「今年は雪がよく降るね」
洗い物をするマスターがそう言って、会計をしたお客さんがいたテーブルを片づけようとしていた僕は、窓のほうを振り向いた。確かに、店内からの光をちらちらと反射しながら、また粉雪が降り出している。
「そうですね。夏が十一月くらいまであったから、暖冬かと思ってました」
「異常気象なのかねえ」
「積もりますかね?」
「どうだろう。路面は凍りそうだね」
「すべって転ぶなあ」と僕は苦笑して、テーブルに残された食器を回収した。カウンターに入ると、「一緒に洗っちゃうから」とマスターは食器をシンクに置くように言う。僕はそうして、もう一度テーブルに戻ると布巾で拭いて、メニューを広げておく。
ここはマスターである僕の伯父が経営する、小ぢんまりした喫茶店だ。流行っている店ではなくても、常連さんは多い。
中学生のとき、クラスになじめなくて学校に行きづらくなった僕は、この店にいつも逃げこんでいた。中学を卒業したら店を手伝いはじめて、今はもう二十歳だ。中学時代はいい顔をしていなかった両親も、伯父の説得で、僕がここで働くことが楽しいのならと理解してくれている。
からんころん、とドアが開くベルの音がして、「いらっしゃいませ」と僕はそちらを振り返る。入ってきたのは、常連のカップルのお客さんだった。髪や肩の雪をはらうふたりを席に案内して、「ブレンドコーヒーとホットココアですか?」といつもの注文かどうか確認すると、「よろしく」と男の人のほうが答える。
僕は注文を書きつけて、マスターに伝えた。洗い物を切り上げていたマスターはすぐに用意にかかり、僕はそのふたりを気づかれないように盗み見る。
あのふたりは、二年くらい前からよくこの喫茶店に来るようになった。最初は幸せそうに微笑みあって過ごしていた。でも、最近は女の人のほうが泣いて、男の人はそれをなぐさめようともしていないときがある。
「お客さんにあまり立ち入っちゃいけないよ」とマスターに言われているので、気にかかりつつも僕は見ているだけだけど。
十八時を過ぎると、仕事帰りや学校帰りのお客さんがゆっくりしにきて、そのぶん僕はいそがしくなる。そのあいだに、カップルも帰ってしまったようだ。空になったカップを片づけながら、今日も女の人は咲ってなかったなあ、男の人は険しそうだったなあなんて思う。
この喫茶店は二十三時に閉店する。一時間で清算や掃除を済まし、僕は零時に店を出て徒歩範囲の自宅に帰る。
闇夜の中で雪はまだ降っていて、マスターが言った通り路面が凍ってしまい、やはりすべりやすかった。コートに身をすくめて、慎重に歩きながら口元から白い息をこぼす。まもなく住宅街に入ると、サンタやトナカイ、ツリーのイルミネーションで飾られた家がちらほらあり、今年も終わるなあなんて思いながら、家が近づいてきて手の中に鍵を用意する。
僕には恋人なんていないし、できたこともないし、今年のクリスマスイヴも朝から仕事で過ごした。待ち合わせに喫茶店を使ってくれる人も多く、僕もマスターもあわただしく働いた。あっという間に十五時をまわり、「夕方からまたいそがしいからね」とマスターに声をかけられ、僕は少し休憩をもらうことにした。
エプロンをはずそうとしたとき、からんころん、とドアのベルが鳴った。「いらっしゃいませ」と反射的に言ってしまい、少しまじろぐ。
例のカップルの女の人が、ひとりで入ってきたからだ。いつもは男の人と一緒なのに──ほかの人みたいに待ち合わせだろうか。「もうちょっと働きますね」と僕はほどきかけたエプロンの紐をきゅっと結び、「悪いね」と言ったマスターに笑顔を返しながら、女の人を「こちらの席にどうぞ」とふたりがけの席に案内する。
「……ホットココアをひとつ」
うつむく女の人の注文を「かしこまりました」と受けつけると、伝票をマスターに渡す。「僕が出すから休んでおいで」とマスターが言ってくれて、「ありがとうございます」と僕は素直に裏に引っこんで、十五分くらいコーヒーとアメリカンクッキーでひと息ついた。それから仕事に戻っても、女の人はひとりでホットココアをすすり、たまに窓を向こうを見ながらも、静かに考えこんでいた。
結局、男の人は現れなかった。十七時になる前に、女の人は赤いマフラーを巻いて、「ごちそうさまでした」と会計時に言い残して帰っていった。そしてそれから、ほぼ毎日、女の人は夕刻をこの喫茶店で過ごして、どうやら男の人を待っている様子だった。
落ち着いた焦げ茶の髪、うつむきがちで長い睫毛、ほっそりした蒼白い手、歳はたぶん僕よりいくつか上。
そんなふうに、女の人の特徴に目がとまっていく。スマホもいじらず、本も読まず、ただホットココアを毎日ゆっくり飲んで、飲み終わるとため息をついて帰っていく。休業した年末年始が明けても、女の人はこの喫茶店で男の人を待っていた。
女の人があまり気兼ねせず過ごせるように、「これ出してあげておいで」とマスターが何枚かアメリカンクッキーをサービスするときもあった。「これ、よろしければ」と僕がクッキーが乗ったお皿をテーブルに置くと、「すみません」や「ありがとうございます」と消え入りそうな声で答え、女の人はクッキーを食べてくれた。
一月は、いっそう雪の日が多かった。その夕方も女の人が店内にいて、僕にもマスターにも、すっかりそれが当たり前になっていた。
今日の雪は積もりはじめるほどの雪で、客足は少ない。「降るねえ」とマスターは食器を棚に片づけながらつぶやき、「そうですねえ」と手持ち無沙汰の僕はカウンターに座っていた。そんなうわさをしていたら、からんころん、とベルが響いたので、僕は慌ててカウンターから立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
そう言いながらお客さんを見て、一瞬息を飲んだ。あの女の人といつも一緒だった男の人だった。それだけでなく、僕と変わらないぐらいの若い女の子が一緒だった。
「あ……、おふたりですか?」
しかし、ぽかんと突っ立つわけにもいかない。僕は慌ててそう確認し、「ああ、ふたり」と男の人は答える。「では、こちらにどうぞ」と僕は何となく女の人がいる窓辺とは遠い席を案内しようとしたけど、「窓際空いてるじゃん。ダメなの?」と女の子が言ったので、「いえ、もちろんお好きな席に」と僕は無理に笑みを作った。
男の人は女の人に気づいているようでも、一瞥もせず女の子と向かい合った。「何飲む?」と男の人に訊かれて、「映えるやつ!」とか答える女の子は、あまりこの喫茶店の雰囲気に合っていない。「ちょっと落ち着け」と男の人に小突かれて笑う女の子の声に、僕は心配になって女の人のほうを見た。
女の人は顔を伏せ、白い頬を真っ赤にして泣くのをこらえていた。さすがに声をかけたほうが、と思った僕を男の人が呼んだので、急いで切り替えて注文を聞く。
「ラテアートあり? やってほしい」
女の子の質問に「普通のラテになりますね。申し訳ありません」と僕も困惑しながら答えていると、ふと女の人が席を立った。そしてそのままカウンターで会計を済ますと、店を出ていく。「陰気そうな女だったな」と男の人がしれっとつぶやき、「分かる!」と女の子ははしゃぐように笑った。僕はふたりの注文を受けつけると、何も言わずにマスターのところに戻った。
「あの子の席、片づけておいてね」
マスターも何か言いたいのをこらえる様子でただそう言い、僕は女の人がいた席を片づけようとした。しかし、衝動的に帰った証拠だろうか、赤いマフラーがそこに置き忘れられていた。「これ」とマスターにそれを持っていくと、彼女はもう来ないのでは、という気持ちが通じて、「追いかけておいで」とマスターは言ってくれた。僕は「はいっ」と返事をするとエプロンをはずし、コートは羽織ると喫茶店を飛び出した。
暗い空からはらりはらりと雪が降ってくる。その雪はかなり積もり、足を踏み出すとざくっと足痕が残る。駅と住宅街をつなぐ通りなので、どっちに行ったのだろうと僕はきょろきょろした。あの人を同じ住宅街で見かけたような記憶もないし、駅かなとそちらに歩き出す。
雪のせいで足取りが悪かったのと、さいわい駅の方角が正解だったので、僕は女の人の後ろすがたを見つけた。その震えている肩に「あのっ」と声をかけると、振り向いた彼女は凍てつきそうな空気の中で泣いていた。僕は白い息を吐いて、「これ」と赤いマフラーをさしだす。
「忘れ物です」
女の人はまばたきをして、自分の首に触れる。
「……すみません。お仕事中に」
「いえ。気にしないでください」
僕がにっこりしてみせると、女の人は瞳をゆがめて涙を落とした。
「きっと……」
「え」
「きっと、こういうところなんですよね」
「………」
「こんなふうに、間が抜けて迷惑をかけてばかりだから、あの人も──」
僕は女の人を見つめ、小さく微笑むと、マフラーを広げてその襟元に巻いた。女の人の髪に、睫毛に、肩に白い雪が降り積もっていく。女の人は嗚咽をもらし、「私、重いですよね」と鼻をすすった。
「それだけ、あの人を愛してるんでしょう?」
僕の言葉に、女の人ははっと目を開いた。そして、さらに泣き出しながらうなずいた。壊れものにそうするように、僕はそっと女の人の肩をはらう。僕の指先で、雪がすっと溶けて雫になる。
「きっと、あなたの愛情に釣り合う人がいますよ」
僕はそう言って手を引き、女の人はこちらを見上げる。
「今はつらいかもしれないけど、また、そんな人とココアを飲みにきてください」
「……はい」
「もちろん、おひとりでも歓迎です。寄れるときがあれば、いつでも」
女の人は頭を下げて、「ありがとうございます」と涙をぬぐった。僕は笑みを作りながら、ほんとはちょっと、僕がそばにいますから、ぐらい言いたかったなと思う。けれど、彼女にそんな余裕はないのは分かったから、今はまだ。
僕かもしれない。僕じゃないかもしれない。そんなことはどちらでもいい。ただ、この人がまた誰かと向かい合って、咲ってくれるのなら。
心が壊れないように。雪に溶けてしまわないように。今はただ、見守ろう。
深く暗い空からの雪はやみそうにない。そろそろ軆の芯まで冷えて、手足が痺れてきた。「じゃあまた」と言い交わし、僕は女の人と別れた。再びざくざくと足音を残しながら喫茶店へと戻ると、僕にとってもそうであったように、あの人にもここが居場所になればいいなと思った。
FIN