おかあさんは、男の人に愛されるのが上手だった。それはいずれ壊れるものではあったけど、いっとき、私のおとうさんになった男の人はおかあさんに甘え、優しく愛していた。
おかあさんの仕事は娼婦。男の人の存在が切れることはなかった。
おかあさんは、私のおとうさんを引き止められなかったことをひどく悔いていた。だから私を生んだのだけど、生んだせいで余計におとうさんを思い出して引きずることになり、よく泣いていた。
私が心配になっておかあさんの寝室を覗くと、おかあさんは私を見つめて、「あんたを生まなきゃよかったのかな」とつぶやいた。憎しみすらこもっていない、虚ろで冷めた口調だった。
私は怖くなって寝室を引っこむと、リビングの窓から昇る朝陽を見つめた。
やがて十六歳になり、私も娼婦になった。おかあさんのお客さんの何人かが面倒を見てくれて、私の部屋やそこに必要なものを揃えた。特に私の処女を買い上げた人はよく世話をしてくれて、そのぶん、私はその人に奉仕して技術も教わった。
自分の生活をまかなえるくらいの稼ぎが出てくると、ときおり休みを取ってクラブに出かけ、同い年くらいの男の子と寝た。わりと優しくしてくれる男の子が多かったけども、おかあさんが男の人から受けていた、「愛」を感じることはなかった。
ひと晩限りの割り切った関係が渦巻く場所で、愛してくれる人を探しているなんて、無駄なのかな。
優しい人はいっぱいいる。すぐに見つかって、簡単に私を抱いてくれる。でも、その優しさはしょせん私に対する一時的な欲望のためのものだ。
おかあさんは、けして私を愛していたわけではない。おとうさんとの想い出のために生んだだけだ。
くるくる変わったおとうさんたちも、私の存在を疎む人が多かった。謗る人も、殴る人もいた。あの人たちは、おかあさんに私さえいなければ結婚したかったのだろう。
誰にも愛されたことがない。その不安感で、私はクラブに集う男の子たちに愛を求めた。
そんな生活が数年続き、十九歳になった。
その冬は暖冬だった。ストーブの前にいないと、震えるような冷えこむ日もあるけれど、そんなに着こまなくても平気な夜もあったりして、寒暖の落差が激しい。
夕方に目を覚ました私は、チーズトーストと豆乳を胃に入れた。今夜は冷える日だなあ、と思いながらシャワーから上がると、床に置いて充電につないだままのスマホのランプが光っている。
私を切りまわしている周旋屋さんからのメールだった。今日、ひとりお客さんがついたらしい。
待ち合わせ場所はファーストフードで、時刻は二十一時。初めてのお客さんで、いつもながら初会はちょっと緊張する。出れることを周旋屋さんに返信しておき、私は用意していたルームウェアでなく、仕事用の服を着た。
白いセーターと赤のタータンチェックのミニスカート、黒いタイツに茶色のヒールブーツ。それから、ピンク系の柔らかい化粧をして、腰まで伸ばした髪をさらさらのストレートに流す。
支度に追われていると、すぐに二十時になってしまい、急いで部屋を出た。ドアの向こうでは雪がちらついていた。寒いわけだ、と息をつくとその吐息も白い。
カレンダーでは、そろそろ年末だっけ。そんなことを思い出しつつ、羽織った黒のファーコートに身をすくめる。鍵をかけると、バッグを肩をかけ、アパートを出た。
冷え切った空気に、靴音がかつかつと響く。
風俗店やモーテルが綯い混ぜになった街並みに出ると、その一角にある、二十四時間営業のハンバーガーのファーストフード店に入った。ちょっと効きすぎているぐらいの暖房がじわりと軆に染みいる。
騒がしい店内は、ただのお客さんより、見てすぐに分かる娼婦や男娼が多い。私はコーンスープだけテイクアウトすると、空いていたふたり掛けの席に腰を下ろした。お客さんはこちらを先に知っているので、私は声をかけられるまで待つ。
コーンスープをかきまぜると、優しい匂いが鼻をくすぐる。かなり熱そうなので、少し冷めてから飲もう。今から仕事なら、口の中を火傷している場合でもない。
窓を振り向き、雪まだ降ってるあ、とちらちら光る白い欠片を眺めていると、不意に源氏名を呼ばれて、はたと声のしたほうを向いた。
「あ、僕、宮下ですけど」
周旋屋さんのメールにあった名前と、一致はしたけど──その人がまだ二十歳ぐらいで、私と同世代であることに、ちょっとびっくりした。若いお客さんも取ったことはあれど、やっぱり年上だった。
同年代で娼婦を買っちゃうってすごいな。そう思っても、顔には出さずに「待ってました」と私はにっこりする。
「すみません、急に予約入れた感じになって」
「いえいえ。ごはん食べていきますか?」
「え、と──いや、食べてきたんで」
「そうですか。じゃあ、ここは出ましょうか」
私は立ち上がり、彼のスーツの肩に少し積もった粉雪をはらった。「あ、」とどぎまぎする彼は、童顔でかわいらしい感じの顔立ちをしている。
スーツってことは、会社で働いているのかな。だとしたら、見た目は若くても、意外と年齢は重ねているのかも。
そんな観察を素早くを走らせながら、私はほとんど飲まなかったコーンスープを捨てて、彼とファーストフードを出た。
雪はまだひらひら降っていて、「寒くないですか?」と私は彼に訊く。「寒いですね」とコートを着た彼は、「手をつないでいいですか」と問うてきた。私がこくんとすると、彼は恐る恐る私の手を取って握る。腕にくっついて胸を当てるくらい仕事のうちなのだけど、彼が私と手をつなぐだけで緊張しているので、やめておいた。
「行きましょうか」と言うと彼はうなずき、ふたり並んでピンクやオレンジのネオンが散らばる雑踏に紛れこむ。
「二時間って聞いてますけど」
「あ、はい。二時間でお願いします」
「じゃあ、ホテルに行っちゃいます?」
「ホテル……」
「外を歩いてても凍えそうですし」
「そう、ですね。どこのホテルがいいとか、ありますか」
「それはスイートルームなら嬉しいですけど」
「えっ」
「ふふ、冗談です。私がよく使うお手頃なモーテルで」
「そこで、お願いします。すみません」
ずいぶんと純粋な男の子だなあと思う。あるいは、私がすれているのだろうか。娼婦相手に、そんなに恐縮なんかしなくていいと思うけれど。
モーテルに到着して、パネルでなるべくシンプルな部屋に決めると、私たちは狭いエレベーターでその部屋におもむいた。
部屋そのものは質素でも、明かりがピンク色で淫猥だったので、私はてきぱきと照明の色を変える。彼は入口に突っ立っていて、私に呼ばれて、はっと室内に踏みこんだ。
暖房をつけて、まず彼の紺のコートを脱がせた。私もファーコートを脱ぎ、ふたつの上着は入口にあるクローゼットのハンガーにかけておく。
彼はベッドサイドに腰かけ、何だかため息をついていた。私はさりげなくその隣に座ると、「けっこう疲れてますか」と彼の顔を窺ってみる。
「あ、……まあ。というか、緊張して。こういうの初めてだし」
「女を買うことですか?」
「はい。そんなに、すごく興味があるとかでもなくて」
「もしかして、上司に予約つかまされたとか」
「………、キャバクラとか風俗は連れていかれますけど。こういうのはさすがに」
「じゃあ、私のこと、ツテで知ったとかじゃないんですね」
「紹介してくれる電話番号で、好みの感じを伝えたらあなたでした」
「えー、私、ちゃんと好みでした?」
「はい。おっとりしてる感じ、とか言ったから」
おっとりしてるかな、と首をかしげていると、「それと、ゆっくり話せる人がいい、って」と彼はつけくわえる。「話せる感じ」と私がまばたくと、「僕、ほんとはそういうことができるか分からないんです」と彼は睫毛を伏せた。
「分からない、って──」
「あ、もちろん二時間ぶんのお金は出すので」
「……はあ」
「すみません、僕みたいなのは面倒って分かってるんですけど」
「ええと、じゃあ、プレイはしないってことですか」
「……できない、ので」
私の視線に彼はあやふやに咲い、「僕、不能なんです」と自分の膝の上で両手を握った。
「プロの娼婦さんなら、可能にしてくれるかもって思ったけど……やっぱり、怖い」
「怖い」
「僕、子供の頃から、親の友人の男の人にそういうことされてて。高校卒業して、すぐ家を出て就職したんです。まだ二年目で、使えない社員ですけど」
「え……と、じゃあ、二十歳くらいなんですか」
「はい。二十歳です」
本当に同世代だった。親の友人に。男の子にも、そういうことってやっぱりあるのか。
「今は大丈夫なんですか」
「え」
「その男の人が、追いかけてきたりとか」
「それはないです、けど。どうしても性的なことが怖くて、気持ち悪いです」
「……そうですね」
「ごめんなさい、娼婦さんにとっては仕事なのに」
「いえ、ぜんぜん」
「………、たぶん、頑張ってもらっても、無理なので。話せるような人がいいなあって思ったんです」
「病院とかは。心療内科とか」
「行ってみたけど、言えないだけでした」
「……私には、言えましたね」
「そう、ですね。あなたがほんとに話しやすいので」
私は照れ咲いをこぼし、それから、そっと彼の手に手を重ねた。
「無駄かもしれなくても、私はやってみてもいいですよ?」
彼は私の瞳を見つめ、また曖昧に咲ってから、首を横に振った。たぶん、強引に迫ると彼にとっては苦痛になるだろう。お客さんを少しでもほぐすのが私の仕事だから、きっと、行為に押し切るのは違う。
私は重ねた手を離して、「じゃあ、お話聞きます」と微笑んだ。彼はちょっと躊躇ったものの、小さく咳払いをすると、静かに、幼い頃からの傷口を吐き出しはじめた。私はうなずいたり、相槌を打ったりしてその話を聞き、彼が涙を落としはじめると、バッグのハンカチを渡した。
「……ありがとうございます」
「え」
「こんな、話すだけなんてさせてくれて」
「私でよかったんですか?」
「はい。会ったときから、優しそうって思いましたし」
「……私は、優しくなんて」
「優しいですよ。聞いてくれたじゃないですか」
彼の清らかな笑みに、私は少し首をかたむけて困ってしまう。かしこまっていた彼が、そんな笑みを見せてくれたのは嬉しかった。
そして、気づくと時刻は二十三時が近く、約束の二時間になろうとしている。私はバッグから名刺を取り出し、トークアプリのIDを走り書きしてから彼に渡した。
「これ──」
「また話したくなったら。次はお金もいらないので」
「え、いいんですか」
「カウンセラーでもないのに、本来なら今日だってお金はもらえないですよ」
「………、僕、何もあなたに返せないですよ?」
「じゃあ、いつか私に触れてください」
「えっ、触れる……って」
「私も、あなたみたいな人を探してたのかもしれないです」
彼は不思議そうにまばたきをする。私ははにかんで咲うと、「次は私のこと話します」と約束した。すると彼も小さく微笑し、「聞きたいです」とうなずいてくれた。
その微笑に、心がふわりと灯る。闇で光りながら降る雪のように、幼い頃から飢えていた心に、彼の物柔らかな笑みが光を点ける。
ああ、この人に触れてもらいたいな。そばにいてほしいな。
この人なら、私に「愛」を与えてくれるかもしれない。
おかあさんがけして私に向けなかった「関心」を持ってくれた。私のことを、聞きたいって言ってくれた。
だから、次は客と娼婦じゃなくて、まだ若い男女として。
お互いを知って、降りそそぐ雪灯りを増やして、心についた傷を癒やしたい。
コートを羽織って、私たちはモーテルを出た。相変わらず粉雪が降って、積もるほどではなくても景色を淡雪で染めている。
終電までに帰らなくてはならない彼を見送ると、私は真っ白な吐息をつき、夜空に灯る雪の中を歩き出した。
FIN