雪の声

 スカートの右ポケットには、いつもカッターが入っている。いつでも、どこでも、いくらでも、今ではケロイドになった左手首をざっくり切れるように。
 私は涙を流せないから。涸れてしまったから。
 でも、息苦しい毎日はどんどん蓄積していくから、手首から紅い涙を流す。
「三学期には学校来るなよ。てか、死んでくれるといいんだけど」
「ほんと。ねえ神崎かんざき、自分がうざい奴って、分かってる?」
 そう言った加菜子かなこは、うずくまった私のセーラー服の肩に蹴りを入れた。
 校舎の北側、先生たちの駐車場に面した壁際だ。私はアスファルトに手をついて、唇を噛みしめ、できるならとっくに不登校ぐらいやってる、と言えない文句に胸を圧迫される。
 十二月二十四日、今日は中学二年生としての二学期の終業式だった。低い寒空は一面に薄暗く曇り、朝から通り魔のナイフのように気紛れに風が肌を切り裂いている。
 帰りのホームルームが終わると、一気に教室に解放されたざわめきが広がった。私はどの輪にも属さず、さっさと帰ろうとしたのだけど、いつも通りつかまってしまった。
 加菜子と來未くみ。このふたり組から、私は今年の夏休み明けからイジメられている。理由は何となく分かっている。加菜子の幼なじみの松山まつやまくんに、私が告白されたからだ。
 たぶん、加菜子は松山くんが好き。私はつきあいを断ったけど、その愚痴が加菜子に伝わったらしく、それで嫌がらせが始まった。
 クラスメイトは、みんな見てみぬふりをしている。教科書や上履きを隠す単純なものがエスカレートして、最近では暴言や暴力も増えつつある。
「あんたなんか、学校に来てたって迷惑なんだから。とっとと消えちまえよ」
 加菜子のローファーが頬を踏みつけ、砂や土のついた冷たくて臭い靴底へのとっさの嫌悪感に、つい押しのけてしまう。加菜子は少しよろけ、「何すんだよっ」と私の胸倉をつかんできた。
 その拍子、私の右ポケットからカッターが落ちた。
「あ……、」
 やばい、と思ったときには、來未がそれを取り上げて、ふたりは顔を合わせた。ついで、あざけった大爆笑が風船が割れるようにはじける。
「何これ。マジ?」
「リスカだっけ? アムカ?」
「痛すぎ! 頭やばいよ」
 加菜子は私の胸ぐらを離すと、左の袖をめくろうとした。見世物じゃない。そう思って抵抗しようとしたら、來未も加わって私の傷口を外気にあらわにした。
 変色した傷痕に、「気色悪ー」と加菜子は鼻で嗤って、乱暴に手を離す。
「あー、何かこいつがさらにキモくなった」
「ほんと。今日はもう帰る?」
「そうしよっか。じゃ、あんたはまた手首切って、自分に酔ってれば」
 加菜子はそう言って体勢を正し、來未は立ち去る前に、私の赤いスカーフにカッターを投げつけてきた。
 背を向けたふたりに、このカッターをその背中に突き刺してやれたらと思った。けれど、やっぱりそんな勇気は持てなくて、ただ心にまたひとつトゲが突き刺さる。
 見られた。よりによってあのふたりに。私のせめてもの涙を──
 そのときだった。加菜子に踏まれた頬に、冷たいものがひやっと触れた。
「え……」と頬に指を伝わすと、冷たい水の感触がある。涙じゃない。雨? そう天を仰ぐと、思わず睫毛を上下させた。
 雨じゃない。雪だ。
 そんなに量はなくて、はらはらという程度だったけど、粉雪が舞い降りはじめていた。白く清いかけらは、アスファルトに落ちては、すぐ消えてしまう。
 積もるほどではなさそうだ。それでも、紺色のセーラー服は砂糖を零したように白く描がかれていき、そういえば吐く息もかすかに白いのに気づく。
 校舎に背中を預けて、空気を抜くように力を抜いた。三学期。もう来るな。ほんとに、そうしようかな。こんな毎日、いい加減うんざりだ。親が理解するか分からないけど、私は限界だ。どうしてこんなに、涙も出なくなるほど──
 粉雪をかぶり、何十年もそこに置かれていてホコリをかぶったものみたいに、私は白く染まっていった。ぼんやりした手つきでカッターを手にした。
 また、切らなきゃ。血を流さなきゃ。涙を吐き出さなきゃ。透明な雫は穢れて真っ赤だけど、それでも、こんな感情を溜めこんでいたら、私は心を失ってしまう……。
 雪が静かに景色を白に変えていく。風が吹くと、粉雪たちはふわりと舞い踊る。体温が乾涸びて、指先も足先も冷たい。その腐蝕はまるで私の心だ。私の心も麻痺し、何も感じないから、泣くことさえできなくなってしまった。
 もう、いいや。やめよう。三学期からはここには来ない──
「神崎」
 天に召されるように、そう思ったときだ。突然そんな声がかかって、はっと我に返った。
 声のしたほうを向いて、固まっている軆をさらに硬直させてしまう。松山くんだ。
「加菜子たちか……」
 学ランにブルーのパーカーを羽織り、荷物を肩にかけた松山くんは、さく、と歩みよってくる。何と答えたらいいのか、とりあえずカッターはスカートのポケットにしまいたくても、手が強直して動かない。
「振られたんだから、近づくのも迷惑かなって思ってたけど」
 松山くんは、黒髪に風と粉雪を入り混ぜながら、私の正面にしゃがみこんだ。私はとまどって、告白してきたときより広くなった松山くんの白い肩を見つめる。松山くんは、かたまった私の手からカッターを取りあげた。
「こんなことしてるなら、黙ってられない」
「し、知ってたの」
「加菜子が言ってきた」
 恥ずかしさや情けなさで目を伏せ、白い呼吸を震わす。松山くんはカッターを自分のポケットにしまうと、「期待したりしないから」と手をさしだした。
「ただ、俺は神崎の味方だよ」
 目を開いた。松山くんは、粉雪が溶けるのと似たようにふっと微笑んで、「ほら」と私の手を取った。その手は温かくて、本当に温かくて、心に響くくらい優しくて──
 また、頬に水の感触が伝わった。でも、今度は冷たくない。温かい。目頭がぎゅうっと絞めつけられ、そこから熱が生まれている。
 何……これ。
 私、泣いてる……?
「神崎」
「わ、私、泣けないの。泣きたくても、泣けなくて、だから切って──」
「泣いてるよ」
「………、」
「ちゃんと泣いてる」
 松山くんの大きな手が私の頭を撫で、その瞬間、私の瞳から涙が決壊した。氷になっていた頬が熱い涙に溶けるほど、泣き出してしまった。
 松山くんは、ずっと私の頭を撫でてくれていた。温かかった。
「俺は神崎のそばにいるよ。いてよければだけど」
 私はうなずいて、硬直がほどけてきた手で松山くんの手を握った。その温もりは、がんじがらめに凍っていた心にさえ届いて、久しぶりに開ける窓のように、とどこおっていた感情を呼吸させた。
 泣けるんだ。誰かいれば、私、ちゃんと泣けるんだ。切ったりしなくていいんだ──
「帰ろう。送るから」
 松山くんはそう言って、私を立ち上がらせた。おとなしく従い、それでも染みついた冷気に関節が痛い。つないでいた手を離すと、「何かごめん」と松山くんのほうが謝ってきた。私は首を振ると、「ありがとう」と微笑む。すると松山くんはばつが悪そうにうつむき、「ちぇっ」とつぶやいた。
「え、何」
「いや……やっぱ、好きだな。神崎のこと」
「えっ」
「あ、気にしないで。ほんと、そんなつもりないし」
 私はちょっと咲ったあと、もう一度松山くんの手を取った。松山くんはどきりとしたようにこちらを向く。
「神崎──」
「こうしてると、あったかいの」
 松山くんは私を見つめ、ちょっと照れたのち、「そっか」と手を握りなおしてきた。そして、私を引っ張るように歩きはじめる。私はそれについていきながら、大丈夫だ、と粉雪の舞う空中を見やった。
 大丈夫。私だって、本当はしたくなかった。でも、泣けなかったから。
 今はこの温かい手を知った。だったら、私は泣ける。泣くことができる。赤く濁った雫でなく、透明に澄んだ雫で。重みで樹木から雪が落ちるように、痛みで涙を流すことができる。
 それなら、私、きっとこれからも頑張れる──。

 FIN

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