私が片想いしてきた宮原先輩に、彼女ができたらしい。
私の同級生で、隣のクラスの野村陽佳さん。卒業をひかえた宮原先輩に、野村さんが告白したのだそうだ。そのうわさを聞いたとき、私以外にも宮原先輩を好きな人っていたんだな、なんてやや失礼なことを思った。
宮原先輩は、モテて有名な人とかではない。どちらかといえば、地味で目立たない。背は高くないし、声は小さいし、かといって、見るからに陰キャというわけでもない、ごく普通の人だ。
入学したばかりの春、教室移動で迷子になっていた私は、人のよさそうなその風貌に任せて、すれ違いざまの宮原先輩に道を訊いた。いきなり声をかけられて宮原先輩は挙動不審だったけど、「音楽室ならこの廊下の突き当たりだけど……」と答えてくれた。私はお礼を言いながら、その先輩の名札をちらりとして、チャイムが鳴る前にと廊下を駆けていった。
改めてお礼を言いたくて、宮原先輩のすがたを探しては目で追っていた。周りに圧されたひかえめな笑顔とか、輪になじみきれずに困っている様子とか、そういうのを見ているうちに、「私には心を開いてほしいな」と好きになっていた。
しかし、なかなか声をかけにいけなかった。たぶん宮原先輩は、いきなり道を訊いてきた新一年生のことなどとっくに忘れている。つまり、私と宮原先輩は、実質何のつながりもない他人だった。
いつか声をかけるつもりだった。仲良くなって、気持ちも伝えられたらと夢見ていた。夢で終わってしまった。全部、野村さんが先にやってしまって、宮原先輩の心までつかんでしまった。
宮原先輩は私を認識することもなく卒業していった。春休みはけっこう落ちこんで過ごした。野村さんは、特別にかわいい女の子ではない。私だってそこまで秀でた女ではなくても、野村さんと同じくらいのレベルではあると思う。
もし私が、野村さんより先に行動していたら? そんなどうしようもないことをもやもや後悔して、腑に落ちなくて死にたくなった。
二年生に進級した新しいクラスに、野村さんがいたので少しどきりとした。眼鏡をかけて、黒髪をおさげにして、紺のブレザーをかっちり着ている。仲良くしゃべっている様子の人はいない。というか、むしろカースト上位の陽キャ軍団に、後ろ指をさされて笑われたりしている。
それから助けたいと思ったわけではない。野村さんに近づけば、卒業した宮原先輩の話を聞けるかもしれないと思ったのだ。昼休み、私がお弁当を一緒に食べないかと声をかけると、野村さんはびっくりした様子で「いいんですか?」とまばたきをした。
「私も一緒に食べる友達、このクラスにいないし」
「そうなんですか。えっと、名前……」
「滝田映美。野村陽佳さんだよね」
「あ、はい」
「よろしく」
「よろしく、お願いします」
たどたどしく頭を下げた野村さんは、確かに宮原先輩と似たようなタイプかもしれないと思った。
私は野村さんの前の席の椅子を借り、同じつくえにお弁当を広げる。野村さんは、すでにひとりで食べはじめていたお弁当に向き直った。
野村さんは、私のことをぜんぜん認識していなかったらしい。私も宮原先輩のことがなければ、野村さんのことなんて知らなかったけど。
一年生のときは隣のクラスだったこと、高校でなかなか友達が作れないこと、そんな話から始めた。そして、一緒にお弁当を食べはじめて一週間、「野村さんって、彼氏がいるって聞いたことあるけど」と切り出すと、「ああ、まあ一応」と野村さんは少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「今年の春に、卒業した先輩」
「そうなんだ。会えてるの?」
「土日とかに。勉強を教えてもらったり」
「どうやって仲良くなったの?」
「委員が同じだったの。図書委員」
「へえ……」
「私、ドジばっかりだったから。それを先輩が助けてくれて」
「頼りになる感じの人?」
「どっちかといえば、優しくて気遣いしてくれる人かな」
「ふうん……」
「滝田さんは、彼氏いないの?」
「んー、まあ。今は」
「じゃあ、あんまり私の彼氏の話とかは……」
「ああ、気にしないで。恋バナ楽しいじゃない? 話してくれていいよ」
「……いいの?」
「うん。聞かせてほしい」
そんなことを言っておいて、私は野村さんから宮原先輩のことをあれこれ聞き出した。今、宮原先輩は大学に通っていること。平日に会えないぶん、土日は一緒に過ごしてくれること。同じ大学に進むために勉強していること。たまにデートもしてくれること。手をつないだだけで、すごくどきどきしていたのに、その別れ際にキスされたこと──
夜、自分の部屋で野村さんの話を思い返した。もちろん嫉妬もあったけど、それ以上に、野村さんを介して恋する宮原先輩を覗き見れることが嬉しかった。
そそがれる視線。手の感触。髪を梳く指。唇に触れる唇。
野村さんがバカみたいにあけすけに語ってくれるから、私はそれらを自分に向けられているような妄想に浸って、ひとりでふわふわした気持ちになった。
野村さんを通して宮原先輩とつきあえているような、そんな錯綜した感覚に浸っていた。しかし、それは長く続かなかった。蝉時雨が降りしきる夏の朝、登校すると野村さんは私を屋上の閉ざされた扉の前まで連れてきて、誰もいないのを確認してから宮原先輩と別れたことを打ち明けてきた。
驚いて理由を問うと、宮原先輩が同じ大学の先輩を好きになって、しかもその人とうまくいったらしい。「陽佳のことは僕から好きになったわけじゃないし、今は自分から好きになった彼女を大事にしたいんだ」と宮原先輩は野村さんに告げたそうだ。
蒸した空気が溜まるそこで、私は泣いている野村さんを見つめてぼんやりしかけた。けれど、はたとして「ひどいね、それ」と同情した声を作って野村さんの肩に手を置く。
野村さんは嗚咽をもらし、「ごめんね、聞いてくれる人が滝田さんしかいなくて」と声をひくつかせた。私は「いいよ、ぜんぜん。聞くよ」と言った。
けれど、どこかでは宮原先輩のそんな話は聞きたくないと思った。浮かれたのろけ話より、ずっとずっと聞きたくない。だって、聞けば私はそれを自分にも投影してしまう。
宮原先輩と野村さんは別れた。つまり、野村さんから宮原先輩の話も聞けなくなる。宮原先輩のことが、いよいよ何も分からなくなる。
ああ、私もあきらめなきゃいけないじゃん。
野村さんに聞いた話の影を自分に落として、一緒に愛されているような気になっていた。いや、分かっている。私は野村さん以下だ。ほんの一瞬つきあうどころか、宮原先輩に存在を認めてもらうことさえできなかった。
好きだったのに。
何にもできなかった。
失恋だなあ、といまさら思った。とっくの昔に、終わっている恋なのに。今ようやくそう思った。
影のままだった。野村さんの後ろで、宮原先輩に気づいてもらえることもなかった。予鈴が鳴っても、野村さんに泣きやむ様子はない。私はうんざりしつつ、まあ私の代わりに光を浴びてくれたから、と野村さんと一緒にその場にしゃがんで、一時間目はサボることにした。
FIN