ON/OFF

 どちらが大切かなんて、そもそも較べるものでもない。
 親友。その彼女。
 俺にとって、大切なのは親友に決まっている。決まっているのに──
 高校生になって、一年が過ぎようとしていた三月の初めのことだ。俺の親友の伊琴いことは、クラスが変わる前に片想い相手に告白して、OKをもらった。
 俺は伊琴と中学の頃から仲が良く、進んだ高校も同じで、よくつるんでいた。その恋の相談も受けていて、もちろん報告も一番に受け、酒なんか持ちこんで祝ってやった。
 やがて春休みが始まり、晴れて伊琴の彼女になった女を、地元のファーストフードで紹介された。御堂みどう百合音ゆりね。髪の長い淑やかそうな女で、まじめな伊琴は確かに惚れそうだと思った。
 俺の好みはわりとボーイッシュな子が多い。そういうのが女らしい一面を持っていて、それを垣間見て惚れてしまう。ありきたりな好みだと言われても、やはりギャップはいい。
 ──御堂も、ある意味、意外性を持つ女だったのだけど。
 そろそろ邪魔者は消えるかと俺が席を立とうとすると、ふたりきりだと緊張するからもう少し、とふたりして引き留めてきた。「そんなんでつきあっていけんのかよ」と苦笑する俺に、「これからなんだよ」と伊琴は少しだけむくれて言う。
「んー、じゃあ、もう一杯コーラ買ってくるわ」
「Sでいいならおごるぞ。──よかったら、御堂のぶんも買ってくるけど」
「ううん、私はいい」
「そっか。じゃあ、俺もアイスコーヒー買ってくる。お前はコーラな」
「いいのか」
「つきあってもらってる礼くらいさせろ」
 照れ咲い混じりに言った伊琴は席を立って、カウンターへと向かった。
 俺は肩をすくめて椅子にもたれ、斜向かいでソファの座席にいる御堂を見る。そして、どきっとした。御堂の視線が、思いがけずまっすぐ俺に来ていたからだ。
「な、何?」
「タイプ違うね」
「え、ああ──伊琴と?」
「うん」
「まあ、似てたらやりづらいだろ」
「そうかなー」
 何だか予想外な砕けた口調だが、それだけ俺には緊張しないということだろうか。まあ緊張されても困るからいっか、とかたわらのスマホを無造作に確認していると、「連絡先交換できる?」と御堂が言ってきて俺は顔を上げた。
「別にいいけど。俺たち、特に連絡しないんじゃね?」
「これから、話すこともあるかもしれないじゃない」
「……ふうん。まあ、構わないぜ」
「よし」と御堂はスマホを取り出し、俺たちは連絡先を交換した。
「これ、『ユリネ』って読むのか」と訊くと、「キラキラでしょ」と御堂は笑いを噛んだ。その笑みもやんちゃな感じで、イメージと違う。
 と、思っていたが、伊琴が戻ってくるとやっぱりお淑やかな印象の女の子になる。好きな男の前だと女ってそうなるのかな、と俺はスマホのホームを落とし、そういう系のギャップは何となく男としてはなー、と感じながら伊琴からコーラを受け取った。
 交換しただけの連絡先だと思っていた。メッセしようなんて思わなかったし、まさか来るとも思っていなかった。だから、着信に気づいてスマホをタップし、表示された名前の“御堂百合音”が、一瞬誰なのか分からなかった。
『伊琴くんの話いろいろ聞きたいから、今度お茶とかできる?』
 ちなみに俺は、彼女なんてできたことはない。女のことなんか分からない。
 だから、そんな見え見えのメッセを疑いもしなかった。女って詮索好むよな、としか思わず、『おごってくれるなら』などと返してしまった。了解、と返してきた彼女は、なぜかくすくす笑っている気がした。
“お茶”は俺が御堂の地元までおもむいた。待ち合わせの駅前にいた御堂は、このあいだ、伊琴と三人で会ったときと服の趣味も違った。黒のニットのミニワンピースにインディゴのマキシシャツを羽織り、足元はキャメルのブーツを履いている。
「御堂って俺に対してオフ過ぎなくね?」と言うと、「伊琴くんの前の私のほうがオフだよ」と御堂はにっこりした。
「……何かよく分かんねえけど、どっか店──」
「あ、おごるお金がない」
「はっ?」
「だから、私の家に来てくれないかな」
 迷ったものの、地元にまで行っておいて、おごらないなら帰りますというのもずうずうしいではないか。
 御堂の誰もいない家、そして部屋にまで連れこまれ、さすがに俺も「何か伊琴も呼んだほうが」とか言ったりしていた。ドアを閉めた御堂は、白が基調の落ち着いた部屋に突っ立つ俺に俺に駆け寄ると、背伸びして俺の唇に唇を重ねてきた。
 反射的に押し退けていた。
 え。何。何だ。キスか、今の。
 頬が一気に熱くなった。キスってふざけんな。こいつは、御堂は、伊琴の──。
 ベッドに倒れた御堂に何か言おうとして、目を開いた。めくれたミニスカート、白い太腿、そしてシルキーピンクの──
「ここは分かってるみたいだけど」
 御堂の細い指が俺の股間に伸びて、なめらかにかたちをなぞった。不覚にもうめいてしまって、「かわいい」と笑う御堂は明らかに処女じゃない。
 御堂は俺の手を引っ張った。処女じゃないと思うと、なぜか気圧されてしまう。
「何か、君みたいな男の子って、教えてあげたくなるんだよねー」
 そうして、今に至る。口に含まれ、声を聴いて、初めて自分でつらぬいた。信じられないほどの快感だったけど、終わってから細胞を刺すような罪悪感が襲ってきた。
 信じられないほど良かったって、そんなこと信じたくない。何やってんだよ、俺。親友の彼女と初体験とか、そんな泥沼展開いらない。
 御堂は悪びれずに俺に腕まくらをさせていて、目が合うとやっぱりにっこりした。
「童貞卒だね?」
「……お前、状況分かってるよな」
「状況」
「ただの浮気じゃないぞ、これ」
「ただの浮気だよ」
「俺は伊琴の友達なんだぜ」
「じゃなかったら、知り合うこともなかったかもしれないね」
「お前、」
「本気は伊琴くんだからいいじゃん、別に」
「いいわけな──」
 そのとき、聴き憶えのない着信音が流れた。「私だ」と御堂はひょいと起き上がり、ベッドスタンドのスマホをタップした。「もしもし」と耳に当てはじめたから電話らしい。
 俺はため息を殺して、まくらに突っ伏しそうになったが、次の御堂の言葉に一瞬にして硬直した。
「ううん、伊琴くんからの電話ならいつでも嬉しい」
 伊琴──。蒼白になる俺を無視して、御堂は咲いながら伊琴と話しつづける。
 何……だよ。
 さっきまで、俺のものを舐めたり、俺に自分を舐めさせたり。甘えた声で喘いで、動きに合わせてよがっていたくせに。やっぱり、伊琴と話しているとお淑やかだ。
 オフ。伊琴の前ではオフ。ということは、俺の前にいるときの小動物のようなすがたがオンなのか。
 オン──の、ほうが、相手を意識しているということになるはずだ。ということは、御堂が好きなのは……
「御堂って、俺のこと好きなのか?」
「嫌いな人なら部屋にも入れない」
「俺……は、どうすればいいんだ」
「ん?」
「お前のこと、好きになっていいのか?」
「なれるならなってほしいかな」
「……そうか」
 通話を終えたスマホを置いた御堂は、まだ何もまとわぬままベッドサイドに腰かける。起き上がった俺は、その軆を背中から抱き寄せてみた。
 柔らかい。温かい。肌もすべすべだ。胸は豊かなのに、腰は折れそうに細い。ローズっぽい香りが嗅覚に心地よかった。
「じゃあ、俺……このまま御堂を好きになるぜ」
 そんなふうにして、俺は親友の彼女と秘密の関係を持ちはじめた。
 伊琴の前にいるときの御堂には何も刺激されないのに、ふたりきりになるとやんちゃになる彼女に、もともとギャップに弱いのもあってのめりこんでいく自分がいた。
 それに、御堂は言った。伊琴の前ではオフ。俺の前ではオン。それはつまり、伊琴の前では何の意識もしていないということだ。御堂が意識してつきあっているのは俺だ。
 そんな妙な優越感も育ってきた頃、「ちょっと話したいことがある」と伊琴に帰り道を誘われ、内心ぎくりとしつつも、笑顔で一緒に地元まで帰り、例のファーストフードにふたりで立ち寄った。
「御堂とはまだ二ヶ月ぐらいでさ、こういうのすぐ疑うって自分でもどうかと思うんだけど──もしかして、浮気されてる……かも」
 ハンバーガーの包みを開く手が引き攣りそうになった。そんな俺に、「ごめん」となぜか伊琴は謝ってくる。
「最低な相談してごめん。でも、話せるのがお前しかいなくて」
 ……俺、ということには、まだ、気づいていないのか。
「ひどいよな。自分でも思うんだけど、やっぱ、何か……電話とかしてて、向こうに人の気配があるような気がして。でも、御堂は『今ひとりだ』って言うし、それを信じればいいのに──何か、誰かといる気がするんだ」
 御堂は俺といても、伊琴からの電話には遠慮なく出る。だから、その感知は間違っていない。いない、けど──
「か……考えすぎじゃね? 御堂……さんって、浮気って柄じゃないじゃん」
「そうだけど。……そうなのかな。あの人、けっこう活発だから」
「えっ」
「勉強も運動もできて、人気もあるし。でも、俺の前では何かおとなしいから、それで気になってきたんだ」
「そ、そうなのか」
「ベタだけどな。俺に気があるから女らしくすんのかなって、意識もしてくるじゃん。実際はそういうわけでもなかったらしいけど」
「何か、あるのか」
「あんま勝手に話せないけど、御堂って親が放任のくせに、顔合わせると厳しいらしいんだ。だから、明るい自分を作ってるって言ってた」
 ハンバーガーの熱が落ちていくのに、口に持っていけない。
「でも、俺の前では気が抜けるんだってさ。……って、いや、そんなのろけみたいな話じゃなくて、」
「……大丈夫だよ」
「え」
「大丈夫だって! お前なら、……裏切られたり、しないよ」
 笑顔を作る俺に伊琴は首をかしげ、「そうかなあ」と不安がっていたけど、俺に話すだけ話し、励まされるだけ励まされると、やっと元気になってきた。別れ際には、「ちゃんと御堂本人と話し合ってみる」と気丈に微笑んでいた。
 伊琴と別れて、家までひとりで夕暮れを歩きながら、アスファルトに情けない笑みがこぼれた。
 そうだよな。やっと気づいた。飾ってみせる相手。飾らなくていい相手。意識しているのは前者かもしれない。でも、信頼しているのは後者だ。
 そんな簡単なことにも気づけなかった。気づけず、こんなに好きになってしまって、俺はバカだ。
 スマホを取り出した。でも、もう、電話であの飄々とした声を聞くのすらつらい。メッセでひと言、『別れよう』でいい。彼女の中で、俺たちはつきあっているのかも定かではないが。ちゃんと、もう、終わりにしよう。
 御堂がなぜ俺で遊んだのかは分からない。もしかしたら、伊琴を試したかったのかもしれない。だとしたら、俺まではたどりつかずとも何か感づき、しかし逆上せずに御堂本人と話し合うと言った伊琴は大正解だ。
 そんな伊琴を大事にしてほしい。伊琴の前では、御堂は素直に女の子らしくなれる。そんな存在に出逢えたことを、もう、大切にしてほしい。
 引きずられるようにだけど、俺も御堂を好きになった。でも、ダメなのだ。俺の前で、御堂はきっと嘘咲いをしている。それを知ってもなお、隣にいるなんてできない。
 そばにはいられない。彼女の隣にいるのは俺ではない。そして、隣にいるべき男を俺はよく知っていて、彼女を任せることができる。俺さえ身を引けばいい。そうしたら、俺は親友も親友の彼女も尊重することができる。
 おしまいだ。メッセを送信する前に深呼吸する。
 日が静かに落ちていく。オフの時間だ。
 絶対幸せになれよ。そう思って、ひと息にさよならの送信ボタンを押した。

 FIN

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