Koromo Tsukinoha Novels
スマホが震えている音がする。眠っていた俺は眉を寄せて目をこすり、まくらもとのスマホを一瞥する。
ああ、サイレントにして寝るのを忘れていた。また実紅だろう。俺は寝ぼけまなこでバイブするスマホを手にして、サイレントに切り替えようとした。
が、半分眠っている手元のせいで、間違って着信の応答をタップしてしまった。やべ、と思ったものの、『聖斗くん』という実紅の涙声が聞こえてくる。
時刻は午前三時半をまわっている。
『ごめんね、寝てたよね。でも、私、今すごくつらいの。どうしたらいい? もう死んだほうがいいかな。手首切ったけど、それでもダメなの』
ぼやけた頭に、マシンガンのように実紅は嗚咽混じりの声を発砲する。俺はため息ひとつすら押し殺し、「そんな、死んだりしなくていいよ」と何とか眠たいなりにろれつをまわす。
「手首切ったのか?」
『うん……切らないと頭がおかしくなりそうで』
「実紅が切ったら、俺もつらいって忘れた?」
『忘れてないよ! だから、切る前にも通話かけたよ。聖斗くん、出てくれなかったじゃない』
「寝てたよ……」
『そのとき、零時にもなってなかったよ? ほんとは起きてたでしょ?』
「夜番終わって帰ってきて、そのまま寝たんだ。ごめん」
『嘘だよ。それから私、ずっと通話かけてるもん。気づかないわけがないよ』
「実紅」
『誰かといたの? 今、ほんとにひとりなの?』
「ひとりだよ。なあ、まずは切ったとこ手当てして。それから、薬も飲んで──」
『今、薬残ってないの。こないだ全部飲んだから』
さすがに小さくこぼれたため息に、『私のことうざいと思ってるんでしょ』と実紅の声が昂ってくる。
『じゃあ私なんか死ねばいいよね。聖斗くんにうざいと思われるくらいならもう死ぬ。死んだほうがいい』
「実紅、落ち着いて。俺はちゃんと実紅のそばにいるから」
『じゃあ、何で今、私の部屋まで来てくれないの? すぐ行くからってどうして言ってくれないの? そこにほかの女がいるから、置いていけないんでしょ。もうやだよ。死にたい。遺書に聖斗くんのこと書くから。聖斗くんが私を裏切ったって書くから。それで、私が死んでから全部知られて、後悔すればいいよ!』
いきなり通話が切れて、俺はやっと大きな吐息をついた。
何なんだよ。どんだけの地雷女だ。だいたい、俺たちはつきあっているわけでもない。「マジで死ねるなら死ねばいいじゃん」とつぶやいて、俺は今度こそサイレントにするとふとんをかぶり直した。
まもなく、着信がついたのか暗い部屋で画面だけ灯ったのが視界の端に映った。無視して眠った。
実紅は俺が初めて行ったキャバクラにいた女の子だ。かわいかったのは認める。口説いたのも認める。あわよくばホテルに連れこみたかったのも認める。そしてそれを全部達成したら、もうどうでもよくなったのも認める。
しかし、その頃になると、実紅は少しずつかわいいだけの女の子じゃないことを露出してきた。会うと頻繁に薬を口に投げ、手首にはときおり包帯が巻かれ、異常な数の着信を残してくる。
「切るとね、落ち着くの」
何で自分のこと傷つけちゃうの、と俺がやんわり自傷をとがめたとき、実紅は包帯を撫でながら言った。
「私ね、泣けないの。自分のために涙が出ないの。だから、切って吐き出すの。そうしないと、ぐちゃぐちゃした感情で頭がおかしくなる。血が自分の中から流れ出して、それが痛くて、痛さにほっとする。痛みでしか、生きてることが分からないの」
でも俺は実紅が切るのはつらいな、と言うと、実紅はうるうる濡れた瞳で俺を見た。「ほんとに?」と言われて、うなずくと「じゃあ……がんばって、我慢してみるね」と実紅はちょっとだけ微笑んだ。俺はそんな実紅の頭をぽんぽんとしてやった。
でも、実紅は一向に手首を切ることをやめない。
最初は、深夜の着信にも出ていた。突然の長文にも返信していた。しかし、どんどん俺には彼女は無理だと思うようになった。俺には、とてもじゃないけど実紅の支えにはなれない。
そう思ってからは、雑に扱うようになった。せめてブロックしていないのは、実紅がストーカーになったりするのが怖いからだ。この部屋は知られていない、と思うけど、バイト先は知られているから、そこから尾行することはできる。
翌朝、スマホを手に取ると実紅からの着信は三桁になっていた。ぞっとしながら、一応メッセにもざっと目を通すと、送信取り消しも多い中で、今から死ぬとか止めてよとか見捨てないでとか、似たようなことが並んでいた。
『ごめん、昨夜はほんとに眠くて』
大量のメッセにそんなひと言だけ返しておく。スタンプをえらぶ気力がない。
ベッドを這い出て、あくびをしながら朝食のグラノーラを牛乳をかけて食べて、今日も夜番かあと思いながら背伸びする。
天気はよさそうだし、とりあえず洗濯でもするか。そう思って、まわした洗濯物を柔らかくなった春の陽射しの下に干す。
『私がめんどくさいんでしょ。分かってるよ。死ぬから許してね』
実紅からの返信は相変わらずだ。何だかんだ、女の子からの連絡なんて実紅だけなのが寂しい。もっとマシな子いないかなあ、なんて思っていたある日、バイト先の先輩が合コンを持ちかけてきた。「行きます」と俺は即答して、うまいこと、それで知り合った由奈子という女の子と仲良くなった。
快活な感じの由奈子とやりとりするほど、実紅の病み方に嫌気がさしてきた。由奈子は実紅に関する愚痴すら聞いてくれた。「でも、その子と縁切らないと聖斗くんとはつきあえないねえ」なんて言われて、「切ったらつきあってくれるの?」と俺が目を丸くすると、由奈子はYESの代わりににっこりとした。
月並みだけど、その笑顔は太陽みたいに感じた。
『週末、俺、バイトないから会う?』
実紅にそんなメッセを送ると、『会いたい』とすぐに返ってきた。そんなわけで、初夏へとうつろってきた日曜日の昼間、実紅とカフェで向かい合った。
デブというほどではないけど、実紅はふっくらしたほうだ。過食もするときがあり、そのたび体重が増えていくのだそうだ。病んでる女ってせめて痩せてると思ってた、とか思いつつ、カスタムしまくった甘そうなドリンクを実紅におごって、俺はアイスコーヒーで済ました。
「俺、今けっこう仲良くしてる女の子がいてさ」
遠まわしに言っても仕方ない。俺は単刀直入に由奈子のことを話して、彼女とつきあいたいから実紅とは今まで通りではいられないことを伝えた。実紅はせっかくのドリンクに手もつけず、俺を見つめて話を聞いていた。
「……そっか。そうなんだね」
実紅は意外なほどあっさりつぶやき、小さくひとりでうなずいた。
「聖斗くん、モテそうだもんね」
「モテるかは分かんないから、その子は大事にしたいよ」
「……大事にするんだ」
「そりゃあな」
「私のことは、大事にしなかったのにね。私のことは愛してくれなかった。私をひとりぼっちにして、ほかの女と幸せになるんだ?」
俺は眉を寄せ、「実紅にはもっと受け止めてくれる男がいるよ」と言いかけたけど、「いないよ!」と食い気味に反論される。
「私のこと、何でみんな見捨てるの? 愛してくれないの? 私が死ぬのが、そんなにどうでもいいの? もうやだ。死にたい。消えてなくなりたい」
俺はため息をついてコーヒーを飲んだ。味がしない。
実紅は小さく呼吸を喘がせながら、「私を見捨てるなら、もう私を殺してよ」とこちらを睨みつけてきた。俺はうんざりした面持ちを表わし、「お前さ、そういうとこだし」と苦言する。
「もっと実紅が普通の女の子だったら、俺だって……」
「普通でいられたらよかったよ! そんなの私が一番思ってる。でも無理なの、もう、頭の中が壊れそうだし、耐えられないの。自分の気持ちに耐えられないの」
実紅はバッグから細身のカッターを取り出した。愛用らしい血痕がべったりこびりついたカッターだ。
「実紅」と俺はそれを止めようと実紅の左手首を覆うようにつかんだ。すると、カッターを持つ実紅の右手は素早くかちっと刃を剥き出し、俺の手の甲を切りつけた。
「痛っ……」
「痛いでしょ?」
「何すんだよ、」
「いっぱい痛くしてあげるから」
「お前な──」
「そしたら、聖斗くんの気持ちもクリアになる」
「ふざけんなっ」
「余計なものが流れて、私のそばにいるって言ってくれたときに戻るから」
脱線したような瞳で、実紅は俺の半袖の腕まで切りつけはじめた。「実紅!」と俺が怒鳴ったせいで、周りの客がそれに気づいて悲鳴を上げた。でも、実紅は何も聞こえていないみたいに俺を腕をざくざくと切る。
痛い。くそ。マジで痛てえな。ただ痛いだけだ。こんなので気が晴れるこの女は、やっぱりおかしい。
白いテーブルにぽたぽたと血が流れていく。
実紅は店員に取り押さえられ、「大丈夫ですか⁉」とほかの店員が俺の血まみれの腕にタオルをあてた。実紅は泣きじゃくり、めちゃくちゃに俺を罵っていた。
警察まで呼ばれてしまい、実紅と俺は別々に連れていかれた。さいわい、警察は俺に理解をしめしてくれて、実紅がストーカーにならないか怖いと正直に伝えると、しばらくパトロールしてくれることになった。
実紅が閉鎖病棟に入院することになったという知らせを聞き、初めてほっとして、しばらく休んでいたバイトにも行けるようになった。
由奈子に連絡を取ると、すぐ会ってくれた。「大変だったね」と由奈子は俺を気遣ってくれた。俺はその日、由奈子に部屋に泊まってくれないかと申し出た。由奈子はうなずき、俺の部屋に来てくれた。
夜になって、由奈子を抱きしめて「エッチしよ?」と甘えると、由奈子は微笑んで服を脱いだ。
俺は目を開いた。その軆には、縛り上げられた痕のような擦り傷がいっぱいあった。
「私ね、好きな人に痛くされるのが好きなの」
俺は由奈子の妖艶な笑みを見た。何だろう。頭の中が、冷たく暗くなっていく感じがする。
何で。何でだよ。女って、何でそんなに「痛み」を欲しがるんだ?
俺には分からない。俺はただ、好きな女の子とは気持ちよくなりたいのに──
彼女たちの痛覚。その痛みへの依存。きっと俺には、いつまでもそれが理解できない。
FIN