私は悪い子だった。ずっとずっと、おとうさんにそう言われてきた。
お前はダメだ。役立たずだ。人間のクズにしかなれない。だから、これは親としてお前に罰を与えているしつけだ。
そう言って、おとうさんはまだ保育園の私のお腹を殴り、背中を蹴たくり、頭を踏みつけた。
まるで喉に穴が空いたみたいに喘ぐ呼吸を、唇を噛んでこらえる。殴られたお腹がぐるぐると疼く。背骨はじんじんと炎症みたいに痛む。フローリングに押し潰された顔面には、もう自尊心なんて保っていられない。
おかあさんは、おとうさんのようにしつけをすることはなかったけれど、代わりに幼い私の世話もしなかった。おとうさんのことをとがめるなんてしなかったし、そのあいだ、こちらに目を向けることさえしない。全部、見て見ぬふりだった。
「それ、どーしたの」
保育園が終わってから夕食までの時間が、ゆいいつ私の自由な時間で、私は友達もいたから楽しく遊んだ。でも、ときどき昨夜のしつけが厳しいとふらふらしているときもあって、そういうときはおとなしく休んだ。
その日もベンチに座り、膝に擦り傷ができているのを見つけていると、突然そんな声がかかった。
近所に住む男の子の薫くんだった。「あ」と私は慌ててスカートを引っ張って膝を隠す。薫くんは首をかたむけ、「転んだのか?」とまばたきをする。
「う……うんっ。そう。私、ドジだから」
「幸那、たまに変なとこも怪我してるよな。こないだ、ここに痣があった」
薫くんは自分の首の後ろに触れてから、「治った?」と私の首を覗きこんでくる。
あ。どうしよう。自分では見えないから、治ってるか分からない。たぶん、踏みにじられたときの痣だと思うけど──
「治ってないじゃん」
薫くんはそう言うと、「手当てしないのか」と訊いてくる。
手当て。……でも、これは私が悪い子で、そんな優しいことをされるためのものではなくて。
「してもらえないのか?」
「えっ」
「おかあさんに」
「……あ、うん。言わないし……」
「言わなくても、見てたら気づくだろ」
口ごもってしまうと、薫くんは隣に腰かけて「よーちゃんのこと知ってるか?」と急に話題を変える。
「よーちゃん……は、こないだ引っ越したね」
「そう」
「たまに遊んでたから、寂しいな」
「よーちゃん、じいちゃんとばあちゃんのとこに行ったんだよ」
「そうなんだ。え、おとうさんとおかあさんに何かあったの?」
「逮捕された」
「えっ」
「よーちゃんのこと殴って、ごはんもあげないとかだったから、警察に捕まった」
心臓がざわざわとうごめく。
殴って……いた。私のおとうさんも、私を殴る。でも、それはしつけじゃないの? 警察の人に捕まるようなことなの?
混乱して視線を狼狽えさせていると、「幸那は、大丈夫なのか?」と薫くんが見つめてくる。
大丈夫。
私は、大丈夫──……じゃ、ない。
そう思った瞬間、いきなり涙があふれてきた。おとうさんに何をされても、泣いたことなんてなかったのに。急激に、あのしつけがひどいことで、泣いてもおかしくないことなのだと理解してしまった。
薫くんは私の手を握って、「俺のおとうさんたちに話すか?」と訊いてきた。私は薫くんの瞳を見つめ返し、怖くなって首を横に振った。
「でも」と言われて、「そんなことして、薫くんに何かあったら嫌だよ」と私は流れる涙をぬぐう。薫くんは口をつぐんだものの、「俺は」と私の手をもっと強く握る。体温がじわりと伝わる。
「幸那の味方だから」
「薫くん……」
「忘れんなよ。俺には嘘つかなくていいから」
私はゆらゆら濡れている瞳で薫くんを見つめ、小さくうなずいた。薫くんがほっとしたように微笑んだとき、「かおちゃんがゆきちゃん泣かせてる!」と私たちに気づいた子が声をあげた。
私が慌てて否定しようとすると、「ちょっと話しかけただけなのにさー」とか言って、この場の悪者役を薫くんはかぶってしまう。「女の子には優しくだよー」とか言われながら、薫くんはみんなの中に混じっていった。
私は握られていた手をもう一方の手で包み、味方、という言葉を反芻した。
ひとりじゃないんだ。薫くんの前では、泣いていいんだ。嘘咲いもしなくていいんだ。
そう思うと、ずっと血だまりに沈殿していた心が、わずかに軽くなった気がした。
小学校にあがった。おとうさんのしつけも、おかあさんの見て見ぬふりも変わらなかったけど、私は学校ではなるべく普通の子でいるように気を遣った。服で隠れないところには、痕跡が残らないようにされるようになっていた。
でも、薫くんだけは私の家のことを知っている。だから、薫くんとふたりで下校しているとき、私は家に帰りたくなくて、泣きそうになった。
「大人になったら、幸那のこと、助けるから」
ぐずぐず歩く私に、薫くんはそう言ってくれる。無理だよ、と思っても口にしなかったのは、私もそうであればいいと少しは期待していたからだろうか。
大人になったら。そしたら、何か変わるのかな。
六年生のとき、初潮が来た。お腹がひどく重くて脚のあいだから血が止まらないので、昨日殴られたお腹から出血しているのかもしれないと怖くなった。
病院には連れていってもらえないだろうし、かといって友達にも言えないし、私は薫くんに相談するしかなかった。でも、同い年の男の子の薫くんが詳しく知るはずもなく、「腹の血なら病院行かないとやばいから」と私を押し切っておばさんに私の症状を伝えた。
おばさんは「生理って学校でもう聞いた?」と説明して、ナプキンも用意してくれた。生理は聞いたことがあった。けれど、こんなに吐きそうにお腹が痛くて、出血もここまでするものなの?
そんな疑問もあったけど、おばさんがくれたお薬を飲んで、お腹を温めて休んでいたらちょっと楽になった。「これで赤ちゃんが生める軆になったからね。大人になったね」とおばさんは優しくしてくれて、私はうなずいた。
薫くんは自分が何もできなかったことにしゅんとしていたけれど、「ありがとう、薫くん」と私が声をかけると、顔を上げて「ゆっくりしていけよ」と言ってくれた。
やがて、中学生になった。大人になったね。薫くんのおばさんに言われた通り、胸がふくらんできたり、軆の変化が現れてきた。
おかあさんは、初潮のときもそうだったけど、そういう変化に合わせた助けをしてくれなかった。ナプキンはおかあさんのぶんをそっと盗めばよかったけど、ブラジャーはそうもいかない。
かといって自分のお金もないから、私は毎日少しずつ成長する乳房に、ブラジャーをあてることができなかった。体育の着替えのとき、友達に「ブラまだつけないの?」とびっくりされるから、恥ずかしかった。
夏休みになり、ダメ元でおかあさんにおそるおそる話しかけ、ブラジャーを買うお金が欲しいと言ってみた。そしたら、おかあさんは私の胸元を一瞥して、「おとうさんに訊いてみてから決めます」と言った。
訊いてみる、って。そんなお金にも、おとうさんの許可がいるの? きっと、私にかけるお金なんかないってまたぶたれるだけだ。
二学期には驚かれるより笑われるなあと思っていると、数日後の夕食どき、おとうさんが「かあさんに聞いたぞ」と突然言い出した。
「ブラジャーなんて、本当に必要なのか?」
私はおとうさんの目にびくびくしながらも、「学校で」と消え入りそうな声で言う。
「……みんなには、つけたほうがいいって言われるから」
「そうか。じゃあ、見せてみろ」
「えっ」
「ブラジャーが必要か、胸を見せろ。上半身でいいからはだかになれ」
肩から首までが硬直するのを感じる。
はだかになれ? おとうさんの前で? そんなの──
「見てみないと、必要か分からんだろう」
じゃあいらない、なんて言ったら、わがままを言っただけかと殴られる気がした。おかあさんを見ると、わざとらしく「お茶を淹れてきます」と立ち上がってキッチンに行ってしまう。
私はのろのろと箸を置くと、震えそうな指でTシャツの裾をつかみ、目をつぶってそれを脱いだ。上半身に着ていたのはそれだけだったから、私は息苦しいほど恥辱を覚えながら、上半身をさらす。
おとうさんは、私のふくらみかけた胸をじろじろ見つめてから、「その程度ならまだ必要ないだろう」と吐き捨てた。「でも」と思わず私が言うと、「じゃあ、これから毎日、ブラジャーがいるほどふくらんだかどうか見せるようにしろ」と言った。
毎日? こんなふうに、おとうさんにふくらみかけた胸を見せるの? 何で、そんな、おかしい──
「ブラジャーが欲しいんだろう。文句があるのか」とおとうさんが睨みつけてきたので、私はびくんとすくみ、「……分かりました」と答えるしかなかった。
それからおとうさんは、“検査”と称して、毎日私の胸を観察するようになった。初めは夕食のあとだけだったけど、寝る前やお風呂に入るときにも「見せてみろ」と言われるようになった。
恥ずかしいというより、どんどん気持ち悪くなって、ブラジャーが欲しいなんて言うんじゃなかったと後悔ばかり募った。おとうさんの眼つきに、本能的な嫌悪感を覚えた。夏休みが終わりかける頃になっても、まだブラジャーは買ってもらえていなかった。
殴られていることなら、薫くんに相談できるけど、こんなのは話すこともできない。どうすればいいんだろう。もうブラジャーはいりませんって、土下座したらいいのかな。その頭を踏みつけられておけば、せめてあの辱めるような視線を向けられずにすむのかな。
そんなことを考えるほど泣けてきたけど、やっぱりひとりじゃうまく泣くことができない。
夏休み最後の日、明日には学校が始まるから夜更かしもできないので、私は早めにお風呂に入っていた。おとうさんが仕事から帰宅する前にあがろうと急いでいたのに、ボディソープをふくませたスポンジで軆をこすっていたとき、突然がたっと音がして、浴室のドアが開いた。
「まだ“検査”してないのに、勝手に風呂に入ったのかっ」
声も上げずにすくみあがった私は、思わず身を丸めて、軆を隠してしまった。それが気に障ったらしく、おとうさんは浴室に踏みこむと私の肩を蹴りつけた。
「ちゃんと胸を見せろっ。ブラジャーが欲しいんじゃないのか。買ってやらんぞ!」
何で。何で何で何で。こんなのおかしいよ。
私は顔を上げた。おとうさんの血走った目は怖かった。でも、いらない、と言葉がかろうじて気泡のようにこぼれる。
おとうさんは眉をゆがめた。
「何だと?」
「い……いらないよ、もう。ブラジャーなんて……」
「ふざけるなっ。毎日、お前のはだかなんか見てやったのに、いまさら──」
「いらないっ! そんなの買ってくれなくていい!」
はちきれるように叫んだ途端、おとうさんは私に覆いかぶさろうとしてきた。私は夢中でそれを押し返した。
たぶん、私の力だけでは無理だったけど、床がボディソープの泡で濡れていたから、おとうさんは思っていたより簡単に体勢を崩した。私はその半端な体勢のおとうさんを、さらに強く突き飛ばした。
その拍子、おとうさんは足をすべらせて──湯船にがつんっと頭を打ちつけ、倒れこみ、動かなくなった。
……え?
え?
嘘。
「お、おとう……さん?」
返事はない。代わりに、タイルの床の泡の中に、じわじわと赤いものが混じっていく。おとうさんの後頭部から、生理のときみたいなどす黒い血が広がっていく。
死ん、だ?
私、おとうさんを殺した?
呼吸が、痙攣するように震える。どうしよう。心臓がばくばくと黒い不穏を吐き出す。
私は冷水を浴びたみたいにおののく手で、シャワーを出して、軆にまとわりつく泡だけ流した。白い泡は流れても、赤黒い血はまだまだ止まらない。
浴室を出た。おかあさんは駆けつけてこない。“検査”の最中と思っているから、見にこないのだろう。
私は素早く服を着る。髪はびっしょり濡れたまま、足音を殺して玄関に向かい、靴のかかとは踏みつぶして一気に家を飛び出した。
哀しいくらい澄んだ声で、虫が鳴いている。月はなく、蒸した風が肌にまとわりついてくる。
息が、指が、膝が震える。まばたきのたび、タイルに広がっていった黒血がよぎる。
「ど、どうしたんだよ。髪濡れてんぞ」
夜道を走って私が向かったのは、薫くんの家だった。
インターホンに出たのはおばさんだったけど、玄関を開けたのは薫くんだった。動悸に息をわななかせ、がたがたと震えている私に、薫くんはびっくりした様子で目を開く。
「顔真っ青だし──いや、まあ、あがれよ」
私は心許なくうなずき、薫くんの手をつかんだ。その温かさで、自分の手が血の気なく冷たくなっていることに気づく。
薫くんは私を見つめて、手を握り返すと「話聞くから」と優しく言ってくれた。その声を聞いて、急激に涙があふれてくる。
「幸那」
「……ど、しよう」
「ん?」
「わ、私……殺した、と思う」
「えっ」
「おとうさん、……殺、した」
薫くんは、息をのんだ。私がますます泣き出してしまうと、「とりあえず、部屋行こう」と薫くんは二階の自分の部屋に私を連れていってくれた。そして、うずくまった私の肩にタオルケットをかけ、隣に腰をおろしてくれる。
私は薫くんの手を握ったまま、ブラジャーのことも“検査”のことも話して、お風呂での出来事も話した。「そんなの、幸那は悪くないじゃないか」と薫くんは言ったけど、「でも、おかあさんが見つけたら、私のこと悪く伝えると思う」と私は嗚咽で喉をひくつかせる。
薫くんは私を見つめた。そして、きゅっと手を握りしめると、「逃げるか?」と言った。
「えっ」
「幸那が逃げるなら、俺も一緒に行く」
「逃げ……る」
「絶対守るから」
「……無理、だよ」
「何で? このままじゃ、幸那が逮捕になるんだろ?」
「………、」
「本来逮捕されるのは幸那の親だし、親父さんなんか、死んでよかったじゃないか」
「っ……でも、」
「幸那は悪いことしてないし、ずっと昔から、悪い子でもなかったんだよ」
「薫くん……」
「だから、今すぐ──」
そのときだ。近づいてくるサイレンがあることに気づいた。私も薫くんも顔をこわばらせ、息を止めるように唇を噛む。
……ああ。
ダメだ。
もうおしまいだ。
「薫くん」
薫くんは焦った表情のまま私を見た。私はその顔をじっと見つめて言った。
「私、薫くんが好きだよ」
「……は?」
「ずっと昔から、薫くんだけが支えだったよ。薫くんがいたから、どんなにつらくても生きてこれたんだよ」
「何……で、そんな、今言うんだよっ。そんなの──」
「だって、もう言えないから」
サイレンがこの家の前で止まったのが分かった。
「そんな……、卑怯だよ」
ついで、騒々しくチャイムの連打が聞こえてくる。
「俺も好きなのに」
絞り出すように言いながら、薫くんは涙をこぼした。泣くのはいつも私だったから、薫くんが泣くところは初めて見た。
「こんなときに言うなんて、卑怯だ」
階段を駆け上ってくる、いくつもの足音。「息子さんの部屋は」という厳しい声。「ここですけど──」というおばさんのとまどった声がして、その瞬間、乱暴にドアが開いた。
……ああ、これで私は、悪い子から罪人で。
薫くんの隣にさえいられなくなるんだ。
この人がいつも隣にいたから、生きてこれたのに──
心を千切られるみたい。
でも、最後に心を契れたから。
もうまともな頭では生きていけそうにないけれど、誰かをこんなに愛した人生でよかった。
……そう、これでよかった。
よかったんだよね。
FIN