茜雲

「やった、琴海ことみちゃんっ。クラス同じ!」
 午前九時きっかりに体育館が解放されると、だいたい親が付き添う新入生たちは、靴を脱いで体育館に雪崩れこむ。
 おかあさんたちは保護者席に行ってしまい、私は小学校のときから仲のいい由音ゆねちゃんと、壁に貼り出されたクラス発表をたどる。すると、由音ちゃんが先に私のブレザーを引っ張って声を上げた。
「ほんと? 何組?」
「三組。あ、琴海ちゃんと同じ名字の人がまたいる」
佐藤さとうはねー……。幼稚園のときから必ずいる。席順って出席番号の順だよね」
「うん。琴海ちゃんは十八番だって。私はやっぱり一番だ」
相川あいかわってなかなか破れないよね」
「ね。三組だから三列目かな?」
 由音ちゃんと右から三列目まで行って、『1-3』というラミネートを見つけると、私たちはいったんそこで別れる。前から十八番目の折りたたみ椅子の足元には、小さめの『18』という同じラミネートがあって、ここか、と腰をおろした。
 由音ちゃんと同じクラス。それなら中一のあいだは不安もないな、とほっとしていると、不意に肩を何かにつつかれた。
「えっ──」
「『おこと』じゃね?」
 眉を寄せて、声のした後ろを見た。そこには、私と同じく、まだなじまない真新しいブレザーの男の子がいた。
「あ、やっぱ、お琴だ」
 そう言って、失礼にも噴き出した彼にむっとしながら、お琴、という幼稚園のときのあだ名を言い当てられることに首をかしげる。
 その子の短めの黒髪ややんちゃそうな目、すでにしっかりしている体格を見ていると、私の目に彼は「うわっ」と不意に顰蹙した。
「俺のこと、完全に忘れてるだろ」
「え、まあ、そうだね。誰?」
「クラス発表で俺の名前見てないのかよ。嫌でも気づくだろ」
「幼稚園、同じなの? あおぞら幼稚園?」
「そお。そこで同じ名字の──」
「えっ」と私はようやく身を乗り出した。
「佐藤? 佐藤たっくん?」
「気づくのいきなりだな」
「ほんとに? わあ、元気だった?」
「まあそこそこ。てか、マジで気づいてなかったな」
「だって、たっくんのが番号あとじゃん」
「たっくんやめろ」
「あー、本名何だっけ?」
「お琴って呼び続けてやろうか」
「やめてよ。えー、と、何だっけな……タク何とか?」
たすくだっての」
「あっ、そうだ。タスクくんが面倒で、たっくんだったね」
「お琴なー、いろいろ失礼だぞ」
「お琴ってやだ」
「俺もたっくんやだ」
「佐藤? えー、私も佐藤だし」
「佑でいいよ。お琴は琴海?」
 どきりとする。親以外に名前を呼び捨てにされたのは初めてだった。
 でも、それは表情からなるべく伏せて、「うん」と声がどぎまぎしないように努める。
「この列ってことは同じクラスなんだ」
「だな。ほかにもあおぞらの奴いるかな。そっちの小学校に進んだのって──」
「なっちゃんとかよーちんとか」
「今でも仲いい?」
「同じクラスにならなかったから、あんま話す機会なかった。そっちは?」
「りょーたんと五、六年でけっこう仲よかったけど、引っ越しちまったんだよな」
「そうなんだ。みんな引っ越してくよね」
「なー。まあ、四月のあいだは席も近いだろうし、よろしくな」
 そう言った佑の髪が、扉から光と舞いこんだ風に揺れる。うなずきながらも、なぜか視線をどこにやればいいのかに迷う。
 何、だろう。無邪気に私を映す、佑の瞳に何だか落ち着かない。「あ、始まる」と佑が舞台を指さし、慌てて正面を向いた。
 佐藤佑。そういやいたよな、と改めて思い出す。特別仲が良かったというわけではなくとも、名字のおかげで隣になることが多く、そういうときにペアになったり手をつないだりする機会もあった。
 思わず自分の右手を見下ろす。そう、手をつないでいた。意識すると急にどきどきして、深呼吸で胸をなだめる。
 佑とも一年間は同じクラスか。そして由音ちゃんもいる。ひとりでちょっとだけ笑みを噛んで、早く新学期にならないかな、とわくわくと満ちていく自分を感じた。
 それから、中学生活が始まった。教室での列は男女別にされていて、前後ではなかったけれど、それでも佑とは案の定席が近かった。
 よく砕けて話しかけてきたけど、佑は意外と、女子とあまり打ち解けて話す男の子ではなかった。どちらかといえば不器用な距離を置くほうで、でも私にはよく声をかけてくる。
「結婚しても名前変わんないからいいよなー」とか揶揄われると、「ふざけんなっ」と佑は怒っていたし、私もそんな野次には反論していたけど──
 わずかに頬が熱い。佑の頬も少し赤いような気がする。もしかして、なんて思ってしまう。
「琴海ちゃん、佐藤くんと仲いいよね」
 五月に入って中間考査が近づく昼休み、一緒にお弁当を食べながら由音ちゃんもそんなことを言ってきた。「ただの腐れ縁だよ」と私はたまご焼きを頬張る。
「佐藤くん、女子とも普通に仲いいって子じゃないよね」
「あいつには、私は女じゃないんじゃない」
 言いながら、胸にちくりと刺さった。「そうかなー」と由音ちゃんはミニハンバーグを飲みこんでつぶやく。
「私には、琴海ちゃんは特別なんだなーって見える」
「ゆ、由音ちゃんまでやめてよ」
「ほんとだよ」
 何とも返せずにいると、由音ちゃんはにっこりして「うまくいくといいね」なんて続ける。
「うまくいくって、」
「少なくとも、琴海ちゃんはそうなんでしょ?」
「う」とまた言葉に詰まる。
 由音ちゃんには、嘘はつきたくないし、つけないし。「そうなのかな」なんてほのめかすことを言ってしまう。由音ちゃんはうなずいて、「お似合いだよ」と私の頭をぽんぽんとする。
 何となく、佑が混ざっているグループに目をやって、どきんと心臓が跳ねる。
 佑のほうが目をそらしたけど、今、目が合った。何で、そらすかな。由音ちゃんとの会話は聞こえない距離だ。それでも、何の話か感づいたとか。
 やけに響く鼓動にそわそわしながら、お弁当に向き直った。
 そんなふうに過ごしていると、六月のじめついた梅雨も明けて夏が始まった。みんなすでに制服は夏服になって、氷が鳴る水筒のお茶で暑さをしのぐ。おかしくなりそうに晴れた青空が、軆の水分をもぎとっていく。
 期末考査も終えて、もうあとは夏休みか、と蝉の声を聞いていた休み時間、不意に肩をたたかれた。
 由音ちゃんかと振り返って、思わず目を開く。佑だった。「どうしたの」と平静を繕って首をかしげると、佑は周りから視線が来ていないのを確認してから、私の引き出しに何かをすべりこませた。
「え、何──」
「お前、仲いいだろ」
「はっ……?」
「渡しといてくれよ。じゃあなっ」
 そのまま、佑は私の席を離れて教室を出ていった。何、と私は眉を寄せて引き出しを引いた。四つ折りの紙がある。
 見ていいのかな、と思っても、確かめたい佑はいない。いいか、と手にしてそれを開くと、私は息を飲みこんだ。
『相川へ
 話したいことがある。
 終業式の放課後、教室で待ってる。
 佐藤』
 え……?
 相……川。
 由音ちゃん──
「琴海ちゃん」
 はっとして紙を引き出しに押しこんだ。由音ちゃんが駆け寄ってきて、「妙にお手洗い混んでたよー」とため息をつく。つっかえそうになりながら返事をしつつ、え、と頭が地震が来たみたいにぐらぐら混濁する。
 話したいこと。佑が由音ちゃんに。嘘でしょ。でもこんなの、明らかに分かりきっている。
 私……じゃ、ないの?
 由音ちゃんは、応援してくれてるんだよ。私の気持ち。それを、こんなの渡せなんて──できない。
 終業式の放課後。一週間後。佑の頼みを勝手に無視したとも思われたくない。だから、考えた挙句、空席のとき由音ちゃんの引き出しに紙を忍ばせておいた。
 佑が初めから自分でこうしていればよかったのに。何で私に託したのだろう。
 戻ってきた由音ちゃんは、不思議そうにそれを開いて、睫毛をしばたかせていた。後方の席の由音ちゃんは、前方の席の佑を見て、とまどってこちらを見ようとしたから私は急いで目をそらした。
 由音ちゃんは親友だ。私の気持ちを知っているのだから、佑に断りを入れるか、せめてすっぽかすか──
 終業式の放課後、由音ちゃんは私に言った。
「ごめん、今日は先に帰ってて」
 何で。何で。何で!
 教室から、ひとりふたりと人が出ていく。私は二組に面した廊下で、それを見ていた。みんな、今日を皮切りにしばらく会えない。だから残っている生徒は少なくなくて、佑と由音ちゃんが教室にふたりきりになる頃には、ほんのり夕暮れが始まりかけていた。
 ゆっくり三組の前に立って、音を立てないようにドアに隙間を作った。ちょうど、「みんな帰ったね」という由音ちゃんの声がした。
「そう、だな」
「話って、ええと、琴海ちゃんのことだよね」
「は?」
「琴海ちゃんとの仲、取り持っ──」
「違えよっ。何だよそれ、クラスの奴みたいなこと言うなよ」
「で、でも」
「俺が好きなのは相川だしっ」
「えっ?」
「好きなんだよ、相川のこと。だから、その、俺の、彼女になってくれねえかな」
「こ、琴海ちゃんは……」
「何だよ、今あいつは関係ないだろ」
「みんな、佐藤くんは琴海ちゃんが──」
「あいつはただ、幼稚園が一緒なだけで」
「よく話しかけてるじゃない」
「相川に俺のこと憶えてもらうには、あいつに近づくしかなかっただけだ」
 何それ。じゃあ、私──
 張りつめた沈黙が流れた。私は座りこんでしまいそうだった。でも、不意に沈黙が小さな嗚咽で破られて我に返った。
「……ずっと、いけないって」
「え」
「佐藤くんと琴海ちゃんのこと、私なんか邪魔はできないって」
 由音ちゃん……?
「私……も、佐藤くんがどんどん好きになってたけど、」
 嘘──
「ダメだって、思ってたのに。何で……」
「な、何でダメなんだよっ。というか、え、俺のこと……」
「好きだよっ。私も佐藤くんが好きっ──
 それ以上聞けなかった。それ以上見れなかった。
 後退る夕暮れの中で、教室の中のふたつの影が重なる。
 身を返して、階段を駆け下りた。上履きを靴に履き替えながらどんどん涙があふれてくる。人影のもう残らない夕焼けで赤く染まる帰り道を歩いていく。
 私はいつしか、声を出して泣いていた。
 流れこむ塩味が、ひりひりからい。住宅地に入って、家が近づいてくる。どこかの夕飯の匂いがする。次第にひくつく喉が痛んで、声も涸れてくる。
 何とか唇を噛んで、手で涙をはらった。濡れた睫毛で、橙々色が透き通る空は余計にきらきらして見えた。
 佑。
 由音ちゃん。
 無理だ。二学期からは、私はふたりを無視すると思う。仲良くなんてできない。驚いたふりをして、応援するなんて、そんな白々しいことはできない。
 震える息を吐く。腫れた目でまばたきをして、やっと立ち止まって茜色の空を見る。
 血が染みこんだような薄い雲が、ゆっくりちぎれていく。えぐられるように広がって、溶けて透けて消えていく。
 誰より、ずっと、一緒に咲っていたかったふたり。そんなふたりを、一気に失った。もう、私がいたって、邪魔にしかならない。
 また視界が滲んで揺れる。胸の中も、そんな真っ赤な空と同じように血だらけだ。
 えぐれ、ちぎれ、涙が舌から心に沁みる。もう声さえかすれて出ない。
 家の前に着くとしゃがみこんで、頭を垂れて、アスファルトが濡れていくのを見た。
 空に染まる雲のように、血染めの心が全身に広がって、薄れて、この軆なんか薄くなって。消えてしまえればいいのに。けれど、指先まで確かに震えていて、私の気持ちは飽和していく。
 蝉が鳴いている。その耳鳴りは、いったいいつまでやまないのか──
 すべてが静まり返る夜までは、まだだいぶかかりそうで、終わった初恋の痛みは生々しく赤かった。

 FIN

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