不等辺三角形

 心は彼。軆はもうひとりの彼。
 本命は彼。楽なのはもうひとりの彼。
 私の恋は、ふたりの男によって、不誠実な不等辺三角形をかたちづくっている。
 ピンクの照明で、白いシーツが卑猥に染まっている。その真ん中で由高ゆたかに奥まで突かれ、軆の芯に響く甘い痺れのまま、私は声をもらす。
 汗ばむ由高の首にしがみつき、どんどん収束していく白い感覚に溺れていく。うわずった喘ぎは口づけによってふさがれる。由高は深くまで私を探り、それが動く刺激で、私は指先までくっきりとほてる。
 由高の軆は、私の軆によくなじむ。由高が特別うまいとか、私が特別感じやすいとか、そんなのがなくても、軆を重ねるといつも快楽が剥き出しになる。
 やがて、張りつめていた快感が満ち、こぼれて、あふれるように絶頂が襲ってくる。私が引き攣って中を締めつけ、由高もそこに自分を捻じ込んで声をもらして爆ぜる。
 息を吐いて、引き抜いて、ゴムを剥がすと由高は隣にうつぶせに倒れこんだ。仰向けの私は荒い息で、胸を抑え、まだ燻る芯の切なさに浸る。
 由高はまくらから顔を上げ、茶髪の頭を支えて、シーツに肘をついて私を見下ろした。私は由高と目を合わせる。由高は私の髪をひと房手に取って、指に絡めた。
「俺たち、ほんと相性いいよなー」
「そうだねー」
 悪びれなく流す私に、「ふん」と由高は鼻を鳴らす。
「向こうはどうよ?」
「向こう」
清志せいしくん」
「変わんない」
「やっぱインポじゃね」
「そうならそうで言ってほしい」
 由高は笑って、「淫乱な里帆りほに、インポって耐えられんの?」と私の唇を指先でたどる。私はその手をはらい、「清志なら、そうでも気にしないよ」ときっぱり吐いて起き上がった。
 愛液の残りが、少しシーツにこぼれる。
 ピンクの照明を消すと、室内の淫猥な空気も立ち消える。窓からうっすら白んだ光が射しこむ。照明のスイッチと並ぶデジタル時計を見返ると、午前六時前だ。
「学校行かなきゃ」
「サボれよ」
「試験前に授業サボれない」
「高校生はつらいですねー」
 ふたつ年上で、今年大学生になった由高はけたけた笑って、「俺はもうちょい休んでくわ」とまくらに突っ伏す。
「大学って緩いね」
「レポートやばいよ? 驚きの量だよ?」
「やらなくていいの?」
「んー、かったるい」
 ぬるい奴。
 私はベッドを降りると、かばんからポーチをつかむ。そして裸足で浴室まで歩き、熱いシャワーを頭からざっと浴びる。
 由高は去年、高校で一年生と三年生として出逢った。文化祭のとき、お互い文化委員でクラスを引っ張っていたから、いろいろ協力したり励ましあったりで親しくなった。
 由高には、いろいろ打ち明けて話せる。だから、彼氏のことも自然と相談していた。うなずいて聞いていた由高は、「俺で練習して誘ってみる?」と持ちかけてきた。それを本気にした私も、そうとう焦っていた。だって、私のつきあっている人は──
 ふたりで入れるように広い浴室を出て、白いバスタオルを濡れた手でつかんだ。シャンプーもボディソープも香りが安っぽい。でも、シャワーを浴びずに学校に直行するのも気まずい。軆にタオルを巻いて、洗面台と向かいあってドライヤーで髪を乾かすと、ポーチの中身で淡い化粧を済ます。
 部屋に戻ると、由高はもう眠っていた。本気で大学はすっぽかすらしい。高校時代は熱血なタイプだと思っていたけれど、それは仲間との楽しかったからみたいだ。大学はまだ交遊が広くなく、後輩の私とこんなことをしている。
 下着やハイソックスを身につけ、ブレザーの制服を着る。スカート、ブラウス、ベスト、最後にリボンをきゅっと締める。財布から半額出してベッドスタンドに置くと、私はあくびをしながらホテルを出た。
 由高は卒業して、私は高校二年生になって、一ヶ月が過ぎた。連休も終わり、そろそろ中間考査だ。偏差値の高い高校で、たいして優秀でもない私は、そのレベルに毎日苦労している。それでも、一年の夏休みに入る前からつきあっている彼が成績優秀で、補習してもらってるから覚悟していたよりマシだけど。
 頭の中が、ぱさぱさに乾燥している。眠いときの脳が潤っていない感覚だ。
 初夏の朝の青い空を仰ぐ。風が心地よい温度で抜けていく。日射しはすでにちょっと暑くて、このあいだ制服も夏服に衣替えした。
 ホテル街から駅前に出ると、早朝なのにざわめきが生まれている。通勤のサラリーマン、通学の学生、あるいは、私同様の朝帰りに近い人。それらに混じって、高校の最寄り駅に電車で運ばれ、改札を抜ける。
 そこでは、すらりとした黒髪の眼鏡をかけた人が、私を待っている。
 私の好きな人。心から好きな人。
「清志、おはよ」
 そのへんの男子みたいにスマホなんかいじらず、文庫本を読んでいた清志は、顔を上げて「おはよう」とほんの少し微笑む。
 清志。同じ高校で、この春に二年生から三年生に進級した先輩だ。私が正式につきあっている彼氏。入学式に私が一目惚れした。見かけるたび、よく本を読んでいるから図書室に通ってみたら、計画通り鉢合わせて親しくなれた。
 告白は、梅雨明けした期末考査のあと、私からだった。「少し考えたい」と言われて正直あきらめていたけど、夏休みに入る前に「俺でよければ」と交際を申しこんでくれた。それから、「あのこと」以外では、私たちはうまくいっている。
 私は清志の読んでいた本を覗きこみ、彼がよく読んでいる作家の名前を認める。
「新刊?」
「昨日出たんだ」
「その人、そんなにおもしろいの? 私も読んでみようかな」
「里帆ってこういうの読むの?」
「読まないけど」
 清志はくすりとしてから、かばんに本をしまうと「里帆が好きな本を読みなよ」と歩き出した。私は自然と隣に並び、そのしなやかな手と手をつなぐ。
 つなぐ──けど。
 ここまでだ。清志とは、いつもここまで。
 私は清志とキスをしたことがない。セックスもしたことがない。
 私は清志に抱かれたいと思っている。そうではないのは、清志のほうだ。私は軆まで愛されたいと思っているのに、清志は肉体関係に応えようとしてくれない。
 由高とは軆だけのつながりだ。第一、由高にもほかにつきあっている女がいる。彼とは軆の相性で会っているに過ぎない。
 私が好きなのは清志だ。でも、だからってつきあってこんなにも何もないのは、やっぱりつらい。今、私のシャンプーの匂いが明らかに安っぽいホテルのものでも、清志は気づかないのだろうか。あるいは、気にならない?
 じっと清志を見上げると、「どうかした?」と不思議そうにまばたきされる。私は首を横に振る。髪の匂いがふわっとただよっても、やはり清志は何も触れずに前を向く。
 どうして。気づいてよ。気づいてるなら、やめてくれって言って。そうしたら私、清志だけなのに。由高との関係なんて、すぐ捨てる。
「インポじゃないなら」
 私は放課後、ファミレスで週三回のバイトをしている。由高は大学帰りによくそこに立ち寄り、私をホテルに持っていく。親は私が帰宅しようがしまいが、放任主義でのんきなものだ。
「ホモかな」
 ホテルからデリバリーピザを注文し、ベッドに広げて食べていると、由高はそんなことを言った。私は眉を寄せ、「だったら初めからつきあわないでしょ」と指についたチーズを舐める。
「カムフラージュじゃね」
「………。カムフラならそれでもいいから、とにかく理由を言ってほしい」
「大事にされてるとは考えないのか? 本気だから軽く手え出さないって野郎いるからなー」
「それをね、言葉にしてほしいの。そしたら私もがっつかない」
「言うのが下手なんじゃね?」
 由高はピザに食らいついて、チーズを伸ばす。私はため息をついて、「一度拒否られたしなあ……」とつぶやく。
「『したくない』だっけ?」
「……うん」
「そういう奴もいるけど」
「そういう奴」
「恋愛はするけど、セックスはしない奴」
「何それ、わけ分かんない」
「いろいろいるから。清志くんにしたくない事情あるなら、それごと受け入れるべきかもな」
「じゃあ、事情を言ってよ」と私は堂々巡りな駄々をこねて、ピザをぎゅうっと自分の口に押しこんだ。由高は大きな手でジンジャーエールの缶をつかみ、ごくごくと飲む。そんな行儀の悪い夕食が終わると、ゴミを捨て、私と由高は一緒に浴室に移動する。
 シャワーの中で、ベッドに行く前に手や口で刺激しあって、肌を敏感に磨く。舌を絡めてキスしながら、私は由高を、由高は私を、指でいじって性器を濡らす。由高は私の核をよく知っていて、その日の角度や指圧をすぐ察してイジメる。私は手の中の硬い由高が早く欲しくなってくる。
 失禁しそうに疼く。すごく感じる。でも、もし、これが清志だったら、そうしたらもっと──
 週末は、いつも清志とデートする。いまどき、中学生でもデートはセックスで締めくくると思う。しかし、清志は絶対に手を出さない。至極健全に、夕方にはお別れだ。
「帰りたくない」と言ったことはある。そのとき、清志は困ったように首をかしげ、目をそらして「遅くまでいても、何もしたくないから」と言った。
 したくない。しない、ではなく、したくない。
 何で、と取りつきたかった。あなたがそうだから、私、浮気までしちゃってるんだよ。お願いだから、こんなのやめさせてよ。けれど、そのときはショックが過ぎて、「そっか……」とよろよろとひとりで帰ったっけ。
 清志はいつも、目を合わせてくれない。さらに眼鏡もかけていて、私は清志の瞳をゆっくり味わったことがない。
 その日も、映画館に行くだけでデートは終わりそうだった。シアターの暗がりで、私は清志の横顔を盗み見て、遠いなあと哀しくなった。
 映画が終わったのは十五時過ぎで、夕方までの二時間くらいはカフェでまったりすることにした。よく晴れた週末だったので、カップルも家族連れも親しげなグループもあふれかえっている。「何か食べたい?」と清志に訊かれ、「甘いのがいいなー」と通りにちらほら見かけるカフェに目移りしていた私は、ふと立ち止まりかけた。
 人混みの中に、由高がいた。女と一緒だ。ほとんど同時に、由高も私に気づいた。
 暗黙の了解で、お互いに無視した。
 そう、こんなのは暗黙の了解だ。なのに、不安がこみあげて、清志を見上げてしまう。由高は私に本気じゃない。それが分かっていても、無視されると傷つく。それなのに、彼氏である清志の気持ちがはっきり分からないなんて、私はどうすればいいの?
 清志が、私に本気じゃなかったら?
 私は本当に、清志に想われている?
 私の視線に気づいても、清志は覗き返したりしない。「甘いものならあそこは?」と前方のチョコクロがおいしいカフェをしめす。私はいったんうつむいたけど、それでも、何もなかったようにうなずいた。
 ああ、実は私は、誰にも本気で想ってもらえていない、ひとりぼっちなのかなあ……。
 次に由高に会ったとき、あの日、人混みの中で一瞬目が合ったことなんて話題にも出なかった。ただ由高の肌に触れ、彼が中に分け入ってくることに、ひどく感じた。今は由高がそばにいる。そんな安堵感で快感が乱れ、弾けた刺激に腰を痙攣させた。
 それからしばらく経った放課後、私はいつも通り本を読んでいた清志と靴箱で落ち合って、一緒に下校していた。手はつないでくれている。来週は中間考査で、「図書館で一緒に勉強しようか」と言われて、一緒にいてくれる約束が嬉しくてうなずいた。
 どの科目から手をつけるか相談しつつ、校門にさしかかったときだ。突然、目の前に人影が立ちはだかった。立ち止まって、誰、と顔を上げた私は目を開いた。
 茶髪で、ちょっとだるい私服を着た男──由高だった。
「え、あ……えと、」
 思わず、どんな言葉を出すべきか迷う私に、「里帆の知り合い?」と清志は静かに問うてきた。すると、「知り合いっつーか」と由高が答える。
「先輩。ここ母校だから」
「……じゃあ、俺の先輩でもありますね」
「そうだね、清志くん」
「え、名前──」
「清志くんだよな?」
 平然と私に確認する由高を睨みつけると、由高は噴き出して、私の頭をぽんぽんとした。
「ちょっと話があってさ」
「話って、由高──先輩は、」
 ぎこちなく「先輩」を取ってつける私を無視して、由高は清志ににっこりしてみせた。
「なあ、清志くん」
「はい」
「里帆は俺のかわいい後輩なんだ。幸せにしてやってほしいと思ってるんだよ」
「……はあ」
「なのに、ぼやぼやして幸せにしないようなら──」
 由高は清志にぐいっと顔を寄せて、あっけらかんと笑った。
「盗るよ?」
 私は目を開いて、何か言おうとした。何を清志に喧嘩売ってんだ、こいつ。でも、私が声を発する前に清志がため息をつき、私と手を放すとつぶやいた。
「ご自由に」
 え。
 ……え?
 清志は私に表情を見せないまま、由高の横をすりぬけ、ひとりで制服に混じっていってしまった。
 うそ。
 嘘でしょ、清志──
「ほう」とか言う由高の声で我に返り、私は半泣きで由高を引っぱたこうとした。けれど、簡単に手首を抑えられ、にやにやと泣き顔を覗きこまれる。
「泣くほど好きなのになあ」
「バカ! 何なの、あんた、こういうのは無しでしょ──」
「こないださ」
「もう放してっ、清志行っちゃう、」
「こないだ、すこーし、いらっとした。俺とはデートなんてしないのにさ」
「そんなのっ」
 由高は、軆だけの恋人で。私の心にいるのは──
「俺にすれば楽だぜ?」
 ぎゅっと唇を噛んで由高を見つめた。周りがざわついて、好奇の目を向けてくる。
 由高にすれば。
 そうかもしれない。そうなのかもしれないけど。
 由高の手を振りはらうと、何も言わずに駅まで速足で歩いた。清志のすがたを探しても、制服の群れだから見つからない。改札でやっと立ち止まってきょろきょろしたけど、やっぱりいない。
 視界がじわっと滲む。でも、雫になって落ちるのは必死にこらえて、その日はバイトがなかったから、そのまま地元に帰宅した。
 どうしよう。清志に振られる。別れたくない。最悪だ。いや、いつかこんなことになる危険も知りながら、由高を押しのけなかった私が悪い。それは分かっているけど──
 暗澹とした表情のまま、定期で改札を抜ける。駅の構内を歩いて、いつもの西口から階段を降りた。
 青かった空に橙々が染みこみ、夕暮れが始まろうとしている。明日もどうやら晴れなのに、私の心は黒く暗い。垂れ込める失恋の鈍痛に、ふらふらしながら家まで歩き出そうとしたときだった。
「里帆」
 足を止めた。この落ち着いた声──
 振り返ると、今降りてきた階段から、同じ高校の制服を着た男の子が降りてきた。息を飲む私の目の前で立ち止まったのは、清志だった。
「そこの改札にいたのに、里帆、ぜんぜん気づかなかったな」
 清志はちょっと咲い、私の目の前に立った。清志の穏やかな表情を見つめて、また泣けてくる。
 言われちゃうのかな。ついに終わっちゃうのかな。
 別れよう。あきれた。お前なんか──
 けれど、違った。どれでもなかった。どれでもなく、清志は私の腕を引っ張った。え、と思ったときには、私は初めて清志の胸に抱かれていた。ぽかんとしていると、清志は私を強く抱きしめ、「ごめん」とささやいた。
「あの先輩のことは、前から知ってた」
 胸が不穏に揺れて、軆がこわばる。
「里帆のバイト先で食事した友達に、教えられた。里帆は浮気してるって」
「……あ、」
「俺は──それでも、いいと思ってたんだ」
 私は顔を上げた。いよいよ大粒の涙があふれてくる。
 何で。どうして。私に浮気されたのにいいの? 私が浮気しても平気だっていうの?
「心は俺で、軆はあの先輩で、里帆を満たせるならいいのかなって」
「そ……んな、そんなに、したくないの?」
「………、」
「私としたいと思えない? それとも、そもそも興味がないの? 分かんないよ。清志がどうして求めてくれないのか分からない」
 清志は目を伏せて黙っていた。私は嗚咽をもらし、ほんとに別れたほうがいいのかも、なんて思った。けれど、私がそう感じたのを悟ったかのように、清志は心の内をそっと小さく吐き出してきた。
「……嫌われたく、ないんだ」
「えっ」
「里帆に嫌われたくないんだよ」
 意味が分からなくて、私は眼鏡の奥の清志を見つめた。その瞳は、苦味で傷んでいる。
「俺は……その、気持ち悪い……から」
「……え?」
「言われたんだ。前に。好きだった人に……」
「……好きな人、いるの」
「もう何とも思ってない人だよ。今は里帆が好きだ」
 清志の真剣な瞳に、心が震える。清志は私をもう一度抱きしめた。清志の匂いをこんなに感じるのは初めてだ。
「にいさんの彼女だった。中学生のとき、好きだった。でも、邪魔する気なんてなかった。伝えるつもりもなかった。むしろ隠してるつもりだったんだ。なのに、その人に気持ちがばれてしまって。『だって、目つきが気持ち悪いから』って」
 少し息を飲みこむ。清志の声は、傷ついていてもろかった。
「俺は、目とか顔に、気持ちがすぐ現れるみたいなんだ。だから、眼鏡をかけるようになって。あんまり人と目を合わせないようにして。落ち着きはらって、感情が出ないようにして。里帆とつきあうようになって、いっそう自分を殺した。嫌われないために、……俺ばっかり里帆が好きで、重たいとか思われないように」
 私は身動きし、清志を見上げた。清志の瞳は壊れそうに怯えて、見たこともないほど純粋だった。
 ああ、もう。
 ほんとに、この人は──
 私は泣きながら微笑むと、清志の眼鏡をそっと外した。
「里帆──」
「……綺麗だよ」
「え」
「すごく綺麗な目」
「……でも、」
「気持ち悪いなんて、その人は素直じゃなかっただけ。こんなにどきどきさせる目なんだよ。きっとその人は、彼氏のおにいさんより清志にどきどきする自分のことが嫌だったんだよ」
 清志の瞳はそれでも不安そうだ。私は背伸びして清志に口づけた。清志は肩を揺らしても、突き放さなかった。「私は」と唇を離すと清志の首に抱きつく。
「清志が好きで、その目にこんなにどきどきするのが、幸せ」
「里帆……」
「清志が大好きだよ」
 清志は、私をきつく抱きすくめた。薄い夏服で、体温と感触も伝わってくる。
「帰りたくない」
 私は清志にささやいた。清志は私の髪を撫で、ささやきかえす。
「帰したくない」
 蕩けた心に瞳が濡れたとき、スマホの着信音が鳴った。無視しようとしたけど、「いいよ」と清志は軆を離す。いいとこなのに、と私は顰め面でかばんからスマホを取り出した。
 メッセだ。ポップアップの文章に、思わず噴き出した。
『うまくいったか?
 喧嘩したときは、愚痴だけ聞いてやるよ。』
 それを見せると、「里帆がかわいいのはほんとなんだね」と清志も咲った。そう、由高にはきっと、私は放っておけない後輩だったのだろう。
 私たちは清志の家に向かうため、また電車に乗った。ラッシュは過ぎていたものの、まだ座席は空くほどではなくて、吊り革を持つ清志にかばわれながら扉のそばに立っていた。揺れに合わせて微妙に触れ合う軆がもどかしくて、私は清志にくっつく。すると清志は、私の耳元で低くささやいた。
「……ほんとに、我慢しないよ?」
 私は咲った。かけた眼鏡の奥で、清志の瞳は私を愛おしく映している。好きな人に求めてもらえる。やっと、私の心が清志を通して息づいていく。
 不謹慎な不等辺三角形で、私はずっと心と軆のバランスを取っていた。でも、それは終わりだ。
 私は清志に満たされる。今夜、心も軆も愛される。
 軆の奥が切なく燃える。私は清志にしがみつくと、「全部見せていいよ」と彼の瞳を瞳で飲みこんだ。

 FIN

error: