ちょうど十二月へとカレンダーがめくられた朝だった。節電だとエアコンも切られたオフィスは、冬の香りがただよって冷えきっていた。
かちん、とホチキスをかけながらくしゃみをして、「寒いですね」と私がつぶやくと、「そうですね」と塔塚さんは苦笑してPCのキーボードをたたく。
まだ日は昇っていない。
「また、コーヒー淹れてきましょうか」
「何かもう、人肌が欲しいです」
「奥さんに言ってください」
「えー、けっこう本気なんですけど」
私は息をついて塔塚さんの頭を小突き、ようやくあと少しになった資料をデスクに置いて、「コーヒー淹れてきます」と立ち上がった。
塔塚さんは同期で、秋から同じチームで仕事をしている。
三年前の入社当時から、かっこいいかな、とちょっと思っていたのに、今年の春、後輩のかわいい女の子が寿退職でさらってしまった。結局若い子なんだよね、と何にも伝えなかったのは自分なのだけど、ちよっとふてくされてしまった。
それから、夏に持ち上がったプロジェクトに向けて、秋の初めからこうして一緒に働いている。
明日は大事なプレゼンだ。というのに、まとまりかけたぎりぎりになって、資料の小冊子にミスが見つかった。プレゼン相手の取引先の名前が間違っていたのだ。置換検索で修正できるならよかったけれど、よく出る文字列が間違っていたので、ひとつひとつ検索にかけていくしかなかった。
チームは四人で、みんなでやればそんなにかからない予定だったけど、仲良しチームというわけでもない。四人中二人は塔塚さんひとりに押しつけて帰ってしまって、私だけが印刷から製本作業を手伝っていた。
腕時計を見ると、時刻は午前四時をまわっていた。同じく寒い給湯室でお湯を沸かしながら、その火に手をかざして感覚のない指先を癒す。
この調子なら、始発でいったん部屋に帰れるだろうか。とりあえず、プレゼンが今日ではなくてよかった。徹夜でよれよれのスーツでプレゼンなんて、絶対ダメになる。
それでも、課長が出社したら、チームはとりあえず叱責なんだろうなあと息をついていると、背後でドアの開く音がした。
「猶本さん」
振り返ると、塔塚さんがあくびをしながら入ってくる。
「お疲れ様です。作業──」
「終わりました。冊子の残りも作っときましたよ」
「じゃあ、やっと終わりですか」
「やっと終わりです。あー、つっかれた……」
そう言って、塔塚さんは私の隣のシンクに寄りかかる。
ぐつぐつと水面が泡立ってきて、私は火を止めると、そのお湯でインスタントコーヒーを淹れた。「どうぞ」と塔塚さんにさしだすと、「どうも」と塔塚さんは紙コップに口をつける。
「熱いですよ」
「寒いからいいですよ」
そう言いつつ、熱に舌を出している塔塚さんを見上げた。
やっぱりかっこいいなあ、と思う。
「じゃあ、ちょっとだけ、ご褒美ということで」
そう言った私は、塔塚さんの手を握った。塔塚さんはきょとんと私を見る。
「え──と、」
「人肌です」
塔塚さんは噴き出した。「気に入らないですか」と憮然として言うと、「いえいえ」と塔塚さんは私の手を握り返した。その手の大きさや感触に、少し心臓が跳ねる。
「猶本さんって、タメですよね」
「二十五です」
「タメでその発想がすごいです」
「発想」
「手をつなぐとか。ピュアですね」
「褒めてませんね」
私は自分のぶんのコーヒーを左手で飲む。冷蔵庫が低く唸っている。安っぽいのに濃い香りが湯気と立ちのぼっていく。
「猶本さん」
「はい」
「ちょっとこっちを」
私は顔を上げた。そして目を開いた。コーヒーの味が、コーヒーの味に混ざる。
塔塚さんが、私にキスをしている──
「……ちょっ、」
何とか顔を離すと、塔塚さんは耳元に口を寄せる。
「ご褒美ください」
「っ……」
耳からうなじに吐息がかかって、ちょっとうめいてしまう。その反応に、塔塚さんはくすりと咲った。
「弱いみたいですね、ここ」
「か、揶揄ってるなら切れますよっ」
「揶揄ってないですよ。前から、猶本さんかわいいなあって思ってたんです」
塔塚さんの唇がすうっと首筋をかすめて、小さく声がもれる。
塔塚さんはコーヒーを置いて、私のコーヒーも取り上げて飲み干すと、紙コップは床に投げた。
そして私に覆いかぶさり、もう一度唇に口づけてくる。
「口、開けてください」
私は首を横に振って、押しのけようとするのだけど、やはり力が敵わない。
塔塚さんは左腕を私の腰にまわして抱きしめると、首に舌を這わせてくる。思わず息が痙攣して、「かわいいです」と塔塚さんはささやく。
何で。何でこんなことされてるの? この人、奥さんいるんだよね。遊んでやるってこと?
……遊び。そう、こんなの遊びだ。徹夜でハイになっている遊びだ。大学時代のクラブからの帰り道と同じだ。だったら、別に、何も残らないのだから──
私はヒールのかかとを上げて、塔塚さんの首を腕をまわした。始発まで、ちょっと温まるだけた。
塔塚さんの舌が舌に絡んで、コーヒーの味も溶けていく。密着する腰が微妙にこすれあって、発熱してくる。塔塚さんが私のスーツをはだけさせて、ブラからこぼれた乳房をつかんで刺激してくる。それは電波のように下腹部を通って、核まで響き、自分のほうはとろりと熟したのが分かった。
呼吸がほてっていく。「入れますよ」と塔塚さんが言って、うつろいそうな目でうなずくと、下着をおろされた左脚を持ち上げられて、一瞬冷気が触れた入口に塔塚さんがあてがわれて、軆の中に入りこんできた。
激しい水音とぶつかる肌、お互いの息と声が頭の中を反響する。押し寄せる快感が焦れったく腰に集まって、私は塔塚さんにしがみついた。「いっちゃう」と泳いだ声で言うと、「まだ」と腰の動きが緩んで、でも代わりに深くまで突かれる。
あふれたい感覚が、集中していくのに張りつめてなかなか破裂しない。塔塚さんのかたちが、軆の中でとろけて広がっていく。声が抑えられなくなっていく。
どうしよう。すごく気持ちいい。塔塚さんの軆が、こんなに馴染むなんて──
塔塚さんの腰の動きが早くなって、いっぱいに私の中を塞ぐほど、腫れ上がるのが分かった。波がどんどん激しくなって、ついに白くはじけて──
うめき声と共に塔塚さんは引き抜き、私の内腿に射精した。荒い息が室内を循環する。私はその場に座りこんで、まだ少し軆を引き攣らせた。
「……猶本さん」
塔塚さんを見上げた。塔塚さんは私の隣にどさっと腰をおろした。
「しばらく、続けましょうか」
「え」
「このご褒美」
「……徹夜明けで良かっただけです」
「猶本さんも良かったんですね」
「………、しばらくって」
「しばらくはしばらく」
「ずっとじゃないんですね」
「『ずっと』なら信じます?」
「かえって信じないですね」
「じゃあやっぱり、『しばらく』」
私は塔塚さんを見て、その肩に頭をもたせかけた。「しばらくですよ」と言うと、「しばらく」と何度目か分からない“しばらく”をつぶやいて、塔塚さんは私の肩を抱いた。
それから、塔塚さんとの秘密のつきあいが始まった。
塔塚さんは結婚している。それを分かっていてのつきあいだったけど、それでも幸せだった。
塔塚さんが私の部屋に来て、一緒に食事したり入浴したりする。シングルのベッドで愛し合って、終わると手をつないで仰向けになる。冬のあいだ、少しも寒くなかった。
そんな冬が終わりかけて、春のきざしが見えてきた頃だった。今日は、塔塚さんが部屋に行くとメッセをくれていた。早く帰宅して食事を用意しておこうとさっさと退社すると、しとしとと春雨が降っていた。
折りたたみの傘を開こうとバッグをあさっていると、「あの」と不意に声がかかった。
「少し、お話いいですか?」
水色の傘の下の人に、私は目を開いた。見憶えのある、ちょうど一年くらい前に寿退社した──
徒歩五分ぐらいの駅前まで出て、適当なカフェに入った。店内は暖房がかかっていても、雨で冷えたので、カフェモカはホットにしておいた。
席に着くと、塔塚さんの奥さんはカプチーノにふうっと息を吹きかけた。こくん、と私も香るチョコレート味を飲みこむ。
「さすがに一緒に帰ったりはしてないんですね」
塔塚さんの奥さんは、前置きせずに言った。私も淡々と返した。
「社内の目がありますから」
「否定はされないんですか」
「確信があるから、直接話に来たんじゃないですか」
「そうですね。探偵も使いましたし」
塔塚さんの奥さんをちらりとした。何だかもっと派手な子だった気がするけれど、家庭に収まったせいか、化粧や服のセンス、所作が落ち着いた気がする。
「単刀直入ですけど、別れていただけませんか」
カフェモカをすする。だよな、と睫毛を伏せて、カップをテーブルに置いて冷たい指を溶かす。
「今別れてくださったら、何も要求しません」
「別れなかったら?」
「起訴します。お腹の子のためにも」
思わず目を開いた。塔塚さんの奥さんは、自分のお腹に手を当てた。
「昨日分かりました。主人にも、昨夜話しています」
「じゃあ、私に会いにきていることも?」
「まずはあなたの誠意をお聞きしようと思いまして。別れないとおっしゃるなら、こうして会ったことも主人に話します。たぶん、そうしたら、どのみちあなたたちが終わりますけど」
窓の向こうの静かな雨を見やった。傘がめまぐるしく行き交っている。
小さくため息をつくと、私は塔塚さんの奥さんに、もう一度向き合った。
アパートに帰ると、暖房だけつけて、もう食事も何も用意せずに塔塚さんを待っていた。たぶん来るとは思った。バカな男なら、何事もなかったように私に甘えてくるだろう。あるいは、少しでも知恵のある男なら──
「別れたいと思うんです」
そう、こう言って頭を下げる。雨に湿った上着を脱いで、食事がないことを訝ることもなく、塔塚さんは私と向かい合って言った。
私は下げられた頭を見下ろして、「そうですね」とぽつりと返した。
「私も今日、そのつもりでした」
「えっ──」
「奥様、おめでとうございます」
「えっ、あ──会ったんですか」
「会社の前で、奥様に声をかけられました」
塔塚さんは顔を伏せたけど、その表情が苦くなっているのは察せた。
「どうせ、『しばらく』の関係でしたもんね。終わっていいと思いますよ」
「……んな、」
「さっさと帰ってあげてください。私は平気ですから」
「お……俺はっ、ちゃんと、猶本さんが好きですよっ」
私は眉を寄せた。塔塚さんは顔を上げて、その顔は泣きそうで、私は面食らってしまう。
「ずっと、好きだったのは猶本さんなんですよっ。入社式で見かけてから、ずっと、ずっと、」
「塔塚さ──」
「あきらめようと思って、結婚して、それからやっと振り向いてくれるなんてひどいじゃないですかっ」
「な、……そんなの、何も伝えなかった塔塚さんだって、」
塔塚さんは身を乗り出して、私の唇を塞いだ。押しのけようとしても、あの冬の日以上の力で押し返せない。
塔塚さんは私を床に押し倒すと、スーツを脱いだだけのブラウスの胸をちぎった。
「な、ちょっと、やめっ──」
「最後に。これを最後にしますから」
「そんなこと、」
「猶本さんを憶えていたいんです」
「もう忘れてくださいっ」
「嫌です。ほんとに、こんなことなら告白でも何でもしていればよかったんですよね。でも、あなたに振られるのがどんなに怖かったか分かりますかっ」
ぽた、と雫が頬に落ちる。私は塔塚さんを見上げた。
何で。泣きたいのはこっちなのに。どうして、塔塚さんのほうが──
私はため息をついた。こういう状態の男は止まらないものだ。流されるしかない。塔塚さんの濡れた頬に手を伸ばすと、「最後ですよ」と私はその揺れる目を見つめた。
「猶本さん──」
「ほんとに、次はありませんからね」
塔塚さんは私を抱きしめて、いつも通り耳元から首筋をたどって私の軆を確かめはじめた。
最後。これが最後。そう思うと、私の感覚も敏感になって、でも唇を噛んで声は抑える。「声出してください」と塔塚さんが指先で私の脚のあいだをなぞりながら言う。私は首を横に振った。
「声出すまで、何度もいかせますよ?」
私を覚えた指が、快感を絡め取って集めていく。塔塚さんを睨んで、私は噛みしめる歯を緩めた。すると、塔塚さんが私の脚を広げて顔を埋めてきた。
湿った熱が核を吸って声がもれる。塔塚さんは私の脚のあいだを執拗に攻めて、頭の中を白い光が幾度もよぎって、私は繰り返し達してしまう。
まだつらぬかれていないのが焦れったくて、求めて痙攣しているのが分かる。その入口からの液を塔塚さんは舐めてすくって、湿った音を響かせて指をやっと差しこむ。
「猶本さん、今日大丈夫な日ですか?」
私は息を上げながら塔塚さんを見る。
「……っざけないでください、」
「生でしたいです」
「っ……、中で、出さないなら──」
かちゃかちゃ、とベルトを緩める音がして、入口に当たるのが分かった。「入れますよ」と言われてうなずく。
ぐっと押しつけられた塔塚さんが、狭さを押し広げて入ってくるのが分かって、声が少しちぎれる。私は塔塚さんの背中に腕をまわして、しがみついた。
それから、塔塚さんは何度も何度も私を奥まで突き上げて愛おしんだ。なかなかきゅっと結ばれることなく快楽を彷徨って、やっと絶頂まで満ちたときには、肢体は甘く痺れて動かないほどだった。
塔塚さんが息を切らして隣に倒れこむ。私は首を捻じってそれを見て、その汗に湿った髪に触れた。
「猶本さん……」
「……はい」
「ごめんなさい」
「………、」
「やっぱり……あなたのことが好きです」
「……終わりですよ」
「猶本さんは、俺のこと……」
私は天井を見やった。まだ雨がしめやかに降っている。
「塔塚さんを許さないです」
「………、」
「許しません。ずっと、ずっと」
塔塚さんは私を腕に抱いた。胸の筋肉から、柔らかな汗の匂いがした。私は目を閉じた。
そうだ。私は許さない。こんな勝手な男。こんな意気地のない男。そして、そんな男が愛おしい自分。許さない。許せるものか。
雨音が心を打つ。雨が打ち続ければ、石にだって穴が空く。この許せない気持ちも、いつかは心の空洞になって終わるのだろう。
でもきっと、それまで雨だれは穿ち続ける。晴れることもなく。私の心は、この冷たい春の雨音を忘れない。
FIN