僕の通う小学校の屋上には、出る、といううわさがある。
高いフェンスに囲まれ、出入り自由なそこは、いつも風が響くばかりで誰もいない。
幽霊なんて、みんな信じていない。それでも、その屋上で昔、男子生徒が自殺したのは事実らしい。どうしても行き来しなくてはならないところでもないし、やはり普段そこは、だだっ広い灰色のコンクリートにかすれている。
当時五年生だった男子生徒は、内気で口べたで、イジメというより外されていた。ひとりぼっちで、遺書も何も残さず、ふらりと飛び降りた。
その虚ろな怨念がこの屋上に染みついて、すでに踏み切ったのに気づかず、いまだに飛び降りるかどうかを迷っているらしい。
屋上にはときおり、物好きな生徒が悪戯にやってくる。彼を呼び出す方法なんていうのもあるからだ。
それは、放課後の十六時台に、屋上で虚空にむかって、「一緒に帰ろう」と三回呼びかけるというものだ。彼は自分から声をかけられないので、そんなふうに誘われると、すぐ現れて、呼び出した者とあの世へ帰るとか──
そんな場所に、僕はいつもいる。誰もいないところにいたい僕には、めったに人が近づかないここは、打ってつけの穴場だ。
学校には来れても、教室には行けない。そんな僕は、うわさ話に埋もれたこの屋上で、一緒に埋もれている。
別室登校のひとつになるのだろうか。僕は五年生の初めに教室を脱落した。
勉強はできたけど、集団行動性が腐っていて、みんなと同じにできなかった。落ちこぼれるというより、浮いていて、教室がいたたまれなくていくのをやめた。それからしばらく、校舎の隅の物置に登校し、勝手に屋上登校に切り替えている。
ずんと重い脚を引きずって、九時過ぎに学校に到着する。一時間目はとうに始まっていて、校舎は静かだ。誰もいない階段を登って、四階の屋上に来て、空を眺めたり風を聴いたりする。勉強はせず、誰にも遭わないうちに放課後前の授業中に帰る。
雨の日は学校に行かない。十月に入って数日目の今日は、昨日までの雷雨をさっぱり切りあげていて、僕は登校することにした。
この学校には校舎がふたつあり、本館の屋上はチャイムを鳴らす時計台に備えて立入禁止だ。僕がいつも来るのは、別館の屋上だった。
教室十個分くらいの距離が、すごく広い。こんなところにひとりきりなんて、気が遠くなりそうだけど、教室での孤独感よりずっといい。
ここなら、空や風になじむことができる。人がいる中で浮くより、空間になじめるほうがまだよかった。
フェンス沿いのコンクリートに座り、一日、微睡んで何もしない。この高いフェンスは、例の投身事件で取りつけられたという。
その先の空は、目に染みそうに青く、おりてくる風もなめらかに頬を流れる。定期的な掃除がある場所ではないから、砂ぼこりっぽいときもあるけれど、雑音から遊離していて、校内にしては落ち着ける。
この日も永遠のように遠い時間を過ごし、涼しい風と柔らかな陽射しにうとうとしていた。
はたと目が覚めたのは、敏感な耳が物音を聞きつけたせいだった。慌てて腕時計を見ると、十六時半だ。寝過ごしてしまったらしい。
どうしよう、と焦りつつも、どうやら近づいてきている話し声に、ひとまず出入り口の陰に隠れる。
「あーあ、まさか小川のチームが勝つとは思わなかったな」
「ほんと。変な賭けするんじゃなかった」
「一日召使いになるとかよりマシだけどね。出るわけないもん」
「自殺はほんとなんでしょ。気持ち悪いよ。早く済まそう」
女の子ふたりのようだ。影にスカートがちらついた。
足音は奥へと向かい、まさか、と首をかたむけて覗くと、ポニーテールとセミロングのふたりは、案の定──
一緒に帰ろう。彼は振り返る。一緒に帰ろう。彼はフェンスを降りる。一緒に帰ろう。彼は駆け寄ってきて、目の前に……
生唾もこわばらせ、心臓を息づめる。沈黙がたっぷり張りつめ、そして、笑い声がはじけた。
「出るわけないよねえ」と力を抜いたふたりはあっさり去り、僕は息をついて陰から出た。
広い灰色の空間を、何となく見まわす。かたむきかけた陽に風が抜けるばかりで、何もない。
だけど、彼が本当に来ていないかは分からなかった。
みんなに紛れて、その日は屋上を去った。翌日も晴れだったので登校した僕は、屋上に踏みこみかけて、どきりと足を引いた。
先客がいた。生徒は近づかない、とはいえ、やはり昨日みたいな生徒や、告白やイジメにここを使う生徒もいる。
そんなときは、物陰でぎゅっと気配を消す。待っていれば終わるからだけど、その人は違った。
フェンスの網をつかみ、物静かな空間から沈んだ瞳で校庭を見おろしている。僕はドアの影で待ってみたけれど、彼は一時停止した映像のように、そこでぼんやりしつづけた。
小柄だけどほっそりとして、柔らかそうな髪が秋風に揺れている。頬や手の甲は青ざめそうに白かった。蒸し殺すような今年の夏、ほとんど日に当たらなかったのだろうか。
コンクリートに座っているより時間を長く感じていると、一時間目が終わったチャイムが鳴った。彼は少し顔をあげたものの、網を握りしめて動かない。
二時間目も始まると、僕はドアの影を離れて屋上に踏みこんだ。
「あの」
彼は、はっと肩を打たれたように振り向いた。
中性的な、綺麗な顔だった。警戒と怯えに凝りかたまった瞳は、僕のすがたを認めてふっとやわらぐ。
そして虚ろな静けさを取り戻し、それでも人見知りっぽくとまどいながら、彼は首をかたむける。
「え、と──」
僕もあやふやにためらい、「ごめんなさい」とそろそろと彼のかたわらで立ち止まる。
「驚かせて」
「い、いえ。ぜんぜん。あ、邪魔ですか」
「いえ」
彼の胸元には、“5‐2”の名札があった。彼も僕の胸元を見たが、僕はその教室に属している証拠が嫌で、名札はつけていない。
「同級生だね」
「五年生?」
「うん」
「何組?」
「確か、一組」
「確か」
「普段行ってなくて」
「………、遅刻、したの? 授業始まったよね」
彼の当惑を汲み取って、「不良ではないよ」と僕はわずかに咲う。
「毎日、ここに来てるんだ」
「ここに」
「教室には行きたくなくて」
彼は僕を見つめ、黙って住宅街の景色に向き直った。網に引っかかる手は、粉雪のようにきめ細かい。
「そう、だね」
「えっ」
「ここには、あんまり人来ないもんね」
「………」
「幽霊とか、自殺とか」
「……うん」
「昨日も女の子が来てたよね」
僕は驚いて睫毛をしばたいた。
「見たの?」
「ん、まあ。そんなとこ」
怪訝を滲ませる僕に、「同じクラスの子たちだったんだ」と彼は継ぎ足す。
「賭けの、罰ゲームだったみたい」
「……ふうん」
「何か、可哀想だよね、その幽霊も。遊ばれて」
「……うん」
「『一緒に帰ろう』って声かけられて、嬉しかっただろうにね」
僕は首を曲げて、彼を見る。
しばらく空に浮かんでいた彼の瞳は、ふと僕にはにかんで、もろく微笑んだ。
「同情しちゃうんだ。僕もそうだから」
「そう、って」
「僕も仲間に入れてもらえないんだ。クラスの人、みんな僕が好きじゃないみたい」
僕は彼の結晶のように繊細な見目を見つめる。容姿の整った人間は、羨望される人気者か、嫉妬される落伍者だ。
「で、死んじゃおうかって」
「えっ」
「その幽霊みたいに」
彼の自嘲気味の笑みが、一瞬薄らぎ、眉間に闇の圧迫が表出しかける。
「でも、怖くて」
白い指先が網をつかみ、蒼い頬は硬くおののく。髪だけ、涼風にさらりと揺れていた。
「何で、こんなにひとりぼっちなんだろう。誰もいない」
「生きてたら変わるかもよ」
「いつ変わるのかな。明日って言われても、もう遅いよ」
昨日は残っていた雲もなくなった、高い、空一面の飲みこみそうな青を見る。風がよく通って、すぐにでも溶けこめそうな青だ。
「こんな日は死にたくなる」
僕は彼の虚ろに浮かぶ笑みを向いた。
「空って、ここより僕の居場所っぽい」
彼は骸骨の眼孔のように暗い瞳に僕を映した。
「ただ、最後までひとりなんて嫌で」
彼は僕の手を取る。体温が透けたように冷たい。
「君もひとりなの?」
「……まあ」
「ひとりで死ぬのは嫌なんだ」
「君って、もう死んでるんじゃない?」
「そうかもね。だったら、帰らなくちゃ」
彼は僕の手を引いて、フェンスの段に足をかけた。僕はそのつながれた指先から、彼に感染していくように、抵抗もせずに誘われるまま、網に手をかける。よじのぼって、上が近づくほど、胸がふわりと軽くなる。
そう、僕だって、いっそのこと死にたかった──気づくと、僕たちはフェンスの上にいた。
真下には断崖のごとく、ずんと遠い地上がある。すこし軆がかたむけば、真っ逆様に死ねる。くらくらする浮遊感が肩の調律を狂わせ、僕は彼と顔を合わせた。
「これで全部おしまいだね」
そう言った僕に、彼は微笑してうなずく。そして僕の手を取り直して、ぐらりと軆をかたむけた。途端、肩の力を置き去りに、引力がのしかかって軆がその場をすべりおちる。彼は、僕の手をぎゅっとつかみ──
でも、その握力を僕はすりぬけた。
彼は目を開いた。僕は微笑んだ。引き裂かれた絶叫が落下していく──
僕はすっとフェンスの上に立ち上がると、髪を舞い上げた涼やかな風にたなびくまま、その場をふっと消え失せた。
FIN