月のありか

 月は女の友情に似ている。かたちはうつろい、光は雲に揺らぎ、とにかく不安定で。正直、信頼していいのか分からないとさえ思う。
南帆夏なほかちゃん、また……デート誘っていい?」
 マッチングアプリで知り合った男の子と、二回目のデート。ひとつ年上である星司せいじくんは、別れ際にそう言ってくれた。私がうなずくと、無邪気な笑顔を見せてくれてかわいい。
「また連絡するね」
「うん。僕からも連絡するよ」
 そう言い交わして、私たちは朝に待ち合わせた駅で別れた。改札を抜けて夏の夕映えが射すホームに立つと、次くらいにはつきあうかなあと予測を立てる。とりあえず、つきあう前から家や最寄り駅を訊いてこないのは合格だ。
 電車に乗ってクーラーにひと息つき、最寄り駅に到着すると、駅近のマンションに帰宅した。エントランス前の暗証番号と部屋のオートロックは、ひとり暮らしをするとき両親が出した条件だった。
「暑っつい……」
 ひとりごちながら、カーテンをしゃっと閉めると電気をつける。エアコンはつけっぱなしで出かけたけど、節約で温度を上げておいたので、一気に部屋を冷ましたくてぐっと下げる。それでも軆がべたつくから、シャワーを浴びて汗を流した。
 家に着いたよと星司くんにメッセしようと、バッグに入れたスマホを取り出した。するとLEDが光っていて、すぐにチェックしたけど──「あー」とすぐにテンションの落ちた声が出る。
 ただの柚実ゆみからのメッセだった。一応、中学時代から親友と思っている女の子だ。今年私も柚実も二十四歳で、十年くらいのつきあいになる。
『昨日の夜の合コンで彼氏できたー!』
 そんな報告と共に、ぴょんぴょん浮かれまくったうさぎのスタンプがついていた。またそんな軽率に知り合った男を彼氏にして。そう思ったのは隠し、「おめでとー」と適当に返しておく。
 彼氏か。真っ先に思ったのは、またしばらく疎遠になるかなということだった。
 柚実も私も、恋をすると友情は二の次になる。はっきり言って、かなり粗末にする。それで相手にいらつくときもある。寂しさやひがみだけど。もちろん、この十年間で喧嘩はだいぶした。でも、いつもお互い泣きながら結局仲直りする。
 今回はそういうぶれた感情はなかった。さっきまでデートだった通り、私も彼氏ができる一歩手前だからだ。結局自分の幸せなんだよなあと思いながら、私は星司くんのトークルームに移ってメッセを打ちはじめた。
 私の仕事は、デパ地下のフルーツサンド専門店で咲っておくことだ。ディスプレイケースでは、生クリームから覗く果物がきらきらしている。周りは同じようなお菓子の専門店で、客層はよく来る地元民から海外の観光客までさまざまだ。
「いかがですかー」みたいな往来への声かけやお買い上げ商品の包装など、やることは多い。商品説明やお会計もする。そしてそのあいだも、上品な笑顔を絶やしてはならない。けっこう疲れる。
 でも、星司くんと連絡を取る余力は残す。お盆はおみやげ物色に来る人が多くて目がまわったけど、盆明けに三度目のデートができることになった。
 いい天気だから展望台に行こうと言われたとき、ベタだなあとすぐ感づいたけど、何も分かっていないふりをしてこくりと微笑んだ。展望台直結のレストランで、案の定、交際を申し込まれた。無論私はOKして、その夜は星司くんの部屋に泊まった。
 朝起きると、服を着ていないのにいつのまにかクーラーが入っていて、少し寒かった。軆にバスタオルを巻きつけ、星司くんの寝顔をしばらく眺めた。まばゆい夏の朝陽が当たっているのに、よく眠っている。
 私は寝室を出ると、コーヒーでも飲もうかと思ったものの、キッチンの勝手が何も分からないのであきらめた。リビングのソファに置いていたバッグの中にあったスマホを手にして、私も彼氏ができたと柚実にメッセを送る。
 あの子も彼氏と仲良くやってるでしょ、とすぐスマホをバッグに戻そうとしたら、通話着信がついた。画面を見ると、柚実からだ。こっちからメッセしたとはいえ、何なのよと思いながら応答ボタンをタップする。
「もしもし」
『……メッセ、見たよ』
「そっか」
『彼氏できたの?』
「うん」
『ふうん……』
 あ、これ、地雷を踏んだときの声。もしかして、柚実は彼氏と別れてしまってたのかも。
「えっと──」
『彼氏、優しい?』
「ん、まあ……優しいと思うよ」
『いいなあ……』
「………、柚実の彼氏は違うの?」
『あんまり構ってくれない』
 柚実は、彼氏ができると依存気味になる。それが原因で男と別れたこともあるけど、指摘されるとめちゃくちゃ切れるから、私としてはあまり話題にしたくない。
『もしかして、浮気してるのかも』
 すぐそういうふうに考える。けれど、疑うのはやめなさいなんて言ったら噴火の火の粉は全部こっちに来るから、「そうだったら嫌だよね」と話を合わせておく。
『あたしの彼氏って、いつもこうじゃない?』
「そんなことないよ」
『南帆夏はあたしの歴代彼氏、みんな知ってるでしょ』
「まあ……」
『どう思う?』
「どうって」
『はあ……。あたしはいつもこんななのに、あんたはいつも大事にされてていいよなあ』
「私は痛い目を見たら、そこは学習するし……」
『は? 何それ、あたしが学習してないみたいじゃない』
 してないと思うよ。……とはさすがに言えないので、つい黙ってしまうと「いいよね、賢い人は」と嫌味を残して、柚実は一方的に電話を切った。
 めんどくさい。また喧嘩みたいになってしまった。
 でも、柚実のああいうところは苦手だ。自分より相手が幸福だと許せないというか。そして、自分より相手が不幸でも許せない。最後にはハピエンを迎える悲劇のヒロインでいたいらしい。
 いいや、放っておこう。私も恋が始まったところで、柚実どころではない。
「南帆夏ちゃん……朝飯は?」
 ふと、背中に星司くんのそんな声がかかった。「えっ」と私はスマホをバッグにしまいながら首をかしげる。
「勝手にキッチン使えないから、何も用意してないけど」
「え……だったら、コンビニとかで買ってこればいいのに」
 私は星司くんのびっくりしている顔を見たあと、服を着るために無言で立ち上がる。
 男はこんなふうにロマンティックの欠片もないものだ。分かっているから、これしきどうこう思わない。「じゃあ一緒に朝ごはん作ろっか」なんて言ってくれる男は幻想だし、幻想を見ていたら彼氏はできない。
 柚実はたっぷり男に幻想を見ている感じだけど。我ながら、よくあの子と親友なんかやっているものだ。
 九月になった。日中の猛暑は変わらないけど、朝晩の風は涼しくなった気がする。その夜、私は部屋に星司くんを招いて、一緒に配信中の映画を観ていた。
 あんまりおもしろくないなと思っていると、視界の端でサイレントにしていた私のスマホの画面が点燈した。ちらりと画面を見て、どきっとする。先月、謎の喧嘩をして以来、放置していた柚実の名前が表示されていた。
 今、変なメッセを読んでもやもやしたくはない。放っておこうと思った。けれど、読まなかったら何か気になる。仕方なくスマホを手に取ると、通知バーを引っ張った。
 思わず目を開いてしまった。
『たすけて』
 え……。え?
 何? 助けて?
「スマホ禁止ー」
 星司くんにスマホを取り上げられそうになって、「待って」と私はつい鋭い声を出してしまう。
「何。元彼とか?」
「違うよ、友達。何か、『助けて』って来てて」
「別にいいじゃん。今は僕といるんだからほっとけば」
 そうかも、しれないけど……。
 気になったので、素早く『どした?』とメッセを返した。すぐにつく既読。ついで、ぽんと柚実の返信が表示された。
『かれしになぐられた』
 私は息をのみ、その場を立ち上がった。星司くんが驚いたように私を見上げる。
「南帆夏ちゃん──」
「ごめん、友達やばそうだから」
「え、でも」
「ここオートロックなんで、帰るときはドア閉めてくれたらいいから」
「待ってよ、」
 星司くんにつかまれそうになった手をほどき、私は駆け足で部屋を飛び出した。
『今どこ?』
『あたしのいえ』
 漢字変換もせず返信するのは、いつも柚実が泣いてるとき。柚実は実家のそばのアパートでひとり暮らしだ。中学時代から一緒なのだから、そこは私の地元でもある。
 電車に揺られるあいだも、駅から柚実の部屋まで歩くあいだも、何だかもどかしかった。何とか柚実の家に到着すると、ドアフォンを鳴らした。中で何やらばたばたと音がして、玄関のドアが開く。
 そこには、頬を腫らして涙を流す柚実がいた。
「南帆夏っ……」
「彼氏は? まだいるの?」
「いる」
 いるのかよ。やばい、交番に寄り道してくるべきだった。いや、今からでも──
「ねえ、花純かすみってほんとひどいんだよ」
「花純って彼氏?」
「そう。妊娠させた女の子と結婚するって言ってて──」
 私は眉をゆがめ、ここは柚実の部屋に上がることにした。花純くんとやらは、いらいらした様子で部屋の中を歩きまわっていた。柚実と現れた私を見て、同じく眉をゆがめる。
「誰だよ?」
「柚実の親友だよ。あんた、柚実を殴ったの?」
「………、柚実が悪いんだ」
「は? 殴ったほうが悪いでしょ。妊娠させるほどの本命がいながら、柚実と遊んでたってことだよね?」
「俺の本命は柚実だよ」
「は……あ?」
「でも、妊娠したらそっちと結婚するしかないだろ……」
「だから!」と私の腕に支えられていた柚実が急に声を荒げる。
「あたしが本命なら、その子供、堕ろせばいいじゃんっ」
「ふざけんなっ。ひとりの命なんだぞ!? そういうの言うから、俺は柚実を殴ったんだ。ほら、悪くないだろ」
「いや……待って、あんたはどうしたいわけ? 本命は柚実で、結婚するのは妊娠相手で、よく分かんないんだけど。柚実と別れたいんだよね?」
「それは柚実が可哀想だろ。だから、不倫になるけどそばにいてくれって──」
 ああこれ、最後まで聞く気も起きない。そんなわけで、私は花純くんの頬をばしっと引っぱたいて黙らせた。
「あんたの頭のほうが可哀想だわ」
「何だよっ……だいたい、これは柚実と俺の問題で、」
「言ったでしょ、私は柚実の親友なの! 別れたくないみたいに好きな人に言われたら、不倫なんて地獄なのに断れないに決まってるじゃない。あんたはひとりで責任取りなさいよ。柚実を巻きこまないで」
「でも俺が好きなのは、」
「本気で柚実のことが好きだったら、そもそもほかの女とやらねえんだよっ」
 私のきつい口調の言葉に、柚実が肩を揺らした。ぼろぼろと涙を落としながら、「そうだよ」と柚実は嗚咽をもらす。
「花純があたしのこと大切にしてたら、そもそも……」
「お、おい、」
「全部、南帆夏の言う通りだ」
「柚実っ。お前、彼氏より女友達なんかを信じるのかよ」
「もう彼氏じゃない! だからあたしはあんたの話なんて聞かない。もうおしまいだよ、出ていって」
 柚実は泣きながらもはっきりした声で言った。花純くんは柚実に絶望した目を向け、それから、なぜか憎々しげな眼を私に突き刺してくる。私がそれを強く睨み返していると、花純くんは息をついて「うざ……」と吐いて柚実の家を出ていった。
 私は柚実と向き合おうとした。けれど、ポケットでスマホが震えたことに気づいて取り出す。星司くんからのメッセが届いていた。
『まだ?』
『早く帰ってきてよ』
『僕のことどうでもいいの?』
 既読をつけたことにすぐ気づかれたのか、また着信がつく。
『見てるよね?』
 どう返そうか思案するうち、連投が続く。
『もういいよ』
『別れよう、さよなら』
 私は何とも説明できずに、メッセをそのまま柚実に見せた。柚実は私のスマホの画面を見たあと、「マザコンなの?」と眉を寄せる。私は噴き出しながら、「ほっぺた冷やさないと」とキッチンから持ってきたアイスノンをタオルに包んだ。
 柚実はそれを受け取り、頬を冷やしながら窓辺に座りこんだ。私もその隣に腰を下ろして、ふたりとも失恋したなあなんて思う。
「月……」
「ん?」
「今夜って、中秋の名月だよね」
「え、ああ……そういえば私、お月見しようってことで彼氏に会ってたかも。いや、元彼か」
「あたしもだ」
 私たちは窓から空を見上げた。そこでは満月がきらきら輝いていて、夜空に太陽があるのかと思うほどだった。
「すごい光だね」
「うん。明るい」
 ──欠けたり、満ちたり。新月で光らなかったり、満月でまぶしかったり。本当に、月って不安定で宛てにならない。
 だけど、いつも空にいる。昼間はそっと白く、夜は暗闇を照らして。月は必ずそこにいる。
 やっぱり、月って女の友情みたい。負けたくない敵になったり、心強い味方になったり。距離感が鬱陶しいときも、迷わないように導かれるときもある。そして、何だかんだ親友で、私たちはつながっている。
 しばらく、私たちは月の光を見ていた。ふと柚実が「ビールでも飲むか」と立ち上がった。それに応えるように、「つまみ作ってやるか」と私も立ち上がる。
 窓を開けると、涼しい風が舞いこんでくる。いつのまにか、私たちの瞳の中にも凛とした光が宿っていた。

 FIN

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