、顰め面でプリントをしめした。
「さあ、それを早く片づけろ」
穏香はしぶしぶプリントに向き直り、教科書をぱらぱらめくってめちゃくちゃな解答を書く。初めは取り合って解説していたが、ただ時間を引き延ばしているらしいことにうんざりすると、ほとんど俺は答えのようなものを言ってそれを書かせた。
穏香がプリントを完成させた頃には、日も暮れて月が星をまとっていた。
「ご褒美のキスは?」
「帰るぞ」
「ちぇっ、あたしのこと振る男なんて、バカみたい」
「そんなふうに見れるか」
「いいじゃん、教師と生徒」
俺は教壇にあったほかの補習生徒のプリントをまとめ、駆け寄ってきた穏香の頭をその束ではたく。そして教室を出ようとドアをすべらせ──小さな悲鳴と共に胸に頭が飛びこんできて、思わずぎょっとした。
「なっ──」
「あっ、す、すみませんっ」
すぐに体勢を直してぱっとこちらに身を返したのは、穏香と同じセーラー服の女生徒だった。黒髪のショートボブで、名前は確か──
「あれ、穂波、待っててくれたの」
「あ、うん。ごめん」
「んーん。嬉しい。ひとりで帰るの怖かったんだ。先生の助手席には乗れそうにないしさ」
そう、穂波だ。穂波梢子。穏香の親友だった気がする。
派手な穏香とおとなしそうな穂波。女の友情がどう始まるかが、昔から俺にはよく分からない。
「あたし、振られたわ」
「えっ」
「けっこう本気で告ったのにさ」
こちらをじろりとした穏香に、俺を眉根を寄せた。
穂波はそんな俺をちらっとして、「そうなんだ」とうつむいてため息をついた。髪に隠れてはっきりと見えなかったが、そのため息には安堵がこもっているように見えた。
「あー、もう。穂波、今夜なぐさめて」
穏香はそんな穂波の腕に腕を絡め、廊下を引っ張り始める。
「遊びにいくなら、補導するぞ」
「何指導してくれんの」
「補導だ」
「うっざ。帰ろ、穂波」
「あ、うん。失礼します、先生」
「ああ、気をつけろよ」
頭を下げた穂波には、自分の受け持ちではない引け目と、そのまじめそうな態度に、語調も強くできない。そんな俺がまた癇に障ったのか、穂波と歩きながら穏香はこちらに舌を出した。
やっぱり、ガキだ。でも、そんな穏香と密着してちょっとぎこちない穂波の様子に、教室の明かりを消す俺も、察してしまった。
あの子、穏香が──……
穏香と穂波は、クラスは違うがかなり仲がいいようで、よく一緒に歩いていた。なぜあんな対照的なふたりが、と思っていたが、耳を澄ましているとよくある話が聞こえてきた。穂波はあのおとなしさで、一年のときはイジメに遭っていた。そして穏香はあの奔放さで女子にハブかれていた。
そんなふたりの席が前後になれば、それは仲良くなる切っかけにもなるだろう。穂波をイジメたら、穏香に憧れる男子生徒すべてを敵をまわすことになる。おかげでイジメはなくなり、穏香もやっとできた女友達をわりと大事にしているそうだ。
女友達なんて、穏香は初めてなのだろうか。無邪気に穂波と手をつないだり、ハグをしたりしている。距離感が分かっていない気がするのは、俺が男だからで、女同士では普通のことなのだろうか。でも、穏香にそうされて、穂波は確かに頬を染めたり、わずかに震えたりしている。
穏香、分かってんのかなあ──なんて、空き時間に授業の進行具合を測りながら、職員室で薄いコーヒーをすする。
穂波は、たぶん、穏香に友情以上のものを抱いている。何というか、そっちだろうな、という生徒はもう何人も見てきたので動揺はない。偏見しないが、過度に擁護もしない。その生徒がいる教室では、あんまり男らしくとか女らしくとか語らないようにするだけだ。
でも、穂波は受け持ちの生徒ではない。受け持ちの先生に相談しておいても──と思うが、俺の考えすぎだった場合が、借りるAVはそういう趣味なのかとか思われそうで嬉しくない。
穏香は容赦なく男子生徒に声をかけられ、それは穂波が隣にいるときだったりもする。立ち止まってるあいだの、穂波の不安そうな、苦しそうな目と言ったらない。
でも、その目を穏香に心配されると、その目は潤んで首を振る。にこっとした穏香に、穂波はその笑顔だけでじゅうぶんだと言いたげに幸せそうに微笑む。
本気なんだな、と見守っているだけの俺でも、痛いほど分かった。
穏香は告白されても必ず断る。穏香の態度には不思議とそういう匂いを感じないが、それでもふと考える。もしかしたら、穏香も穂波が──。
でもあいつは、俺に告ったつもりのようだった。いや、そんなものを真に受ける俺がバカか。あのふたりはそういう仲なのか、と思いかけていた頃、廊下で声をかけられて振り返ると、そこにはめずらしくひとりの穂波がいた。
「ん、どうした」
歩み寄りながら笑みを作ったのに、穂波は少しびくついた様子で紺のスカートをつかむ。俺はちょっと鼻白んだが、顔には出さずに首をかたむけた。
「お前のクラスの国語の担当は──」
「穏香のこと、」
「え」
「穏香のこと、どうしてもダメなんですか」
「は?」
「穏香、先生に本気だったのに……あの日から、すごく無理して笑ってる。一番隣にいるから、私は分かる」
「………、」
「男の子は、みんな穏香を見るじゃないですか。だから、先生だって、本当は……」
俺は眼鏡を抑え、天井を仰ぎそうになった。
何だ。この場合、どう言えばいいのだ。本当も何も、俺は穏香に何の興味もない。それを率直に言って、通じるだろうか。面倒だから、架空の彼女でもまた語るか。
口を開こうとしたとき、穂波の思いつめた表情の向こうに、全身が校則違反の塊の女生徒を見つけた。
「穂波?」
穂波ははっと振り返った。駆け寄ってきたのは、穏香だった。まずい、と穏香の怪訝そうな面持ちで俺も感じ取った。
「何してんの、ふたりで」
「あ……、」
口ごもる穂波は、俺を一瞥なんかするから、余計に穏香にいらだたせた。
「どういうことよ」
「わ……私、は」
「あ、あのな、穏香──」
「先公は黙ってろ。何だよ、穂波。あんたもこいつに気があったの?」
「なっ、ないよっ。ただ私、………」
「まさか、何か口出しでもしてたの?」
穂波は黙りこんでうなだれた。その重苦しい沈黙に、穏香は険しく舌打ちすると、俺のことは見もせずにきびすを返して立ち去っていった。
穂波に声をかけなくてはと思ったが、何をどう言えばいいのか分からなかった。穂波は涙さえ流せずに泣いていた。それはまるで、花びらが散る失恋を受けたような表情で──
その顔が、思いがけないほど胸に刺さった。穂波は穏香の隣でいろんな表情を揺蕩わせていたが、そんな表情は絶対になかった。穏香さえ隣にいれば、この子は幸せだったのだ。たとえ、穏香がほかの男──俺のものになっても。それが穏香の幸せなら、ただ、その力になりたくて……
それから、校内で穂波と穏香が喧嘩したらしいといううわさが流れた。俺は気まずい想いでそれを耳にした。教師という立場がさいわいして、俺の名前まで絡むことはなかったが、それでも、きっと俺のせいなのだ。あのふたりの仲を、穂波の幸せを、俺が傷つけた。
いつのまにか夜は涼しくなったので、作業は深夜に涼みながらやるようになった。大した給料ではないから、できるだけエアコン代などケチりたい。でも、そのせいで昼にうつらうつらするようになり、体調も良くなくて、保健室でおふくろのような医務の先生に説教を受ける日々が続いていた。
それでもやっぱり、深夜のほうが作業がはかどるもので、その日は頭がどうも痛く、また怒られるのを承知で保健室に行った。すると、そこには医務の先生はおらず、だが鍵が開いていて──穂波がベッドに横たわっていた。
今は授業中だ。穂波はサボるような生徒ではないから、この子も具合が悪いのか。
ゆっくりベッドサイドに歩み寄ると、白いうなじをまだ強い窓から陽射しにさらして、蒼白い頬で眠っていた。伏せた睫毛は穏香のように長くはないが、それでも目元に影を作っている。柔らかな寝息をこぼす唇は、目を引く色はなくても瑞々しい。
しばらく、その寝顔を見つめていた。まだ幼い。たぶん穢れも知らない少女だ。
俺は、探りたくなる中身のある女を見なくてはならない年齢の男だ。だから、こんなに、引き寄せられるのはおかしい。身をかがめるのはおかしい。唇を重ねるのは──
「先生」
我に返って保健室の入口を見た。そこにいたのは、医務の先生ではなかったが、ある意味もっと厄介な奴だった。
「穏香」
「……そういうこと」
「えっ」
「先生は穂波なんだ」
つかつかと近づいてくる穏香に、授業中だとかくだらない注意もよぎったが、声が出ない。
「バカじゃん、あたし」
「っ……」
「まあ、いい子だよね、穂波」
「違、」
「でも、あげないよ」
穏香は俺を押しのけた。ちょっと眼鏡がずれるくらいの強さに狼狽えていると、穏香はベッドに片膝を載せて、穂波におおいかぶさった。そして、そのきしみにうめいた穂波に、ためらいなく口づけた。
俺も穂波もぽかんと目を開く。唇を離した穏香は、茫然とする穂波に、しっとり、艶然と微笑んだ。
「仲直り、ね」
──そのあと、ふたりがどうなったか、俺は知らない。表面上は変わらなかった。やっぱり、穏香は穂波の手を握ったりハグをしたりしている。穂波はうつむいて瞳を揺らしている。けれど、その手を握り返したり、服の裾をつかんだりしているから……
残暑に垣間見た、少女たちの絆。
たとえば、遊糸のように。雨粒でもろく光っていた蜘蛛の糸のように。
その真実はもう溶けて見えなくなったのに、ただその光だけが残像して、まだ、俺の心から消えない。
FIN