月が淡くなっていく。晴れた夜明けの空に、静かに光が射しはじめる。
窓際に立つ私は、握っていたシルバーの指輪を蒼い空にかざした。透明な光が、銀色を通して瞳に刺さる。同時に目尻に走った、つうっとした痛みに、私は睫毛を霞ませる。
嬉しかったのに。愛してたのに。
君は私を拒絶した。破る約束をわざわざ交わして、それを裏切ってみせて。そこまでして、私をきっぱり拒絶した。
彼とのあの時間は、きっとすべて、愚かなものだった。
私は、幼い頃から親戚の家で育った。父親の顔は知らない。母親は三歳の私を、もう育てられないと施設を探した。それを知った伯父夫婦が、私を引き取ってくれた。
「あんたはいらない子だから、意地悪されるだろうねえ」
それが別れ際の母親の言葉だったから、私はびくびくと伯父と伯母に対面した。しかしふたりは、「ひどい毎日だっただろう」「つらかったね」と私を迎え入れてくれた。さらに、家では「妹ができた!」と従兄になる小学生の男の子が私を待っていた。
みんな、優しかった。伯父さんは絵本を読んでくれる。伯母さんはおやつを手作りしてくれる。兄となった耕太郎ちゃんとも、仲良くできた。
それでも、お荷物がいて可哀想とか、偽物が混ざった家とか、心ないことを言う人が近所や学校にはいた。けれど、私たちは確かに、四人家族として幸せだった。
やがて私は中学生になった。住宅街の中にあった小学校より、家のことに突っ込んで言う人は減った。友達と呼べる同級生も現れた。夏休みになっても、毎日いそがしいくらいだった。そんな私に、「ちょっと時間作ってくれないか」と高校生になった耕太郎ちゃんが声をかけてきた。
「桃果に会ってほしい人がいるんだ」
一階にいる伯父さんと伯母さんには、聞こえないようにしているみたいな小声だ。私は首をかしげたものの、「うん、いいよ」と深く考えずにうなずいた。
会ってほしい人。もしかして、耕ちゃんの彼女さんかな。そうだったら、仲良くなれるといいな。
そんなことを思いながら、耕太郎ちゃんに案内されて町境にある喫茶店に向かった。からんころんと呼び鈴が鳴る。耕太郎ちゃんを呼ぶ声がして、「こっち」と耕太郎ちゃんは私を席に案内した。
そこにいたのは、水色のシャツを着た物柔らかな顔立ちと雰囲気をまとった、男の人だった。歳は高校一年生の耕太郎ちゃんと同じくらいだろうか。アイスカフェラテは、まだそんなに減っていない。「初めまして、桃果ちゃん」と言われ、私はぎこちなく「初めまして……」と答えた。
「えっと、耕ちゃん……」
「席座れ。何でもおごる──」
「……え、もしかして、この人って恋人?」
耕太郎ちゃんは、一瞬表情を怯ませた。しかし、「桃果は鋭いな」と私の頭に手を置いた。「恋人」の男の人は、少し恐縮を見せながらも、改めて私に頭を下げる。
「直尚さんっていうんだ。同じ高校で、俺のひとつ先輩」
「そう、なんだ」
私はひとまず、席に着いた。耕太郎ちゃんはどちらの隣に座るべきか少し迷い、「ちゃんと話聞くよ」と私が言うと、ほっとした顔で直尚さんの隣に腰をおろした。
「えっ……と、耕ちゃんって、ゲイ……だったの?」
私と耕太郎ちゃんの注文を受けてウェイトレスが去ると、私のほうがそう切り出した。耕太郎ちゃんは自信なさげに伏し目になったけど、「うん」とうなずくときには私の目をはっきり見てくれた。
「俺は、女の子には興味が持てない」
「初めて知った」
「言わなかったからな。隠してたし」
「何で隠してたの?」
「いや、とうさんとかあさんが腰抜かすだろ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「私は平気だけどなあ」
私がそうつぶやくと、耕太郎ちゃんと直尚さんは顔を見合わせ、安心した様子で微笑みあった。
「桃果はそう言ってくれると思って、打ち明けようかなって思ったんだ」
「そっか。けっこう慣れてるよ、私。友達にBL読む子もいるし」
私の言葉に耕太郎ちゃんは苦笑したものの、細かいことは言わなかった。注文したアイスコーヒーとココアフロートが来て、私は「いただきます」と断ってから、ミルクアイスをたっぷり頬張る。
「家の中で、ひとり黙ってるのもしんどくてさ」
アイスコーヒーを飲んで、耕太郎ちゃんが弱く咲う。
「桃果が理解してくれたら、心強いかなって思って」
「そっか。うん、応援するよ」
「……よかった。サンキュ、桃果」
私がにっこりすると、「優しい妹さんだね」と直尚さんが言って、「うん」と耕太郎ちゃんは嬉しそうにうなずいた。直尚さんは私を向くと、「よろしくお願いします」とまた頭を下げる。
「僕のことは、まだ何も知らないと思うから、いきなり耕太郎のことは任せてくださいと言われても困るだろうけど。耕太郎の味方ではいてあげてください」
私はぱちぱちとまばたきしたあと、「ちゃんとした人、捕まえたねえ」と耕太郎ちゃんに言ってしまった。「何だよ、それ」と耕太郎ちゃんは照れ笑いしたけど、最終的には「俺にはもったいない人だよ」とかのろけていた。
直尚さんは、私たちの家に来ても、伯父さんと伯母さんには耕太郎ちゃんの「親友」として挨拶していた。でも、部屋でふたりきりになったふたりは、やっぱりそういうことを目的としているわけで。伯父さんと伯母さんがいないときでも、私がいれば頑張ってふたりは声や音は抑えているようだけど、壁越しでも気配で分かる。
低い喘ぎ。熱い吐息。交わす蜜語。
そんな、ふたりが愛し合う物音は、別に嫌ではなかった。けれど、何だか私までそわそわしてしまうのだ。気にしないように、宿題でもやろうとする。けれどある日、つい下着越しに自分で触れ、隣の部屋に耳を澄ましてしまった。
こらえた息遣い。聞き取れないささやき。こぼれ落ちる声。
びくんと軆が震えた。急に指先の感触に過敏になった。私は目をつぶり、つくえに伏せった。声を我慢して、指先を動かす。早送りの開花映像みたいに、ふと下半身に快感が広がった。ふわっとした感覚に包まれ、全身が断続的に痙攣した。
私は、薄目を開いた。解きかけの数式が視界に霞む。何してんだろ、とぼんやり思ったけど、すごく気持ちよかった。
こんなのいけないことだ。絶対に良くないことだ。
頭では分かっていても、耕太郎ちゃんと直尚さんの物音を頼りに、指先で快感を探してしまうようになった。ふたりがそれに気づいていたかは分からないけど、話題に出ることはなかった。
高校生になってずいぶんと経ち、私にも恋人ができた。優しい人だった。きちんと時間をかけて触れ、キスして、抱いてくれた。でも、私は彼に抱かれながら、耕太郎ちゃんと直尚さんの愛し合う声を思い出していた。
私、変になってしまったのかもしれない──
そんな悩みを、誰にも言えずにいた頃だった。耕太郎ちゃんは、大学の卒業と就職先を決めてから、ついに両親に直尚さんとの関係が「恋人」であることを打ち明けた。
伯父さんと伯母さんは、私の反応とは異なり、予想以上にとまどっていた。一応、「そういうことは、自由でいいんじゃないかな」と言ったけども、明らかに耕太郎ちゃんに対して態度がぎこちなくなった。
耕太郎ちゃんは、まもなく直尚さんと暮らしはじめた。やはり、両親のぎくしゃくした反応が苦しかったのかもしれない。
「桃果は、つきあってる人はいないのか?」
三人になった食卓で、苦し紛れだったのだろうけど、伯父さんがそう尋ねてきた。私は同じ高校に彼氏がいる話をした。ふたりは、私の相手が「異性」であることに、見るからにほっとしていた。ここに耕太郎ちゃんいなくてよかった、と思ったけど、同時に、仲良しの四人家族には戻れないのかなと不安になった。
伯父さんと伯母さんは、私と彼氏の仲を応援してくれた。耕太郎ちゃんと直尚さんのことは、お世辞にも、同じくらいに祝福しているとは言えなかった。それでも、耕太郎ちゃんたちは妬んだりせず、私の恋を温かく見守ってくれた。
私も大学生になった春、伯父さんの妹から連絡が入った。私の母親だ。個人の連絡先は分からなかったのか、家電をかけてきた。
母親は、また考えなしに子供を作ったらしい。その男の子を伯父さんに押しつけ、自分は自由でいたいからと捨ててしまおうとしていた。
もちろん、伯父さんは母親の軽率さに激怒した。けれど、現在すでに育児放棄されている甥のことは、気になるようだった。
しかし、伯父さんも伯母さんも、これから育ち盛りの子を家を受け入れ、責任を持って面倒を見れる年でもなくなっていた。伯父さんと母親は、電話口で言い争っていた。母親はどうしようもない人間で、引き取らないなら買い取ってくれるところもあるから、なんて言っているらしい。
私は申し訳なくて、「ごめんなさい」と泣きそうになった。「桃果は悪くないから」と伯母さんはなだめてくれたけど、私が前例になったから母親は調子に乗っているのだ。
初夏の連休、家に顔を出した耕太郎ちゃんが、伯父さんと母親が口論する場に鉢合わせた。私と伯母さんから事情を聞いた耕太郎ちゃんは、苦い面持ちを浮かべても、「桃果が謝ることはないから」と私をなだめてくれた。
それから、電話を切った伯父さんに、耕太郎ちゃんは詳しい事情を訊いた。しばらく考えていた様子だけど、「可哀想だが、その子はせめて良い施設に……」と伯父さんが言いかけたとき、「いや、」と耕太郎ちゃんはさえぎった。
「とうさん、かあさん。それから、桃果。その子は、俺と直尚が引き取って育てるのはどうだろう?」
伯父さんと伯母さんは、驚いて耕太郎ちゃんを見た。私もだ。耕太郎ちゃんは真剣なまなざしだった。
「俺は……直尚と家庭を持ちたい。でも、子供はむずかしいって分かってた。覚悟はしてた。でも、俺と直尚でその子を育ててもいいって言ってくれるなら、責任を持って預かりたい」
私も、伯父さんも伯母さんも、ぽかんと耕太郎ちゃんを見つめた。耕太郎ちゃんは、真摯にそれを見返してくる。最初に泣き出したのは、伯母さんだった。
「私たちは、耕太郎と直尚くんとのことを、ちゃんと受け止めてあげられなかったのに……」
「いいんだよ、そんなこと」
耕太郎ちゃんは優しく微笑み、母親の肩をさする。
「桃果の弟を俺たちに任せてくれるなら、それが一番、信頼されてる自信になるから」
弟。そうか。その子は、私の弟になるのか。
そんなことに初めて気づいていると、「桃果も、弟を俺に任せてくれるか?」と耕太郎ちゃんが問うてきた。私はうなずき、「耕太郎ちゃんたちしか、いないと思う」と頭を下げる。伯父さんも謝罪を述べてから、「お前たちが育ててくれるなら、俺も安心だ」と言った。
そうして、耕太郎ちゃんと直尚さん、私の弟である梨樹の生活が始まった。小学生になったばかりの梨樹は、初めは怯えた反応や表情が多かった。でも、耕太郎ちゃんと直尚さんに守られ、やがて無邪気に笑ってくれるようになった。私にもよく懐いて、伯父さんと伯母さんも安堵している様子だった。
梨樹はあっという間に中学校を卒業し、高校生になった。私はあの優しい彼氏と結婚に至り、育った家を出ていた。夫になった彼も、梨樹をかわいがってくれている。なので、梨樹はよく駅前マンションの八階にある私たちの部屋にやってきた。
「家、帰りたくないなあ……」
最近の梨樹は、そんなことをよく言う。
「耕ちゃんも直尚さんも、心配して待ってるでしょう」
紅茶を出した私がそう言うと、「だからだよ」と梨樹はむすっとした顔を見せる。
「何で俺、ホモに育てられなきゃいけなかったの? 恥ずかしいよ。そのせいで、俺もホモじゃねとか言われるし」
昔は何の疑問もなく、耕太郎ちゃんと直尚さんを育てられていた梨樹だったけど、成長したことによって、男の人同士に育てられることに悩むようになったらしい。
「育ててもらったんだら、『ホモ』って言い方は──」
「俺は桃ちゃんと伯父さんたちと暮らしたかった」
それは当時の事情で無理だった、なんて残酷で言えない。「よほど帰りづらい日は、うちに泊めるぐらいはしてあげるけど」と言うと、紅茶に角砂糖を投げ込んでいた梨樹は、「言質取った」なんて言って、やっとにっこりした。
そんな梨樹が、高校二年生になった冬だった。梨樹は進学について耕太郎ちゃんと直尚さんに何かと言われるのが、ますます鬱陶しくなっていたようだ。私の家に来て、「今日はもう帰らない」としょっちゅう言い張った。
耕太郎ちゃんには、私から連絡しておく。「ごめん、俺たち頼りなくて」と言われるけど、「私もあの子の姉だから、任せて」と答える。それから、三人ぶんの夕食を用意する。
その夜は、肉団子と白菜のクリーム煮をじっくり煮込んでいた。お鍋をゆっくり混ぜ込むことに集中していたので、背後に梨樹が来ていたことにも気づかなかった。
「桃ちゃん」
「え、」と振り返った瞬間、ぐいっと腕を引っ張られた。そのまま、唇をふさがれた。はっと目を開いて、相手が梨樹だと分かると、私は本能的にもがいた。
でも、梨樹は素早く私の腰を抱きしめていた。そのまま深く口づけてくる。舌の動きはつたないけど、必死だった。
りき、と呼ぼうとした。その発音の瞬間、舌が触れて、私はつかまった。梨樹が私を抱く腕に力がこもる。
「……っ」
腕を抜け出せない。顔を背けられない。無邪気な小学生だったのに、こんなにしっかりした男の子になっていたのか。
キスを交わす水音が響く。頭が痺れてくる。息継ぎもしない、長い長いキス。
「……俺、」
やっと梨樹が唇をちぎった。お互いの口元を唾液がしたたった。
「ずっと好きだった」
「え……」
「姉貴だって分かってる。それでも、桃ちゃんが好きなんだ」
「梨樹──」
「桃ちゃんと、ずっと一緒にいたい」
梨樹は、私にキスを繰り返した。理性が麻痺していく。こんな、貪るようなキスは、優しい夫はしない。
私は梨樹の制服をつかみ、舌の動きに応え、彼にキスを教えてしまった。
ぐつぐつと音を立て、クリーム煮がおいしそうな匂いと煮立ってくる。私は火を止めた。
梨樹は私をリビングに連れていくと、広くないソファで私を愛した。梨樹に突かれながら、声がもれる。夫と寝るとき、私はこんなに反応しない。こんなの──昔、切ない声をこらえきれなかった、耕太郎ちゃんと直尚さんみたい。
私は、梨樹と関係に溺れていった。誰も知らない。みんな知らない。むしろ、実の姉として梨樹に寄り添ってくれて有難いと、家族は梨樹を私に預ける。夫も何も知らないまま、梨樹を歓迎していた。
みんな優しいのに。その優しさを私は穢している。梨樹に何度も抱かれて、そのたび梨樹を愛していく。
高校を卒業する前、梨樹は私にシルバーの指輪をくれた。進学のために、町を出ることが決まったそうだ。
「絶対、迎えに来るからね」
そう約束して、梨樹は町を出ていった。私はその背中を見送った。たぶん、本当に迎えに来るのだろうとあてもなく思った。
春に咲き誇った桜が散り、風音に緑がささめく初夏も終わり、陰鬱な梅雨が明けた。夏が来た。昔とはずいぶん違う、異常気象のうだる夏。エアコンのきいた部屋で、最近始めた在宅の仕事をこなしていると、スマホが鳴った。
耕太郎ちゃんだ。
『最近どうだ?』
「んー、在宅でも仕事って大変」
『そっか。俺は……寂しいな』
「寂しい?」
『何だかんだ、梨樹の成長をずっと見守ってきたけど。それがなくなったし』
「そっか」
『あいつ、向こうで彼女と暮らしはじめて、うまくいってるみたいでな。仕送りも断るんだよなあ』
「……えっ?」
『あいつとしては、俺たちには頼りたくないのかな』
私はスマホを握りしめた。彼女。彼女と……暮らしてるのか、あの子。そうなんだ。
電話のあと、私は梨樹がくれた指輪を見つめた。本命は……私だよね? そんな浅はかなことを思った。
私は、ただひたすら梨樹を待った。
夫は仕事が軌道に乗って、優しいところは変わらなくても、あまり私との時間を取れなくなった。もちろんセックスレス。私はよく自分をなぐさめた。結婚指輪を外し、シルバーの指輪をつけて、梨樹に愛された感覚をたどった。
梨樹が戻ってくることはなかった。
迎えにも来なかった。
耕太郎ちゃんによると、梨樹が二十歳になったであろう頃、ついに連絡もつかなくなったそうだ。
ああ、約束は嘘だったんだな。やっと私は理解してきた。破る前提で約束をして、それを引き裂いてみせて、あの子は思いっきり私を拒絶した。
私は、道を間違えたとしても、梨樹が迎えに来たらついていくつもりだった。すべて裏切ることになっても、弟を選ぶつもりだった。
愚かだった。弟を本気で愛してしまったなんて、あまりにも愚かだ。でも、あの子との時間は、私にとってあまりにも愛があふれていた。
──黎明の頃、隣では何も知らない夫がまだ眠っている。私は今夜も眠れなくて、起き上がると窓際で夜明けを見ていた。手放せないシルバーの指輪が、薄れゆく月光にきらめく。
この指輪、どうしようかな。たぶん、捨てたほうがいいんだろうな。でも、寂しいんだ。あの子との時間が泡みたいに消えるのは、すごく寂しい。梨樹が残したものを、捨てるのはつらすぎる。
だから、引き出しの中の宝石箱にしまう。もうやめるから。取り出して眺めることはやめるから。ただ、これは持っていたい。
愛していた。
嬉しかった。
でも、もともと禁じられた関係だった。だから封印して、忘れて、思い出すこともなくなって。
梨樹の無邪気な笑顔を思い出そうとした。わりと、そんなに鮮明にはよみがえらなかった。
朝陽がのぼっていく。空が明るく目覚めていく。蒼から青へ。空の色は溶けて、混ざり合い、朝になる。
その青さに、残像した銀の光も飲みこまれ、私の中に染みついた愛の名残は、流れる涙と共に消えていく。
FIN