romancier obscur

Koromo Tsukinoha Novels

モザイク

 モザイクで隠している。どんな本音があっても。素直になるのは怖い。だって、本当の私なんて──
「俺たち、別れよう」
 大学一年生の夏、つきあいはじめてもうすぐ一年だった。
 クーラーがききすぎるファミレスのテーブルで、樹生いつきくんはドリンクバーしか頼まなくて、私だけ何か頼むのも気が引けて、同じくドリンクバーだけ注文した。昼食時で、本当はけっこうお腹が空いていたのだけど。
 隣の席のカップルが食べるおいしそうなドリアを横目に、烏龍茶を飲んでいると、突然樹生くんは私をまっすぐ見つめて言った。
「……え」
「俺から好きだって言ったのに、悪いけどさ。その、夏香なつかって俺といても楽しくなさそうだし」
 そんなこと、ない。と思っても、狼狽えて言葉にならない。それが余計に樹生くんの語調を強めた。
「俺も、そういう夏香と一緒にいるのが、さすがに疲れた」
 樹生くんを見つめる。でも、その目に目を重ねられそうになると、うつむいてしまう。樹生くんのため息が聞こえた。
 別れる。……そう、だよね。分かっていた。いつかはそう言われるって、分かっていた。
 誰も私なんか目に止めない。昔からそう思っていた。なのに、私はいつだって、どこかで誰かに声をかけられるのを待っていた。
 いいなあ、と思うものがあっても、絶対に自分から手は伸ばさない。あわよくば向こうから転がりこんでくるのを期待して、でも、そんなことはいつも起きなくて──
 だから、いざ人に告白されたときは、びっくりした。
「何か、守ってやりたくなる感じだから」
 樹生くんはそう言って、私の顔を覗きこんた。あ、このままキスしてほしい。けれど、樹生くんは私の瞳を確認しただけだった。私がうなずくと、樹生くんは笑顔になって「すげー嬉しい」と天を仰いだ。
 え、キスは? そう思ったけど──。それが、お互いまだブレザーだった高校三年生の夏の終わりのことだった。
 キスはした。何度か寝た。でも本当は、それよりもっと樹生くんにくっついていたかった。なのに、私はそれを口にできない。キスもなかなか口を開けないし、ベッドでも声を出せない。一度はちきれたら、淫らな私まで樹生くんに知られてしまうのが怖かった。
 そうしたら、きっと言われてしまう。別れたい。離れたくなければないほど、自分をさらせない。大丈夫だ。変なところを見せなければ大丈夫だ。そう思いつつ、いつか言われるとどこかでは覚悟していた。
 別れよう。
 頭の中が冷たくなって、体温が引いていく。平気。平気だ。何度も自分にそう言い聞かせる。私はそう言われる女だって分かっていた。期待なんてしていなかった。むしろ、よく続いたほうだ。指先が震えて、スカートの上で手を握る。
「……やっぱり、何にも言わないんだな」
 視線を上げられない。もう樹生くんの顔を見るのも怖い。
「そういうとこが、実際つきあうときつかった。潔癖なのか分かんないけど、つまんないんだよ」
 潔……癖? 私が貪欲だから嫌になったんじゃないの? どこかの片鱗で、いやらしい私に気づいたから「別れたい」んじゃ──
 樹生くんは席を立った。「最後だし、はらうよ」と伝票を持っていく手だけ、かろうじて視界に映せた。
 取り残されて、あれ、と違和感を覚えた。
 私、間違ってたの? 何にも言わないって。言ったら、それこそ別れていたでしょう? もっとキスして。もっと触れて。もっと抱いて。そんなに求めてばかりいる女なんか、鬱陶しいと思って……唇を噛んでいたのに。樹生くんには、それが間違いだったの?
 ふらふらと炎天下に出た。駅まで五分だけど、そのたった五分で熱中症になりそうな猛暑だった。白光する太陽が肌を焦がし、ゆだった空気が停滞している。ざわめく人も車も陽炎になって溶けそうだ。
 私は周りを見まわし、樹生くんが本当に帰ってしまったことを確認して、重い息をついた。
 私も、男の子って分かんないや。ただでさえ、樹生くんは「おとなしいから守りたい」と思って私に告白した。だとしたら、そのイメージを壊せるわけないじゃない。私がねだって欲しがる女なら、そもそも告白されることもなかったと思う。
 地元に着くと、いつものレンタルショップに寄り道した。チェーンの有名で大きなところではなく、中学時代の友達の親が経営している小さなレンタルショップだ。もちろん流行の新作なんて知ったことではなく、暑苦しい店内に並んでいるのはAVばかりだ。
「振られた」
 その中学時代の友達である留美るみが店番をしていた。適当なDVDをさしだしてそう言うと、浪人生でもある留美は、参考書から顔を上げた。
「マジか」
「私はつまんないんだって」
「ふうん。あんた、素はけっこうくせあるのにね」
「はいはい、AVも官能小説もエロサイトも好きですよ」
「一週間でいい?」
「うん」
 ポイントカードをさしだすと、いまどきスタンプなのだから、本当に古き良きレンタルショップだ。
「ぶっちゃけておいたら?」
「え」
「別れ話されたなら、もう失くすもんないでしょ。どうせだし、思ってること言ってみれば」
 DVDをバッグにしまいながら留美をちらっとして、「そうだね」と私はレンタルショップをあとにした。
 ここの裏手はもともとは山だったそうで、それを切り開いてできたニュータウンが私の暮らす住宅街だ。家は誰もいなかった。両親は共働きだし、弟は高校生で部活を謳歌している。
 それでも私は念のため、部屋のテレビをつけて、ヘッドホンでAVを眺める。
 見てどうということはそんなにない。文学映画と同じだ。よく作られている。女優さんってやっぱすごいよなあとか思う。その声、表情、スタイル。
 やっぱり、ベッドでくらい、素直にこんな声を出せばよかったのかな。女優さんは演じて喘いでいるのかもしれないけど。私はちゃんと、樹生くんに抱かれるととても感じていた。
 思っていること言ってみれば。留美の言葉が思い返る。
 そうだな、と膝を抱えた。もう振られたし、嫌われるかもなんて思わなくていい。すごく好きだったよ。気持ちよかったよ。もっと欲しかったよ。最後に、ちゃんと言っておこうかな。
 AVが終わると、私はスマホを取り出して連絡先を開いた。メッセは読まれずに削除されるかもしれない。電話なら──拒否られてるかな、とも案じたけど、思い切って通話をタップした。
 コール。……出るかな。コール。ほんとはデートだったから家にいるはず。コール。留守電だったらどうしよう。コール──
『──もしもし』
 不意に樹生くんの声が耳に飛びこんできた。肩をこわばらせ、とっさに私は無言電話をしてしまう。
『何?」
「えっ」
『夏香だよな』
 まだ名乗っていないのに。分かるということは、まだ連絡先から削除はされていないのか。
『何か用か?』
「あ、あの……」
 何を、言おう。何を言えばいいの。いや、ただ素直に。素直になる。
「わ……私、樹生くんが思ってるような女じゃないよ?」
『は?』
「ほんとは、私のほうが樹生くんのこと好きだったの。たぶん、知られたら嫌われるくらい、樹生くんが好きだった。もっともっと、一緒にいたかったよ」
『………、』
「樹生くんが、何もしてくれない日は、すごく寂しかった。してくれても、足りなかった。私、もっとめちゃくちゃにされるくらい、してほしかった」
『……夏香、』
「そ、それだけ、振られたなら言っておこうと思って。もう嫌われてるから、こんな女って知られても問題ないし。じゃあ、もう──」
 スマホを耳から離しかけると、『おいっ』と焦ったような声がした。
『ちょっ、ちょっと待て』
「……何?」
『あー……くそ。何だよ』
 樹生くんは息をついて、身じろぐ音をかすかに伝える。
『過去形なのか』
「えっ」
『「好きだった」「してほしかった」ってことは、もう俺は無理なのか』
「……樹生くんのほうが、無理なんでしょ」
『俺、は──』
 沈黙が流れる。いつもの気が散る沈黙ではなかった。離れているのに、何となく、空気がつながっている。
『その……』
「うん」
『すげー、恥ずかしいけど。言うぞ』
「ん、うん」
『今、俺……勃ってる』
「えっ」
『お前にそんな、たまんねえこと言われたら仕方ないだろっ。俺のほうがお前に惚れたんだぞ』
「樹生くん──」
『俺のほうが、好きに決まってんだろ……』
 樹生くんの参ったようなかすれた声に、下肢が甘く疼く。それが分かって、私もごそごそと身動ぎしてしまう。
「ど、どうしよう」
『何だよ』
「私も濡れてきた……」
 私の言葉に、樹生くんは大きく息を吐いた。何やら物音が響いたあと、『今からそっち行く』という言葉がドアを開けるような音に重なる。「別れたのに」と確認すると、『めちゃくちゃにしてやる』と樹生くんは言って、電話は切れた。
 心臓がどくどくと脈打って、よかったのかな、とまだ不安がちらつく。かなり激しいことを言ってしまった。でも、それが私の嘘のない本音だ。
 樹生くんはそれを求めていた。モザイクのかかっていない私を見たいと思ってくれていた。
 スマホを胸に抱くまま床にぱたんと横になって、深く息を吸い、ゆっくり吐く。
 樹生くんにめちゃくちゃにされる。思わずもれる笑みを噛みしめる。早く来てほしい。早く私を乱して。私を深く知って。ねえ、そして、そんな生々しい私を受け入れて──お願い、今すぐに。

FIN

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