隣を歩く

 結子ゆいこは昔から集団行動が苦手で、和を乱すなと先生によく怒られていた。
 みんなと同じようにしておくこと。僕にはそれはそこまで大変なことではなかったけれど、結子は焦ったりもたついたりして、「またですか、槙村まきむらさん!」と先生は声を荒げる。
 狼狽える結子に、クラスメイトたちはくすくす笑ったり、鬱陶しそうに舌打ちしたりする。先生が結子の両親に「結子さんは問題のある生徒です」と伝えて以来、結子はあんまり学校に来なくなった。
 届けるプリント類があれば、団地の同じ棟に暮らしている幼なじみの僕が持っていった。結子は部屋に引きこもるようになっていたものの、僕には会ってくれた。
 小学六年生の秋、結子の家のリビングで、僕は算数のプリントに出た問題を結子に説明していた。結子は計算とかもあまり得意ではなく、筆算を書いてようやく答えを出す。我ながらそれが煩わしいのか、「和邦かずくにも私のこと変だと思ってるよね」と顔を上げないまま急に問うてきた。
「えっ」
「こんなの、和邦は頭の中で計算できちゃうんでしょ?」
「いや、まあ……でも、途中の計算も書かないといけないからやるよ」
 結子が黙りこんでしまったので、「結子は国語とかはすごくできるし」と僕は急いで言葉を継ぎ足す。
「あんなの……読めば分かるよ」
「僕は主人公の気持ちを読み取りなさいとか分からないよ」
「そう、なの?」
「うん。結子は人の気持ちとかは分かってあげられるってことじゃないのかな」
「先生とか、クラスの子の気持ちは分からない……」
「みんなが結子を分かってあげてないんだよ」
 結子は大きなぱっちりした瞳で僕を見た。「結子は結子でいいんだよ」と僕が続けると、「けど、私、中学も行けるか分からなくて」と結子は睫毛を震わす。
「おとうさんが、それを怒るの」
「おじさんが?」
「おかあさんにも、お前の教育が悪いんだって」
「………、」
「でも、おかあさんが悪かったと私は思わないの」
「……うん。おばさんは優しいよ」
「やっぱり、私が悪いんだよね。おかしいんだ。みんなと同じようにできない」
 結子はシャーペンを置いて目をこすった。それでも、はたはたと涙が算数のプリントに落ちていく。じわりとふやける数字を見つめ、「僕は結子の味方だから」とどうにか僕は言った。結子は鼻をすすって、「うん」と答えたものの、それからしばらくのあいだ小さく泣いていた。
 小学校を卒業したあと、やはり中学も結子はほとんど登校せず、通信制高校に籍だけ置いた。僕はいたって普通に全日制の高校に進み、勉強や部活、恋愛もした。
 わりと何でもそつなくこなせる僕だったけれど、恋愛はあまり上手じゃなかった。つきあうまではいくのだけど、しっくり来なくてすぐ別れてしまう。
 高校三年生になった春、三人目の彼女に振られて息をつきながら帰宅すると、駐車場から団地への桜の並木道を結子とおばさんが歩いていた。濃い桃色の夕暮れの中、「結子」と声をかけると彼女は振り返り、「和邦」と足を止める。おばさんも一緒に立ち止まった。
「どうしたの? めずらしいね、えと──外に出てるの」
 結子はおばさんと顔を合わせ、それから「病院に行ってきたの」と言った。「え」と僕はまばたきをして、「どこか具合悪いの?」と心配になる。
「具合というか、精神科だから」
「あ──」
「ずっと、そんなところ行くのは体裁が悪いっておとうさんが言ってたんだけど。やっと、勝手に行けばいいぐらいには言われたから」
「そうなんだ。どうだった?」
「うん……先生優しそうだったし、話していけそう」
「そうなんだ。無理はしないでね」
「ありがとう。診断とか出たら、和邦には教えるね」
 僕がこくりとすると、会釈してくれたおばさんと共に結子は歩いていった。精神科か、と僕は漠然とイメージしようとしたものの、行ったことがないから心理テストみたいなことやるのかなぐらいしか分からなかった。桜の花びらがひらひらと舞い落ちていく。その中で、結子が少しでも楽になれるといいなと思い、僕は自分の家に帰った。
 やがて結子に下りた診断は、発達障害だった。脳の「障害」で、「病気」とはまた異なるらしい。その中でも結子は自閉症スペクトラムというものらしく、対人関係やコミュニケーションに障害があり、興味やこだわりに偏りがあるということだった。
 熱気がむせかえるような夏休み、結子の家に遊びに行き、「結子には興味があることがあるの?」と訊くと、「絵を描くことは好きかなあ」と結子は答えた。
「絵を描くんだ? 初めて知った」
「うん。上手じゃないけど」
「見てみたい」
「上手じゃないって言ったでしょ」
「どんな絵?」
「漫画みたいな絵だよ。話を作るのも好きだから、漫画はいつか描いてみたい」
「じゃあ、それは読ませてよ」
「描いたらね。笑わないでよ?」
 そう言った結子には笑顔があり、僕は思わずほっとした。小学校のときに学校に行かなくなってから、結子には笑顔がほとんどなくなっていた。
 ずっと、結子は障害を抱えていたんだな。そう思うと、先生やおじさんが結子を理解してこなかった深刻さが分かって、僕はなるべく結子に寄り添ってあげたいと思った。
 その後、僕は大学生になった。結子は通信制高校に籍のみまだ置いていたけれど、作業所に通いはじめた。僕は夏になる前に彼女ができて、それを結子に報告すると、「恋愛かあ」と結子は首をかしげて、窓の向こうの梅雨の雨を眺めた。
「恋ってどんな感じなんだろう」
「結子は好きな人ができたことはないの?」
「ないかな」
「そっか。まあ、いつかいい人と出逢えるよ」
「和邦も彼女さん大事にしてね」
 僕はうなずき、いつも僕なりに大事にするんだけどなあと苦笑してしまう。それでもやっぱり、その彼女とは秋が深まりつつある頃に別れた。
 彼女になった女の子に、僕はいつも「私の目を見てくれない」とか「私の話を聞いてくれない」とか言われる。そうなのだろうか。僕は結子の瞳なら見つめるし、作業所での話も聞いてあげられる。どうして、これが好きな女の子だとできないんだろう。
 落ち葉が降る秋から、風が身を切る冬に移り変わる。すると気温がぐっと低くなって、日が落ちるのも早くなった。僕は結子のおばさんに頼まれたのもあり、結子を作業所まで迎えにいって、夜道に付き添うようにしていた。
 寒月の下、結子と並んで歩きながら、僕はこうして結子の隣を歩いていけたらいいかなあなんて考える。
「和邦」
「うん?」
「もうすぐクリスマスだよね」
「十二月だもんね」
「何かもらえるなら、何がいい?」
「何かくれるの?」
「んー、あげられそうなら」
「はは。結子って料理はできるの?」
「おかあさんを手伝うくらいなら」
「じゃあ、お菓子とか作ってくれたら嬉しいな」
「そんなのでいいの?」
「うん」と僕がうなずくと、「そっかー」と結子はつぶやき、「頑張ってみる」と笑顔で言った。僕はそれに咲い返して、けっこう楽しみになっている自分を感じた。
 結子はクッキーやプリンからお菓子作りの練習を始めて、最終的に、クリスマスには小さくてもいいからケーキを作りたいらしかった。作ったお菓子はおじさんが食べることになるらしく、何だかそれでちょっとおじさんの態度が柔らかくなったという。結子だけでなく、おばさんもそれを喜んでいた。
 そしてクリスマスイヴの日、作業所ではささやかにパーティが行われるそうで、僕はいつもより遅めに結子を迎えにいった。
 結子の通う作業所は、三階建てのビルの二階に入っている。エレベーターはなくて、階段だ。いつもは階段の下で結子を待つけれど、その日は階段をのぼって作業所の前まで行ってみることにした。
 階段を半分のぼったところで、「え、いいんですか?」という声がして足を止める。そっと覗いてみると、結子が男に箱をさしだしながら、必死にうなずいていた。
 ──あ、と思った。
 なんだ。
 そうか。
 僕じゃなかったのか。
 男は箱を受け取り、ちょっとどもりがちにお礼を言う。その口ぶりで、何となく、結子と同じ作業所の利用者だと分かった。というか、経営側ならたぶん好意を受け取るのはまずいだろうし。
「……あ、和邦」
 心臓をざわめかせてうつむく僕に、結子が気がついた。僕は慌てて笑顔を作ると、結子の頬が染まった顔を見つめ、いまさら自分の気持ちの名前に気がつく。
「ごめん、邪魔しちゃったかな」
「あ、えっと──その……」
「その人に送ってもらうなら、僕は先に行ってるよ。ゆっくりおいで」
 僕が微笑むと、結子はほっとしたように笑みになって、こくんとした。ああ、そうか。結子の隣を歩いていけたらと思ったけど、結子が隣にいてほしいのは僕じゃなかったんだな。
 階段を降り、ひとりで夜道を引き返しながら、大丈夫だ、と心に言い聞かせた。結子が幸せなら、僕にもそれが幸せだ。僕の心がちくりと痛むことなんか、どうだっていい──
 冷え切った暗い空に、月が浮かんでいる。その光が、不意に目の中でにじんだ。
 結子。君の隣を歩いてきたつもりだった。僕の勘違いだったみたいだ。君が光に向かって一緒に歩いていきたい人は、僕じゃないんだね。
 ぼやける視界の中で、ため息がうっすらと白い。急に寒気を覚えて身震いした。
 隣に結子がいない。きっと、ずっと結子は僕と並ぶことはない。
 その切なさに息苦しくなったけど、僕は唇を噛んで顔を上げ、聖夜の月に幼なじみの幸せを祈った。

 FIN

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