いつかの彼女

 出逢ったとき、野津のづさんにはすでに佳山かやまさんという恋人がいた。
 野津さんの同期で、ショートカットの快活そうな女の人。私とはぜんぜん違うタイプだ。
 私は広がりやすいふわふわのロングだし、すごく内気でいつまで経っても挨拶がぎこちない。仕事中、さすがに髪は後ろでまとめていても、声をかけられると、目線を隠す重めの前髪を引っ張るくせがある。
美村みむらさん、そのくせ、やめたほうがいいよ」
 朝礼のとき、今日の抱負なんか言う役に当たって、私はたどたどしく「ミスをしないようにします」とか言った。わざわざ言わせたのに、「そうですね」と上司は特にコメントすることもなく、「じゃあ今日も頑張りましょう!」と各仕事へと解散をかける。
 ため息をついて、PC作業が待っているデスクに戻ろうとしたときだ。二年先輩である野津さんが、突然私にそう声をかけてきた。
「え……っ」
 振り返りつつ、やっぱり前髪を引っ張ると、「それ」とビジネスバッグを提げた野津さんが私に歩み寄ってきた。
「せっかく、睫毛も長くて、大きい目してるんだし」
 私はまばたきをして、ただ頬を染めて言葉に詰まった挙句、うつむいて前髪をまた引っ張ろうとした。
「だから、それ、しなくていいし」
「で……も、」
「美村さんは、もっと自信持っていいと思うよ? じゃあ、俺は外まわり行ってきます」
 言い残してすれちがうと、野津さんはきびきび歩き、誰よりも先にフロアを出ていった。私はぽかんと突っ立ったあと、じわっと残る頬の熱に気まずくなって、そそくさと自分のデスクに着いた。
 小さな会社に入社して、二年目の春。たぶん、そのときに野津さんへの意識が始まった。
 けれど、活発でみんなに親しまれる野津さんは、私に似合う男の人ではなかった。それどころか、そもそも彼にはお似合いである佳山さんがいる。なのに、どうしても私は、野津さんへの想いをあきらめきれなかった。
 だって、私に目を留めてくれた。声をかけてくれた。だから、私は野津さんじゃないと幸せになれないんだ。かたくななぐらい、強くそう思っていた。
「美村さん、お淑やかそうでいいなって、ずっと思ってて……」
 そんなことを言って、私を食事に誘う男の人がいなかったわけではない。しかし、私はいつも首を横に振って、「ごめんなさい」とあやふやに咲った。
 好意を見せられて、揺れなかったわけではない。でも、バカみたいだけど、食事しているところを野津さんに見られて、勘違いされたくないとか考えてしまうのだ。
 私は待った。あてもなく待った。野津さんの隙を、ずっとずっと狙いつづけた。
 私は野津さんと幸せになるんだ。だから、野津さんも私と幸せになる。佳山さんは、出逢った順番が先だっただけ。野津さんは勘違いしてる。いつか気づく。自分には佳山さんじゃないことに、必ず気がつく。
「知ってる? 佳山さん、原岡はらおかくんと食事してたらしいよ」
 私が入社して四年目の夏、そんなうわさが狭い社内にすぐ広まった。原岡くんは、佳山さんが教育係を担当している、この春の新入社員だった。
「え、佳山さんって、野津くんと結婚秒読みじゃないの?」
 朝の更衣室だった。私はどきどきする心臓を飲みこみ、何でもないみたいに着替えながら聞き耳を立てた。
「原岡くんって、子犬系じゃん? 姉御肌の佳山さん、だいぶほだされてるらしいよー」
「あー、野津くんはリーダータイプだもんね。佳山さんについていくとかはしないだろうね」
「でしょ? 佳山さんも、あの性格なら、懐く男のほうが意外と合ってそう」
 けっこう勝手に言っている同僚のうわさを聞きながら、私は制服のボタンを留める指を震わせた。
 ついにチャンスが来た。そう思ったのだ。
 窓から夏の日射しが射しこむ朝礼のとき、野津さんを盗み見た。明らかに不機嫌を押し殺し、苦々しい眉間をしていた。
「野津さん」
 その日も、誰より先に野津さんは外まわりに出ていった。ほかの外まわりの人が、それにすぐ続く様子はない。私はお手洗いに行くような何食わぬ顔で、野津さんを追いかけた。
 野津さんはエレベーターに乗ろうとしていた。私は駆け足になって、「野津さん」と呼びながらぎりぎりエレベーターに乗りこんだ。さいわい相乗りはいなくて、ただ、野津さんはびっくりした顔で私を見下ろす。
「美村さん──」
 十階から一階までの時間しかない。私は野津さんを見上げて、率直に気持ちを口にした。
「私、野津さんが好きです」
「……はっ?」
「私なら、野津さんにそんな想いはさせません」
「え……っと、」
「絶対に、野津さんだけだから」
 野津さんはまじろぎ、それから弱った顔になって、「真弓まゆみとのこと、聞いたの?」と苦笑した。真弓さんとは、佳山さんの下の名前だったはずだ。
「ごめんなさい、朝に更衣室で聞こえちゃって」
「はは……みんな、好き勝手言ってるんだろうなあ」
「だって、野津さんは佳山さんと結婚すると思ってたから」
「どうなんだろうな。真弓は仕事が楽しい人だからね。俺は、奥さんには家を守ってほしいと思うような、古い奴で」
「野津さんは、奥さんになる人を守りたいから、そうしたいんだって私は思います」
 その言葉に、野津さんは私を見つめ直した。それから、「美村さんは」と視線を空中に浮かせる。
「守りたいって、思わせるタイプだよな」
「………、」
「俺には、美村さんみたいな子がよかったのかもしれないね」
 私はすがるように野津さんを見た。「でも、」と言いかけた野津さんの手を、私はつかんだ。男の人の大きくてごわついた手だった。野津さんははっと私の手を見る。
「私も……野津さんみたいな人と、幸せになりたい」
 沈黙が流れた。エレベーターは直下していた。けれど、ついに三階でベルが鳴って止まった。
 扉が開く。もちろん待っていた人がいる。「すみません」とその人に素早く言った野津さんは、私とつながった手を引っ張り、その三階でエレベーターを降りた。私は引っ張られるまま、野津さんを追いかける。
 私の会社は、十階のフロアのみだ。ほかのフロアには別の会社が入っている。だから、私は三階で降りたことはない。でも、休憩所の位置が同じだと野津さんは知っていたのか、そこで私たちはふたりきりになった。
 並んでいる自販機が低く唸っているだけだ。空調はなくて、かなり蒸し暑い。汗ばんでくる自分の軆を恥ずかしく思っていると、野津さんは私とつながった手を離した。
 私は顔を上げる。野津さんはつながっていた熱っぽい手で、そっと私の頬に触れた。そして、指先で私の重い前髪を梳き、瞳をあらわにさせる。「やっぱり、かわいい目なんだよなあ」と私の瞳を瞳に映して、つぶやく。
「野津さ──」
 私が何か言いかけると、急に野津さんの瞳がゆがんだ。ついで、強い力で私の軆を抱き寄せてきた。私と同じように、汗ばんでいる野津さんの匂いがした。薄手のシャツからは体温が伝わってくる。一瞬息が止まったあと、鼓動が一気に速く脈打つ。
「真弓さ、原岡と寝たらしいんだよね」
「えっ」
「酔った流れだって言われたけど、酔ってたら、何でもしていいのかよ」
「………」
「食事だけなら、許せたと思うけど──」
 私は、野津さんのシャツを小さくつかんだ。野津さんの吐息は、わなないてくぐもっていて、泣いているみたいだった。私はただ、受け止めるようにそれを聞く。
「美村さん……」
「……はい」
「今夜、空いてる?」
 野津さんの胸の中から、顔をあげた。野津さんの瞳はゆらゆらして泣き出しそうで、私は何度もうなずくと、「私は大丈夫です」と彼の広い背中を優しくさすった。
 その夜、ホテルの一室で、私は野津さんと結ばれた。
 野津さんをなぐさめるように、私は彼の軆にいっぱいキスをした。「意外と積極的だね」と野津さんは笑った。けれど、力強くなったもので私の中に来ると、今度は彼がこちらを翻弄するように動いた。
 私はそれを受け入れ、野津さんのことを何度も呼んだ。「圭貴けいきって呼んで」と耳たぶを食みながらささやかれ、堕ちそうな意識を留めるために、私はその名前を呼んだ。息を切らして私を突き上げながら、野津さんも「小毬こまり」と私の下の名前を呼ぶ。彼が私の名前をきちんと憶えてくれていたことに、何だか泣きそうになった。
 そして、私と圭貴の関係が始まって、まもなく、圭貴と佳山さんの関係は終わった。
 私たちは、情動的に愛し合うことが多かった。獣みたいに求め合って、圭貴は私の奥にそのまま射精した。私はそれを愛だと思って、何も言わなかった。怖いより、嬉しいぐらいだった。好きな人の精液で、お腹の中が温かくなる感覚が幸せで、圭貴の腕の中で安らかに眠った。
 だから、私が圭貴の子を妊娠したのはすぐだった。残暑がまだ残る十月の夜、私は体調不良に何だか予感を覚え、買ってきた妊娠検査薬に浮かんだ赤い印を見つめた。
 さすがに、こうなると圭貴は困った顔をするだろうか。そう思ったけど、思いのほか彼はとても喜んで、その場でプロポーズしてくれた。
 春に結婚退職した私は、マンションで圭貴と同居を始めた。圭貴との新婚生活は幸福そのものだった。やがて生まれた娘も、圭貴によく似ていてかわいかった。娘には、珠妃たまきと命名した。
 珠妃は夜泣きがひどい子だった。私はまともに眠ることもできず、珠妃を抱いてあやした。
 日中もよく泣き出すから、ぼんやりしてくる頭で、この子はいったいいつ眠っているのだろうと思った。眠ることなく泣きつづけているの? それって大丈夫なの?
 圭貴に相談したら、「小毬が抱っこしたら落ち着くんだろ?」と眉を寄せられた。
「そうだけど……」
「じゃあ、寂しいだけなんじゃないかな」
「……寂、しい」
「小毬がもっと愛情を与えてたら落ち着くよ」
 私は圭貴の顔を見た。何だか、少し厄介そうな顔に見えた。うっすら隈があるせいかもしれない。
 圭貴は昼間働いているのだから、夜にはぐっすり眠りたいだろう。なのに、私の愛情が足りなくて珠妃は泣いてばかりで、きっと圭貴もよく眠れていない。
 私は珠妃の頭を撫でながら、「ごめんね」と圭貴に言っていた。何が、と言われるのを期待した。しかし、圭貴は私の謝罪に対して、「もっと頑張れよ」と答えた。
 圭貴は、育児にはほとんど協力しなかった。別に、「俺は働いてるだろ」とかモラハラみたいなことは言われない。というか、言われるまでもなく、実際に収入は圭貴に頼りきっている。それに加えて、育児まで担うのは大変だろう。
 私が頑張らなきゃ。
 圭貴のぶんまで、私が珠妃に愛情をそそがなきゃ。
 そんなふうに思っても、珠妃は私の努力を否定するみたいに泣きじゃくる。どんなに頑張っても泣くのだ。焦れば焦るほど、珠妃の泣き声にいらいらするようになった。いらいらしすぎて、私まで涙がこぼれるほどだった。
「何で、小毬が泣くんだよ……」
 珠妃が泣き出すと、私も反射的に泣いてしまうようになった。そんな私に、圭貴はため息をついてそう言った。私は嗚咽をこらえながら、今夜だけは珠妃を抱っこしていてくれないかと頼んだ。
「俺が抱っこしても、逆に泣くだろ。小毬の役目は、小毬がやってくれよ」
 圭貴は私に背を向けた。置き去りにされた気がして、私は迷子みたいにわっと泣き出した。すると、圭貴は舌打ちして鍵をつかむと、家を出ていってしまった。
 やがて、圭貴は家に帰ってこなかったり、休日も出かけてしまうようになった。「遅かったね」と言うと、「仕事だから仕方ないよ」と返される。「どこ行くの?」と訊くと、「友達のとこ」と答えられる。私は珠妃を腕に抱きながら、たぶん嘘だ、と思った。しかし、だとしたら彼はどこで過ごしているのか、それはどうしても考えたくなかった。
 珠妃が一歳になった。誕生日の夜は、圭貴は家で過ごしてくれた。プレゼントに積み木とお人形を用意していて、珠妃はようやく最近見せることが増えてきた笑顔で、それを受け取った。私の手作りのケーキを食べる珠妃を見つめる圭貴の瞳は優しい。
 ほっとしていた。不安になっていたけど、彼はちゃんと珠妃を愛してくれている。そんな私に、「あのさ」と圭貴はゆっくりと口を開いた。
「最近、真弓に会ってるんだ」
 圭貴の顔を見た。バカみたいだけど、「マユミ」という名前が誰のことなのかとっさに分からなかった。けれども、思い当たった瞬間に、脳髄がすうっと蒼く冷えていった。
「いろいろ、相談に乗ってもらっててさ。あー、やっぱ、こいつといるのは心地いいよなあって思って」
「え……?」
「でも、あいつは自分の非を分かってるから。俺が小毬を選んだのも、すげー理解してて。だから、『二番目でいい』って言ってくれてるんだ」
 何? 何を言っているの、この人。
 くらくらしてくる眼前を振りはらうように、ぎゅっと目をつぶった。それから、まぶたを開く。でも、圭貴に向ける顔は、弱々しい笑みに引き攣ってしまう。
「それは、一番は、私ってこと……だよね?」
 圭貴も私を見て、「は?」と理解できないみたいに眉を寄せた。
「一番は珠妃だよ」
「え……」
「だから、珠妃が成人したら真弓とやり直そうと思う」
「何……言ってるの」
「いや、そっちこそ何? 分かるだろ?」
「わ、分かんないよっ。嫌だよ、私は絶対別れない」
「勝手にすれば? 小毬が妻の顔してるのは自由。でも、離婚できなくても、俺の気持ちは真弓にあるから」
 積み木で遊んでいた珠妃が、頑是ない声を出して圭貴に近づく。圭貴は珠妃に目を向けると、「今度はお人形で遊ぶか?」と珠妃を膝に乗せた。その微笑む瞳はやはり優しい。確かに愛情がある。でも、彼が私にそんな瞳を向けたことって──
 ああ、なんて残酷なの。こんなに残酷な光景はない。好きな人が私の子供を抱いている。夢にまで見た幸せな光景が、今、あまりにも残酷で、思わず目をそらしてしまう。
 うつむいてしまうと、涙が滲んだ。唇を噛んで何とかこらえる。でも、息が苦しいぐらいに泣きそうだ。
 彼のことが、ずっと好きだった。
 だから、ずっと好きでいたかった。
 翌日、圭貴が出勤してしまうと、いつも通り珠妃とふたりきりになった。珠妃はお人形をタオルに寝かせて、その頭を撫でてにこにこしている。
 この子が成人するまで。
 そのあと、私はどうやって生きたらいいの?
 鼻の奥がつんとして、また泣きそうになったときだ。寝かせたお人形を離れて、珠妃が私につたない足取りで近づいてきた。
「まま」
 私ははっと珠妃を見た。珠妃はにこにこして、「まま」ともう一度言った。
 珠妃が言葉を口にするのは、それが初めてだった。
 私は、こらえきれずに泣き出してしまった。そして、珠妃を抱きしめた。涙をぼろぼろ流しながら、謝った。何度も何度も、かけがえのない娘に謝った。
 この子が成人するまで耐えよう。そしてその先、この子に見捨てられない母親になろう。
 珠妃のそばにいたい。いつかすべてを知ったら、この子さえ私を嫌いになるかもしれない。それでも、私は珠妃のそばにいる。
 私が守る。大人になるまで、珠妃のことは私が守る。
 いつか、彼女が素敵な人と幸せになれるまで。
 私は誰も頼れなくても、彼女はいつでも私を頼れるように。

 FIN

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