雨宿り

 もうすぐ三十一歳になる夏、おばあちゃんが亡くなったと母から手紙が来た。
 高校を卒業したら、あえて遠方の大学に進んだ。たまには帰ってきなさいと言う電話やメールがうるさいから、二十歳になったらガラケーをスマホにするのと一緒に、名義を自分のものにして、携番もメアドも変えた。
 しかし、そしたら今度は手段を手紙に切り替え、母はやっぱり私にこうだったああだったと、愚痴みたいな内容の手紙をよこした。そういうところも嫌いだから、こんな遠い街に出ていったことをまったく分かっていない。
 過保護な母は、堅物で私と接しようとしない父をよくなじり、それが過ぎてついに父が怒鳴るまで「あの子にもっと興味を持ってください」と言いつづけた。父は私をあまりかわいいとは思っていないようだ。親戚で集まったとき、「男の子が授かれなくて残念だった」と祖父母によく言われていたからかもしれない。
 だから、私は父方の祖父母も好きじゃなかったけど、ゆいいつ、母方のおばあちゃんは好きだった。おじいちゃんは早く亡くなっていて、おばあちゃんは幼い私といつも遊んでくれた。
「おかあさんも、喜乃よしのがかわいいんだろうけどねえ。ちょっと息が詰まるよねえ」
 母が例によって父に一喝されると、私は無意識に畏縮して、おばあちゃんの部屋に逃げこんだ。すると、おばあちゃんはおじいちゃんの仏壇に供えていたお菓子を私にくれて、おとなしくそれを食べる私の頭を撫でた。
 そんなおばあちゃんが亡くなった。家を出て、おばあちゃんともまったく連絡が取れなくなっていたのは、心苦しかった。でも、まさかそのままになってしまうなんて。
 ずっと帰っていなかった田舎だけど、さすがに顔を出そうと思った。私は職場に、翌日の朝一番に不幸を伝えた。バッグに喪服を詰め、台風が接近する雲行きの怪しい空の下、新幹線に乗って田舎に戻った。
 十年以上帰ってこなかった街から、ローカル線に乗り換えて、さらに郊外に向かう。窓の向こうで雨が降り出した。各停の扉が開くたび、雨の匂いがただよってくる。
 夜、実家の最寄り駅に到着したときには、強い雨は横殴りになりはじめていて、ホームを歩いただけで私はかなり濡れてしまった。傘持ってこなかった、と初めて間抜けなことに気づきながら、とりあえず改札を抜ける。さすがに駅員さんはいるけど、かなりこぢんまりした駅のまま、変わっていない。
 改札の前にいると邪魔なので、表のひさしに移動した。パンデミック以来、外出のときはマスクをつけるようになった。
 どうしようかな。タクシーでも呼ぶか。こんなとこにも来てくれるかな? いや、曲がりなりにも駅前だし──
「うん、すっごい降り出した。──うん。迎えいいかな、ごめん。──ありがと、助かる」
 そんな声が聞こえて、ちらりと目を向けると、スーツの男の人がスマホで誰かとしゃべっていた。
 迎えか。母に来てもらうか。いや、母の連絡先を私はスマホに入れていない。やっぱりタクシーか。手紙の差出人によると、実家の場所が変わっていないのは確認している。
 ため息をつきながら、スマホのタクシーアプリを呼び出そうとしたとき、「あれ……」と聞こえて、私はもう一度顔を上げた。同じくマスクをつけた電話をしていた男の人が、私を見つめている。
橋森はしもり……?」
 名字を言い当てられて私は眉を寄せ、その黒い瞳を見つめた。瞬間、ぱちぱちっと頭の中がセピアにまたたく。
「……龍崎たつざき
「そう! え、お前生きてたのか?」
「どういう意味だよ」
「いや、だって高校卒業したあと、よそに進学したまでは知ってたけど。そのあとも、ぜんぜん見なかったし」
「帰ってきたくなかっただけだわ」
「そう……なのか」
 私はスマホに目を落としたものの、画面が落ちたまま、指も止まる。
 龍崎。龍崎たつざきとおる。小学校のときからの同級生。幼なじみってほどの仲ではない。けれど、高校が別になる中学の卒業式、こいつから告られて私たちはつきあっていた。私が遠方の大学に行くと決めて、親も友達も「どうして」と怒ったけど、龍崎はぽろぽろと泣いた。
 そういえば、ガラケーをスマホにしたとき、念を入れて地元の友達にも連絡先は伝えなかったので、もちろん龍崎ともそのときに音信不通になったのだ。
「……すごい雨だな」
 龍崎は私の隣に並んで、そんなことをぽつりと言う。
「今回、日本縦断するらしいよ」
「マジか」
「災害出ないといいよね」
「避難所でクラスターとかなったら最悪だもんな」
「ほんと」
 上滑りした会話を、ぽたぽた交わしながら、私は地面の水溜りを見た。落ちる雨粒で水面がぶれて、龍崎の表情を窺う水鏡にはならない。まあ、マスクをしているから最初から分からないか。
「よく気づいたね」
「えっ」
「マスクしてるし──もう十年以上前だよ」
「……そうだな。何で分かったのかな」
 私は睫毛を伏せ、勝手に音信不通になったことを、謝ったほうがいいのかと思う。あるいは、いまさらなのだろうか。
 そのとき、目の前を傘をさした自転車が通り、水溜まりが大きく跳ねた。とっさに龍崎が私の手を引いて、さいわい足元を助けてくれる。代わりに、龍崎のスラックスが濡れたけど。
「あ、えと……ごめん」
「いや。どうせこのスーツ、クリーニングだし」
 そう言ったまま、龍崎は私の手をつかんでいて、不意に優しい力をこめた。心臓がきゅっとすくみ、跳ねる。龍崎を見上げると、「やっぱ、ショックだった」と彼は絞り出した。
「俺、何か悪かったのかなって──ずっと、もやもやして、忘れられなくて」
 私は目線を落とし、「そんなんじゃないよ」とつながった手を見つめる。
「うち、家の中が面倒だから。実家を離れたくて、ここにいたことは全部捨てたの」
「……昔、そんなことは話してくれなかったな」
「重いでしょ」
「そんなこと──」
 龍崎は私を見つめる。切ないくらいに愛おしむ瞳。私は鼓動をこらえて視線をそらすと、そっと手を離した。
「……でも」
「うん」
「今なら、連絡先伝えても──」
 そこまで言ったときだった。
 クラクションが響いたかと思うと、その車から保育園くらいの幼い男の子が降りてきて、「パパー!」と手を振った。その子は自分の傘をさし、大人用の傘を抱えてこちらに駆け寄ってくる。
「あ……哲美てつみ。傘持ってきてくれたのか。ママは?」
「ママは今日は運転手だよ!」
「そ、そうか。じゃあ、帰ろうか」
「このおばさんは?」
「えっ……と、その──」
「……ありがとうございました、道はもう分かったので」
「あ……、」
「おばさん、迷子なのー?」
「そうなの。でも、ちゃんと行けそうだから大丈夫。早くおとうさん、車に避難させてあげてね」
「避難! 訓練する奴?」
「……哲美、ママが待ってるだろ。家に帰ろう」
「そっか。はい、パパの傘!」
 男の子から傘を受け取った龍崎は、ぱっとその傘を開く。紺に白の切り替えがひとつ入った、大きな傘だ。その中に入り、「じゃあ」と龍崎は頭を下げ、「ありがとうございました」と私は微笑んだ。
 ああ、私、けっこう龍崎が好きだったかな。今、やっと感じた。彼がもう手の届かない人になっていると知って、こんなに胸が締めつけられる。
 龍崎は雨の中、傘をさした息子と仲良く手をつないで、停車している車へと歩いていく。
 追いかけてはいけない。手をつかんではいけない。背中にしがみついてはいけない。
 忘れられなかった、なんてたとえ言われたのだとしても、私の存在は彼にはいまさらなのだ。
「ばいばい!」
 ふと、車に乗りこむ男の子が振り返って、無邪気に咲って手を振ってくれた。
 ……ばいばい。ほんとにそう。おばあちゃんを見送ったら、私は二度とこの土地に戻ることはない。
 これが永遠の別れ。
 もう二度と会えない。
 本当のさよなら。
 ふたりが乗りこんだ車は、すぐに発車して、降りしきる雨に見えなくなった。
 私はいよいよ激しくなる雨を見上げた。いつまでも雨宿りはしていられないのに、私に傘を持ってきてくれる人はいない。かわいがってくれたおばあちゃんも、泣いてくれた龍崎もいなくなって、ここで私はひとりだ。
 私は手の中に握ったままだったスマホを持ち上げた。とりあえず、アプリでタクシーを呼ぶ。そしてそれが来るまでのあいだ、ほんの少しだけ、息の詰まる切なさと寂しさに涙をこぼした。

 FIN

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