声は使わない。録音される場合を彼女たちは知っている。
スマホの画面に指をすべらせ、会話はすべてトークアプリの中で行なわれる。次のことが決まったら、サイレントにしている私のスマホにメッセが届く。
『宝探しね』
『ヒントはトイレ』
『頑張れ♪』
四時間目が終わった女子更衣室、みんな白と紺の夏のセーラー服になって出ていく。その中で、私はまだ体操服のままだった。
ロッカーに、ひとつひとつ鍵がついているような私立中学じゃない。私のセーラー服は、体育の授業が終わったときには消えていて、指紋認証が必要なスマホだけがロッカーに残されていた。
それを手に取ると、『待て』といういつもの始まる合図のメッセだけが着信していて、心臓が重く陰る。
このとき、おろおろと周りを見まわしたりしてはいけない。誰かに気づかせたら、まして助けを求めたりしたら、もっとひどいことをされる。
彼女たちは、きっと何気ない表情でスマホをいじっている。私にできることは、それに合わせて、スマホに夢中になって着替えさえしない演技だ。
そしてその三通のメッセが来て、初めて硬直していた脚を動かし、更衣室を飛び出す。
あんなメッセで、すべて分かってしまう自分が悔しい。私のセーラー服は、きっとこの学校のどこかのトイレで、ゴミ箱にでも突っこまれているのだ。
校舎は本館も別館も四階建て、合計やっつのトイレを確認しなくてはならない。今から昼休みだけど、そのあいだに見つかるかな。ああ、教室にお弁当を置きっぱなしだ。どうせ次はお弁当に何かされるのだろう。
半袖とハーフパンツの体操服で、廊下を早足に歩く私を、周りは訝ってくれることもなく、少しだけ嗤う人すらいる。
本館一階のトイレから見ていく。いつつある個室を見て、掃除用具入れを見て、ペーパータオルのゴミ箱も見る。出ていこうとして、ふと、サニタリーボックスが気になった。
でも、あれには入らないか。いや、切り刻んで入れることはできる。またここに戻って見直すのも手間なので、各個室のサニタリーボックスも念のため見ておいた。
しかし、やはりここには私の制服はないみたいだった。私はトイレを出ると、さいわいすぐそばにある階段で二階に上がり、トイレに入ってまた同じようにくまなく制服を探す。
特別教室が並ぶくらいのひと気のない本館の四階のトイレで、やっと制服を見つけた。汚れた和式の便器の中で水浸しにされ、その上では、『お宝ゲットだね!』と赤い字で書かれたノートの切れ端がふやけていた。
私は眉を寄せ、ようやく見つけた自分の制服なのに、手を伸ばすのを躊躇ってしまう。だって、微悪臭がして赤茶けるほど汚れている便器だった。一般教室と並ぶ普段から使われるトイレとは違って、掃除もいい加減なのだろうか。
でも、拾わないわけにもいかないし、体操服で教室に帰って注目を集めたら、どんな仕打ちがあるか──ゆっくり息を吐くと、私はかがみこんで、制服に触れようとした。
そのときだった。「ごめん、ちょっとトイレ寄ってく」という声がしたかと思うと、足音が響いた。私はびくんとして、とっさに個室に閉じこもるという機転が利かず、そちらを振り返ってしまった。
すると、そこにはショートカットにヘアピンを刺し、ぱっちりした瞳とモデルみたいに華奢な手足が綺麗な女子生徒がいた。ばさばさのロングヘアをおさげにしただけの私に、彼女も面食らって立ち止まる。
「え、あ──」
凛とした声もとまどっていて、私は頬を真っ赤に燃やす。気味悪がって逃げ出すかと思ったら、彼女はトイレを見まわし、こちらに歩み寄ってきた。
「どうしたの? 大丈夫?」
え。何。何で関わってくるの。
私が困惑して何も反応せずにいると、彼女は一度まばたきをしてから、何気なく私が踏みこみかけている個室を覗いた。ついで小さく悲鳴を上げ、「えっ?」と私を見直す。
「この制服、あなたのなの?」
視線をうつむける。どうしよう。
違うと言ったら、この子は私が誰かの制服を水浸しにしていたところだと思うだろう。そう思われるのはともかく、そうしたらこの子は先生に話して、制服は調べられて結局私のものだとばれる。
だったら、私のものだと認めたほうが早いのか。でも、そうしたら、彼女たちが私に何をしているかまで知られる。それも、たぶん、やばい──
彼女は私を見つめている。ああ、瞳ってこんなに澄んでいるものなのか。そんなことをぼんやり思う。
彼女は首をかたむけ、臆しながらも「あなたの制服じゃないの?」とやっぱり問うてきた。私は唇を噛みしめると、かぶりを振って、「私のです」とぼそぼそと答えた。
彼女は息遣いを張りつめてから、「ひどいね」とつぶやくと、躊躇せずにしゃがんでびしょびしょのセーラー服を持ち上げた。
「あ、……あの、汚れてる、」
「だから、すぐ洗わなきゃ。っていっても、そこの洗面台だけどいいかな」
「え……、あ、でも」
「あ、ごめん、嫌だよね。どこか水が使える場所──」
「いえ、その、私はいいけど、あなたの手が汚れるし、それすごく汚い臭いするし、」
私がおろおろと言い立てるのはもう聞かず、彼女は白い手で制服の水分をなるべく絞って、「今、理科室の鍵持ってるから、そこの蛇口使おう」と立ち上がった。私がもたついていると、「行こう」と濡れたセーラー服を腕に提げて、彼女は歩き出す。
私は狼狽えるまま、前髪で視界を隠すと、どうしようもなくて彼女についていった。
理科室は、そのトイレと同じ四階の並びにある。「さっき、友達の忘れ物を一緒に取りにきてたの」と彼女は説き、本来実験でしか使わない窓際沿いの水場で、私の制服を洗いはじめた。
水洗いでもありがたいのに、ハンドソープをたっぷりつけて、染みこんだ黄ばみまで洗ってくれる。私もスカートは自分でと手伝えばいいのに、ただぽかんと突っ立っていた。
残暑の日射しが強く射しこんで、せっせと私の制服を洗う彼女は汗までかいていた。
「名前は?」
不意に、彼女がこちらを一瞥して尋ねてくる。
「えっ……あ、館野美千子」
「私は桐森花実」
「何年、生?」
「三年生。館野さんは?」
「私も、三年。一組」
「そうなんだ。私は五組だから、教室は離れてるね」
「……そう、ですね」
「同級生なら敬語はいいよ」
そう言って桐森さんはころころ咲って、でも私はだいぶ咲うなんて表情をかたちづくっていなくて、おかしな乾いた頬の痙攣しかできない。
そんな私を見つめた桐森さんは、視線は手元に戻しても話を続ける。
「誰にも言ってないの?」
「え……っ」
「こういうことされてるって」
「……まあ」
「言わないと、終わらないよ?」
「言ったら、もっと、ひどい……ので」
「言ったことあるの?」
「ない、けど」
「じゃあ、今度から何かあったら私に言って」
「えっ」
「何ができるってわけじゃないけど、館野さんに味方がいるって分かるだけで、引っこんでいくかもしれないでしょ」
「味方……」
「こういうのを、ひとりで抱えこんでるのはダメ」
視線を落として、中傷を落書きされてもそのまま使っている上履きを見つめる。
白い日光の中で、じゃぶじゃぶという水音が響く。
味方。そう言ってもらっても、素直に喜ぶ感覚は枯れてしまった。
でも、そういうものなのかな。誰にも頼ろうとしない私が、彼女たちにとっては一番滑稽なのかもしれない。私を助ける人が現れたら、おもしろくないだろうし、それ以上続けても自分たちが不利なので、わりとあっさり離れていく?
「桐森さん、は」
「うん?」
「私と、そういう、仲良くする……のは、嫌じゃないの?」
「友達が増えるのは普通に嬉しいけど」
「友、達」
「館野さんもそう思ってくれるならだけどね」
私は桐森さんの横顔を見て、ようやくその隣に並ぶとまだ手をつけられていないスカートを手繰り寄せた。「私も洗う」とぼそりとすると、「うん」と桐森さんはうなずく。
昼休みのあいだ、私は理科室で桐森さんと制服を洗っていた。「干すところがないね」と言った桐森さんに、「グラウンドの遊具に干しておくので」と答えると、「なるほど」と桐森さんはそんなのを思いつく私なんかに、ちょっと感心していた。
「いつでも五組の教室に遊びにきてね」
理科室を出て、一階まで一緒に降りた。桐森さんは理科室の鍵を職員室に返さなくてはならず、グラウンドには私ひとりで行くことになった。
靴箱の手前での別れ際、桐森さんはそう言ってくれた。私は無言でうなずき、桐森さんが軽やかに立ち去ってから、ありがとう、のひとことも伝えなかったことにいまさら気づいた。
それから、桐森さんは実際に私を気にかけてくれるようになった。私が五組に行かなくても、一組まで様子を見に来てくれたりした。
「五組の桐森じゃん」と浮ついてささめく男子の声がたまに聞こえる。いつもばらばらの位置で、スマホで会話する彼女たちも、めずらしくかたまってひそひそと話していた。
やがて、私のスマホに合図が着信することがなくなった。それを言うと、桐森さんはほっとしたように咲ってくれて、ふと私は、桐森さんがいつもさしている前髪のヘアピンが今日はないことに気づいた。それについて訊いてみると、「ああ、寝坊して忘れちゃって」と桐森さんは苦笑し、私もそのときはそれ以上は気にしなかったけど──
たぶん、そのときには始まっていたのだ。
彼女たちは、自分たちと同じ人種を嗅ぎ出すのに長けている。五組に潜む、美少女ではきはきした桐森さんを妬む人たちをすぐに炙りだし、働きかけはじめた。
あいつ調子に乗ってない? 何かムカつくよね? だからさ──
五組の「彼女たち」がゆっくり動き出して、まずは桐森さんの友達を奪いはじめた。ほんとにあの子のこと好き? 正直、いい子ちゃんで癇に障るでしょ。そんなことをささやく。そして孤立した桐森さんに、じわりじわりと嫌がらせを加速させていった。
完全に「感染」してしまったと私が気づいたときには、桐森さんは私がされていたこととはまた違う、殴ったり蹴られたりする日常を送るようになっていた。「男子に媚びてる」とか「色気づいて気持ち悪い」とか、そういう陰口も耳に届いた。
私はどうしたらいいのか分からなくて、五組の教室を訪ねるのも怖かった。私と関わらなければよかったと思ったのか。あるいは、私に心配をかけたくないと思ったのか。桐森さんも私の教室に来なくなっていた。
どうしよう。どうしよう。私のせいで、私を助けたせいで、桐森さんが。
秋が近づいてゆだる気候がやわらいできた頃、私はやっと勇気を振り絞り、五組に行くために教室を出ていこうとした。でも、そのときポケットのスマホが震えた。
どきんとして立ち止まり、恐る恐るスマホを手にして画面を確認する。
『待て』の文字。反射的に呼吸が引き攣る。そして、すぐにメッセは続いた。
『桐森花実ってムカつくよね?』
え……
『あんたもそう思うでしょ?』
……そんな、
『今、黒板の前で「桐森うざい」って言ったら、仲間にしてあげる』
スマホの画面を見つめた。
仲間。仲間に、なったら、もう絶対にあんなことをされない?
一瞬でもそう考えてしまった自分に、ひどい嫌悪感を覚えた。ただでさえ、桐森さんに何もできていないのに、さらに彼女たちに加担するなんて。私はその場を駆け出した。しかし、向かったのは五組の教室ではなく、あの本館四階の廊下だった。
桐森さんを助けたい。私も桐森さんを守りたい。でも、何をすればいいのか分からないし、何ができるのかも分からない。
また私に「感染」してくるのは怖い。同時に、私が桐森さんに「感染」させてしまったのが苦しい。
守ってくれた人を、保身や臆病で守れない自分が最低すぎて耐えがたい。彼女たちにされたどんなことより、このみじめな無力感がつらい。
四階の窓は風通しのためかいくつか開いていて、私はそこから網膜を焼くように太陽を見上げた。あの日のような、強い光が頭の中まで真っ白にする。
えんじのスカーフが風をはらむ。ふたりで洗ったセーラー服は、適当な言い訳をつけてクリーニングに出したから、今のところ綺麗になっている。
優しくしてくれてありがとう。せめて、それだけは伝えられたらよかったな。そして今、こんなふうに咲うことができるようになったのを見てほしかった。
私は何もできない。
助けることも、お礼を言うことも、もちろん彼女たちになることだってできない。
何も言えない無言のまま、こんなふうにあふれる光の中に飛びこんで、何も守れない自分から逃げることしかできない。
桟から身を乗り出す。相変わらずぼさぼさのおさげが風になびく。下を覗いて、ぶつかるような誰かもいないのを確認する。
ごめんね。ありがとう。あなたに迷惑をかける前に、私さえ早くこうしていれば──
そのまま重力に引きずられると、ずるりと窓をはみだし、私は地面へと落下していった。
FIN