きっと、生まれなければよかったのだ。こんな気持ちも、こんな俺も。何もかも、それでうまくいっていた。
その鋭利な真実に喉がちぎれるほど俺は泣くけど、もう、取り返しはつかない。
小学生になって、家からかあさんがいなくなった。卒園式あたりから、かあさんが荷物をまとめるのは見かけていた。「何してるの」と訊いても、かあさんは弱く咲って俺の頭を撫でるだけだった。
そしてついに、とうさんがかあさんにはもう会えないと言った。何で、と言いたかったけど、いつもかあさんは帰りの遅いとうさんを待ちながら暗く顔を伏せていた。
幼心に、訊くまでもなかった。
「祈里に本当のおかあさんを紹介したいんだ」
それから、一年ぐらい経った春休みだった。とうさんとふたりの食卓で、突然とうさんがそう言った。
本当の、という言葉に動揺していると、「お前のかあさんはあの人なんだがな」ととうさんは慌てて言葉を継ぎ足す。
「とうさんの本当の好きな人は、別にいるんだ」
「本当の……」
「その人が、きっとこの家庭も明るくしてくれる。だから、祈里にも会ってほしい」
「会って、仲良くしなきゃいけないの?」
「とうさんはそうしてほしい」
眉を寄せて、うつむいた。本当の好きな人。じゃあ、とうさんって、かあさんのことは──
香辛料の香りが立ちのぼっている。とうさんとふたりになって、夕食は簡単に作れるカレーが増えた。
その人が来たら、メニューだってかあさんがいた頃のように増えるのだろう。そう思ってみた。けど、そんなの、ちっとも嬉しくなかった。だって、この食卓で俺のごはんを作っていいのは、かあさんだけだ。
やだ、と言おうとした。かあさん以外の女の人なんて、いらない。毎日カレーでも、家の中によそ者がいるよりずっといい。
「すごく優しい人だから」ととうさんは言った。俺はとうさんを見た。その目はしょせん、俺に有無など言わせる様子はなかった。
「初めまして、祈里くん」
天井がガラス張りの星空が見渡せるレストランで、彼女に出逢った。そう言って微笑んだ女と手をつなぐ彼女は、垂れ目っぽいけど大きな瞳に俺を映した。
俺よりいくつか年下だろうか。無邪気ににっこりとされて、咲い返すべきか分からず、俺はとうさんを見上げた。
とうさんは女を席に座らせ、彼女のことは抱き上げた。
「おとうさん、この人がおにいちゃん?」
おとうさん。おにいちゃん。何言ってんだ、と狼狽えているのに、「そうだよ」ととうさんはあっさり言って、彼女の頭を撫でて女の隣の席に座らせる。
「祈里も座りなさい」
「……俺、」
「ほら、好きなものを頼んでいいぞ」
とうさんに席をうながされながら、女の隣の彼女を見た。俺の視線に気づくと、彼女はまた咲った。
「この子は、小由里って言うのよ」
女がたおやかに笑みながら、彼女──小由里の長い髪を撫でた。
「祈里くんの妹だと思ってね」
妹。妹って。
そんなのが来るなんて聞いていない。ただでさえ、とうさんの本当の好きな人なんて、そんなのに会うだけで気が重かったのに。
「それは気が早いだろうが──」
とうさんは苦笑して、女の正面に腰かける。俺は小由里の正面の席に着く。
「まあ、いずれはそう思ってくれるだろう?」
とうさんは俺の頭をぽんぽんとした。女はメニューを取り上げ、「おいしそう!」と小由里は声を上げる。そんなふたりを、とうさんは愛おしそうに見つめる。
そんな目、かあさんには決して向けていなかった。俺にも、向けたことはあったか? とうさんがそんな優しい視線が紡げるなんて知らなかったから、やはり、向けられたことはないのかもしれない。
何だ。何だよ。違うじゃないか。こんなの、「よそ者」は俺のほうじゃないか。
ふと、とうさんが硬直する俺を見た。ぱっとうつむいて、メニューではしゃぐ小由里をそっと上目で見る。
……妹。
「祈里くんは何を食べたい?」
妹って。
「とりあえずカレー以外だよな」
こんな……
「何で? カレーおいしいよ?」
……ダメだ。ダメだダメだダメだ。
こんな心臓、ダメだ。引っ張られそうな意識を必死で断ち切る。体温も落ち着け。見つめたりしてもダメだ。
妹? そんな存在自体、認めたくない。その女だって。こいつらがいるから、とうさんはかあさんを追放した──
「おにいちゃんは、カレー嫌いなの?」
「……い」
「おにいちゃん?」
「うるさいっ、俺はかあさんのカレーしか食べないだけだっ」
声を荒げた俺に、「祈里!」ととうさんが一喝入れた。その声に俺は思わずびくんとこわばる。周りも何人か振り返る。
女の表情が、見る見る硬く凍っていく。小由里も不安そうにとうさんを見つめる。そんなふたりに、「すまない」ととうさんは息をついた。
「祈里、もうかあさんのことは忘れなさい」
「俺のかあさんはかあさんだけだよ。こんな女の人、いらない。妹だっていらないっ」
「祈里っ──」
「祈里くん。私のことは、認めてくれなくていいの。でも、小由里のことは分かってあげてくれないかしら」
女を見た。小由里はすっかりすくんで、母親を見つめている。
「小由里と祈里くんに血のつながりがあるのは事実なの。おとうさんがこの人なのは同じなの。だからお願い、小由里のことは妹だと思ってあげて」
血がつながってる……? とうさんは同じ……? 妹だ、なんて、そんな──
じゃあ、俺のこの気持ちは、どうなるんだ。こんなに、平静でいられないくらい、小由里のすがたに心臓がざわめく。この気持ちが、許されないじゃないか。妹だと認めたら……この、息苦しさが罪になる。
頭上では星がきらきらと輝いている。その瞬きのように、脊髄がほてっている。
「おにいちゃん」と小由里が俺を窺ってくる。小由里の瞳を一瞥した。「小由里はね」と小由里は俺を見つめてくる。
「おにいちゃんと、仲良くなりたい」
……見るな。その目で見るな。仲良く? できるもんか。そんなの受け入れられるか。
ひと目で、俺はお前に恋をしたんだ。
許せなかった。かあさんを捨てたとうさんも。割りこんできた女も。悪気なく話しかけてくる小由里も。小由里を直視できない自分も。
いろんなことが許せないまま、とうさんは女と再婚して、三年生に進級する頃には四人で生活するようになっていた。
とうさんが幸せになったこと。義母になった女が明るい食卓を作っていること。小由里が両親が揃って暮らすようになって喜んでいること。
分かっていた。俺もそれを祝福すればいい。俺さえ笑顔になれば、この家庭はちゃんとした家族だった。
でも、どうしてもそれができなかった。そうするには、小由里を家族だと認めたら心が切断される恐怖が、どうしようもなかった。
とうさんに声をかけられても無視する。義母の作った食事を食べない。小由里があとをついてこようとしたら、振りはらってどんな時刻だろうと家を出た。
家を離れるほど、強がっていた心が不安に覆われて弱くなる。山を切って作られた住宅街だったから、そばに未開発の野原があった。俺はその草の中に座りこんで、膝に顔を伏せ、すっかり弱りきった心のまま声を殺して泣いた。
この気持ちさえなければ、素直になれていたのだろうか。分からない。結局、かあさんにしがみついて、こうして反発していたのかもしれない。
でも、一緒に暮らすほど理解はしていった。とうさんは義母や小由里を愛していて。義母はとうさんも小由里も俺のことさえ大切に想っていて。小由里は家族の仲がうまくつながることを願っていて。
俺だけ不協和音だった。それが余計に俺を捻くれさせた。
俺なんかいなければ。きっとみんな、本音では思っている。この家に「いらない」のは俺だ。俺さえいなければ、家庭は幸せに丸くなる。
勝手に感じる疎外感で、中学生ぐらいになると、いっそう拒絶をあらわにした。本当は受け入れたいくせに。受け入れてほしいくせに。小由里に優しくしたいくせに。優しくしたら、歯止めがきかないんじゃないかと怖くて、かえって冷たく当たってしまう。
ガキかよ、と思いながら、クラスメイトに譲ってもらうようになった煙草でもどかしさをこらえた。好きな女の子をイジメるみたいな、こんな状況、どれだけ古いんだ。
俺が高校生になったとき、小由里は中学生になった。俺の反発に、親さえさすがにあきらめがちになっていたのに、小由里は根気よく話しかけてきた。
子供の頃のように率直な表現はしなくなったが、家族と仲良くしてほしいようなことを言ったり、俺を夕食に誘ったりした。そのたび俺は突き放していたけれど、妙な安堵も覚えていた。
「おにいちゃん」
帰宅してただいまも言わずに階段をのぼりかけていたら、小由里に呼び止められた。俺は足を止め、自分でも嫌になる冷たい眼を小由里に向けた。小由里はすくみかけても、幼い頃のように逃げて目をそらすことはしない。
「今日おとうさん、早く帰ってこれるって」
「は? だから何だよ」
「あの、だから……」
「んなこと知らねえよ。三人で外食でも行けばいいだろ」
吐き捨てて階段をのぼろうとしたら、踊り場に来たところで小由里はまた俺を呼んだ。俺はわざとらしい息をついて振り向く。
「お前──」
「おとうさんもおかあさんもっ」
「あ?」
「おにいちゃんが理解してくれるの、待ってるからね」
「………、」
「私も、待ってるから。おにいちゃんが、心開いてくれるの、待ってるよ」
小由里を見つめた。大きな瞳。さらさらの髪。細い軆。胸の苦しさは、成長するほど強くなっていく。
それを引き裂いて、現れないように踏み躙って、俺は皮肉な笑みだけ浮かべる。
「っそ。勝手にすれば」
昔のように怒鳴り返すことはなくなったものの、そんなふうにあしらって部屋に戻る。
本当は、ひどくほっとしている。まだだ。まだ小由里は俺を見切っていない。話しかけてくる。親はどうだか知らないが、まだ、小由里は俺をあきらめていない。
そのまま高校を卒業して、俺は大学に進学したものの、ろくに通学せず、適当な友達やいい加減な女と遊びに耽った。
とうさんに怒鳴られることが増えたが、俺は俺で「浮気相手とよろしくやったくせに」と増えた余計な知識でこの家庭をなじった。とうさんが俺を殴ろうとしたとき、止めに入ったのも小由里だった。
「小由里、」
「そんなことしたら、おとうさんが後悔するよっ」
「しかし、こいつもいい加減に──」
俺は冷笑をもらして、「私生児が善人ぶるなよ」とつぶやいた。小由里が俺を振り返る。
「うざいんだよ、お前が一番鬱陶しいんだ。お前さえいなきゃまだマシだったのに」
とうさんが俺の名前を怒鳴った。小由里も泣くと思った。でも、小由里は狼狽ひとつせずに俺を見つめて──ただ、哀しそうに咲った。
俺は舌打ちして家を出た。何だよ。ちくしょう。もう何が何だか分からない。
どこかで思う自分が悔しい。そんな笑顔はするなと、あいつを抱きしめてやれたら。あの笑顔は俺がさせたというのに、何だというのだ。自分の感情も言動も、自分で制御できない。後悔の思考だけが、怯えた思考だけが、喉をきつく絞めあげる。
やがて小由里も高校を卒業して、大学に進んだ。俺は結局退学して、昼も夜も街に出てふらふらと自堕落に過ごした。
小由里と出逢って、何度目の冬だっただろう。やたら冷えこむのに金もなく、仕方なく家に帰った。零時をまわろうとしていた。玄関で無言で靴を脱いでいると、「おかえりなさい」と声がかかって顔を上げた。
やっぱり、小由里だ。俺は答えず、目もそらしてすれちがおうとした。「おにいちゃん」と小由里が俺の手をつかんできた。
どきんと跳ねてしまった心臓に立ち止まり、その冷たい指から伝わる感触に視線が彷徨いかけて、何とか足元に抑えつける。
「な、……何だよ」
「私ね、この家からいなくなるかもしれないの」
思いがけない話に、目を開いた。「だから」と小由里は俺の手を握ってまっすぐ見つめてくる。
「ほんとにお願い。おとうさんたちと、和解して」
「は……?」
「私はもう、おにいちゃんとおとうさんたちとのあいだに、いられなくなるの」
「いなくなるって、」
「私、好きな人が、いるの」
……え。
「その人に、大学卒業したら結婚しようって」
何──
「ずっと、好きだった人なの」
何……言ってんだ。
「子供の頃から仲良くしてた男の子で、いつも、彼が励ましてくれた。おにいちゃんにひどくされても、彼がいるから、なぐさめてくれるから、仲良くなろうって頑張れた。彼も、どうすればおにいちゃんが家に帰ってくるのか、一緒にたくさん考えてくれた」
視界が、くらくらと白黒になる。心臓が急速に蝕まれていく。呼吸が痙攣しかけて、唇を噛んでこらえる。手を握っている小由里の指が、感覚から遠ざかっていく。
そんな男、いたのか。……そうだよな。ひとりで、あんなに強く俺ととうさんのあいだに入れたわけないよな。支えてくれる奴がいるからに決まっ──
息を吐いた。一緒に、壊れた笑いがもれた。
何を期待していたんだ。小由里は、本当に俺の妹で。俺を兄としてしか見ていなくて。男としてなんて、一瞬だって見たことはなかったのに。何を、まだ、あきらめてないなんて……あきらめるも何も、小由里は俺に、優しい兄になること以外は求めちゃいない。
「……消えろよ」
「えっ──」
「消えろよ、お前なんか! とっとと俺の前から失せろ、お前なんか嫌いなんだ、ずっと嫌いだった! さっさと嫁にでも何でも行っちまえっ」
小由里の視線が揺れた。揺れたまま、「どうして」とつぶやいて、ついに小由里は泣き出した。
俺は小由里の手を振りはらって、玄関に引き返して家を出た。凍てついた風と白い息が頬を切る。ひた、と冷たいものが触れる。
野原に着いて顔を上げると、冷え切った月の光が目を刺した。そして、薄雲から柔らかい雪がちらついて、肌に沁みこんだ。がくんとしゃがみこむと、草むらは夜露に湿っていて、俺は寒さと嗚咽に震えた。
終わった。ついに終わった。この気持ちはいよいよ否定された。拒絶されるつもりもないまま、断ち切られた──
視界があふれる涙でゆがむ。蒼い月がまばたきを痛めつける。こまやかな雪がこめかみをきしませる。白い息だけひりひりと熱い。
鼻をすすって、凍えた肩を凍えた指でさすった。草の中に軆を折ると、手の甲に冷たさが走る。腫れた目をそちらにやると、夜露が凛と月に輝いていた。
あの日、月があったかを思い出せない。ただ、ガラスの天井の向こうで、星はすごかった。
俺は恋に落ちた。妹だなんて、思いたくなかった。
でも──
寒さが軆の芯まで犯して、俺はさすがに立ち上がって家に引き返した。「祈里」と呼ばれて、顔を上げると厳しい顔のとうさんがいた。俺は睨みつける気力もなかった。
「小由里はリビングでお前を待ってるぞ」
「え……」
「結婚するそうだな」
「………、ああ」
「つらいだろうが、妹の幸せだと思ってやってくれ」
はっととうさんを見た。とうさんはそれ以上言わず、階段へと歩いていった。義母がとうさんを待っていて、ふたりは二階へと上がっていく。
ぬかるんだ足取りで、リビングに入ると暖房がかかっていた。小由里は俺を待っていたが、待ちくたびれてカウチで眠っていた。
俺はのろのろとそのまくらもとに歩み寄ると、静かにひざまずいてその寝顔を見つめた。
すると、さっき月が刺さったときのような痛みが目に起こって、また涙がこみあげてきた。まばゆいみたいに。直視できないみたいに。
目が痛む。どんどん視界はひずんで壊れて、俺は顔を手で覆った。
「……ごめん」
誰も聞いていないのに。誰も聞いていないから。俺は初めて、素直に気持ちを言葉にしていた。
「ごめん、……ごめんな、お前を愛してるんだ」
小由里が目を覚ますなんて魔法は起きない。眠っている。その寝顔を見守れる資格さえあれば、よかったけど。無理だ。ありえないのだ。
「ごめん……」
かすれた声で、謝り続けた。
そうだ。全部、悪いのは俺だ。愛さなければ。この気持ちさえなければ。もっと素直に、お前の兄になれていた。お前が望む、兄貴になれていた。
ごめん。ごめん。愛してる。
こんな気持ち、生まれなければよかった。あるいは、そもそも俺なんかいなければよかった。
そうしたら、この家はずっとずっと暖かい家庭だった。お前が夢見た、優しい家庭だった。俺のこの気持ちさえ芽生えなければ。
好きな女を幸せにもできない。夢も叶えてやれなかった。最後には泣かせた。
最低だ。こんな想い、最低だ。こんな気持ちさえ生まれなければ。せめてすぐ殺していたら──
涙が止まらない。夜月の残像がずきずきと瞳を突き刺す。
雪に包まれていく静かな夜だった。
ただ悔いて、泣いて、肩を震わせていた。最後に小由里をまともに見つめたいのに、癒えない恋心は目を潰しつづける。俺はついに心から愛した女を優しく見つめることもできず、もう償えない罪に瞳をえぐられていた。
FIN