昔から、友達を作るのが上手じゃなかった。
クラス替えのたび、担任の先生に心配されるほど、ひとりぼっちでいてしまう。担任の先生に、「海月ちゃんも仲間に入れてくれないかな」と声をかけられたグループの子が、とまどい気味に私を受け入れる。私は恐縮しながらも、先生にこれ以上の心配をかけられないから、馴染んだふりする。その「ふり」がようやく演技でもなくなってきた頃、またクラス替えがやってくる。
小学生までは、それで何とかなっていた。中学生になった私は、やっぱりどのグループに属せずにいて、担任になった女の先生に大声でしかられた。
休み時間には「仲良くしたい人に声をかけにいきなさい」とみんなが注目する中で命じてくる。そんな先生の態度に、私がついに泣き出してしまうと、「もう中学生なんだからしっかりできないの?」と先生はかえっていらだった。
でも、私が先生に泣かされていたと誰かが告げ口したらしく、ある日、副担任の男の先生が「もし教室がつらいなら」と別室登校を勧めてきた。担任の先生に会いたくなかったし、クラスにも入っていけそうにない。小さくうなずくと、副担任の先生が親にも話を通してくれて、私は中学生になって三ヵ月足らずで教室に行くのをやめた。
保健室登校はすでに飽和状態らしく、「これ以上はちょっと」と保健の先生に断られた。なので、ふだん使うことがない会議室に登校することになった。「お前は人が少ないほうがいいだろう」と案内しながら副担任の先生が言って、私はこくんとした。会議室は校長室や養護教室が並ぶ一階の隅にある。そこで私は、春磨くんに出逢った。
会議室からは、歌声がこぼれていた。切なくなるほど高音の、綺麗な声だ。「またあいつは」の副担任の先生は苦笑して、「ちょっと変わった奴かもしれないけど」と私に断って会議室のドアを開けた。すると歌声が止まって、「塔野先生」と嬉しそうな声が続く。
「光原、お前、歌うのはいいけど勉強はやってるのか?」
「あ、分かんないとこあるから教えてください」
「まったく。これからはお前が教えなきゃいけないぞ。ほら中宮、入りなさい」
私は慌てて、副担任の先生──塔野先生にうながされて、会議室に踏みこんだ。
そこには、金髪で色白の肌、体型もすらりとした男の子がいた。
彼も私も、お互いを認めてまばたきをする。
「二年生の光原春磨っていってな、去年先生が受け持ってた生徒でもあるんだ」
「光原……先輩」
「光原、この子は中宮海月。一年生の子で、今日からここに通わせたいんだが、いいか?」
「俺に決定権とかないですよ。中宮さんが構わないなら」
「ありがとう。中宮、会議室を使ってるのは今のところ光原だけなんだが、大丈夫そうか?」
光原先輩を見た。梅雨の合間の晴れた窓の逆光で、金髪がきらきら透けている。明らかにブリーチした髪の色だけど、何となく、不良とかそういう類の人ではないのは分かった。
私はうなずき、「大丈夫です」と答えた。「よし」と塔野先生は私のセーラー服の肩をぽんとたたく。
「じゃあ、とりあえず今日は光原と話でもしてろ。明日からは勉強するんだぞ」
「はい」
「光原、中宮のことよろしくな」
「了解です。海月ちゃん、話しよー」
いきなり名前で呼ばれてどきっとしつつ、私は並ぶつくえを縫って光原先輩に近づいた。
塔野先生はドアを閉めて去ってしまい、「勉強、分かんないとこほんとにあるのに」と先輩はちょっとふくれる。それから私を見て「よろしくね」と微笑み、「よろしくお願いします」と私は緊張しながら頭を下げた。
「塔野先生、担任なの?」
「いえ、副担任です」
「……そっか。そうだよな」
愁えた睫毛を伏せた光原先輩に、私が首をかしげると、「たぶん俺のせいなんだよね」と光原先輩は髪を指先でいじった。
「塔野先生が、今年、担任としてクラス持てなかったのって」
「……優しい先生ですよね」
「うん。俺がクラスメイトに何かされても、この髪とかでみんな俺に原因があるって言ってさ。塔野先生だけがかばってくれたんだ。でも髪染めた生徒なんか擁護したから、今、立場悪いらしいよ」
「そう、なんですか。髪、綺麗です」
「ほんと? ありがと。俺、黒って似合わなくてさ。日本人形みたいで自分で怖いの」
光原先輩はころころ笑う。日本人形。確かに、顔立ちも和風に整っている。
「海月ちゃんは、黒髪似合ってていいなあ」
「地味なだけ、です」
「目立ったっていいことないよ。嫌がらせされるだけだもん」
肩をすくめた光原先輩は椅子に腰を下ろし、私はその隣の席に着いた。「さっき」と私が口を開くと、「ん?」と光原先輩は私を見つめる。
「歌ってたのって、光原先輩ですか」
「ハルマでいいよ」
「えっ、……あ、春磨、くん──が、歌ってたんですか」
「うん。歌うの好きなんだ」
言いながら春磨くんはスラックスのポケットからスマホを取り出し、「歌ってたのこの曲」とあんまり私は馴染みのないボカロの動画を再生させた。私はそのMVに見入って、こんな早口に歌えるのすごいな、なんて思う。
「ボカロはやっぱ歌詞がいいよねー」と言ったあと、ふと春磨くんはスマホからのボーカロイドの声にハモって、また歌いはじめた。男の子なのに高音まで出ていて、その声には不思議と胸を締めつけられる。歌い終えた春磨くんに「すごい」とつぶやくと、「へへ」と春磨くんは照れたように咲った。
それから、私は春磨くんとふたりで別室登校をするようになった。人との距離がうまくつかめない私なのに、不思議と春磨くんと仲良くなるのはあっという間だった。
春磨くんが私と親しくしてくれるのは、先生に言われたからとかじゃなかったからかもしれない。塔野先生に「よろしく」とは言われていたけども、春磨くんの態度は、そう言われたから仕方なく私に接しているという、よそよそしいものではない。勉強を教えてくれたり、おしゃべりをしたり、好きな歌もいろいろ聴かせてくれた。
春磨くんは、ネットでその歌声を公開もしているらしかった。その動画は「何か恥ずかしいんで」と見せてもらえなかった。でも、私はいつも生で春磨くんの歌を聴けるから、そんなにしつこく動画を観たいとは言わなかった。
七月の期末考査のあと、日射しが増していく夏休みになっても、私と春磨くんは会って過ごした。春磨くんがよく行くカラオケボックスでは、「スタジオなんて行く金ないから、いつもここで録音してるんだよね」と笑っていた。
「海月ちゃんはどういうとこで遊ぶの?」と訊かれて、遊ぶというのか分からなかったけれど、私は小説を読むのが好きだったから図書館に行った。好きな本を教えると、「読んでみる」と春磨くんはすぐにそれを借りて、次会ったときには感想も伝えてくれた。
蝉の声が入り乱れる猛暑の八月になり、春磨くんに隣町の花火大会に誘われた。いつも夏休みなんて引きこもっていた私が、花火大会に行きたいと言うとおかあさんはびっくりしていたけど、そのぶん張り切って白に桃色の花が咲いた浴衣を着せられた。
おかあさんじゃなくて私が張り切ったみたい、と恥ずかしかったものの、オレンジ色が透き通る夕暮れ、駅で私を待っていた春磨くんは「お、かわいいじゃん」と自然に褒めてにっこりした。慣れない下駄の花緒がちょっと痛かったけど、春磨くんが私の手を取って引っ張ってくれて、どきどきして、痛みなんか忘れてしまった。
混んでいた電車を降りて、隣町とはいえ見知らぬ町並みを春磨くんと手をつないで歩く。同じく浴衣を着た女の子や甚平の男の人たちが向かうほうへ倣っていると、なだらかな土手がある河原に出た。土手には早くも花火を待機して陣取っている人がいるけど、暗くなってきた景色に明るく浮かぶ、河原の夜店もにぎわっている。
「何か食べる?」と春磨くんに問われて、私は少し躊躇っても、うなずいた。階段を見つけて土手を降りると、夜店をひと通り見てまわった。香ばしい焼きそばやたこ焼き、宝石みたいなりんご飴やいちご飴、いろんな味が揃った大判焼き、焼きもろこしやフランクフルト。食べ物のほかにも、ヨーヨーすくいや射的や輪投げで子供たちが楽しそうに笑っていた。
「何か食べたいのあった?」
「りんご飴、とか」
「でかいほういきますか」
「……じゃあ、いちご飴」
「はは。いいよ、りんご飴買ってあげる」
「え、私、お金あるよ」
「いいの、俺が誘ったんだし」
私たちは引き返して、りんご飴のお店の前で立ち止まった。隣では綿飴も売られている。
「りんご飴ひとつください」と春磨くんが声をかけると、「おや、彼女かわいいね」とおじさんがにこっとしてお金を受け取り、並んでいる中から好きなりんご飴を選ばせてくれた。彼女、というおじさんの言葉にどぎまぎしつつ、私は飴がきらきら光るりんご飴をひとつ手に取った。甘い香りが生温くゆったりした夏風にただよう。
「ありがとう」と春磨くんはおじさんに挨拶して、「俺は何食べようかなあ」と暖かい光の並びを見渡す。
迷った春磨くんが焼きおにぎりに決めると、私たちは土手に腰をおろした。かぶりつこうとして、「熱っつい」と言っている春磨くんに笑っていると、やがて花火が上がりはじめた。
かなり音が近くて、軆にじかに響いてきた。夜空に火花がぱあっと咲き、一瞬、見上げている人たちの顔を照らす。花火ちゃんと見るの何年ぶりだろ、なんて思った。まっすぐ打ちあがる音を立てて、晴れた闇を華やかに彩っては、儚く消えていく。
私はりんご飴をかじるのも忘れて花火に魅入っていたけど、「海月ちゃん」と春磨くんに呼ばれたら、素直にそちらを見た。春磨くんは私の瞳を見つめると、「俺、海月ちゃんの彼氏になってもいい?」と言った。
私が目を開いたとき、また花火が天に広がって、お互いの瞳に赤い花火の色が映った。つないだ手に力がこもって、私は気持ちをどう言葉にすればいいのか分からず、ただその手を握り返した。
「海月ちゃん──」
「私で、よければ」
消え入りそうに何とか答えると、空にいくつも飛び散る花火のように、春磨くんが笑顔を咲かせた。「やった!」とその通る声で叫んだので、周りの人がいくらか振り返ってきて、私は頬の熱に顔を伏せてしまう。春磨くんは私の結った頭を崩さないように撫で、「ありがと」と歌うときとは違った、低めの声で私の耳元にささやいた。
春磨くんとつきあうようになると、ますます時間が経つのが早かった。出逢って季節がひと巡りして、春磨くんが三年生になった頃、初めて自分で作ったという歌も聴かせてもらった。いつもはボカロを歌うことが多いから、まずその滑舌の良さにびっくりするけれど、その曲はゆっくり噛みしめるように歌っていた。
ずっと、私たちはそんなふたりだけの世界にいると思っていた。けれど、春磨くんが自分で作った歌もネットで公開しはじめた頃から、周囲は変わりはじめていた。
「ねえ、あなたって『ハル』と仲いいんだよね?」
春磨くんが卒業をひかえた冬、会議室に向かおうとしていた私は、突然同級生の女の子に囲まれてそんなことを訊かれた。何かされるのかと怯えそうになった私は、彼女たちの表情に悪意はなく、代わりに好奇心が満ちているのを認める。
ハル。春磨くんのことかな、と曖昧にうなずくと、みんな歓声を上げて、「今度ハルの歌聴きにいっていい?」「どこの教室にいるの?」と次々と質問された。あんまりそこには踏みこまれたくなかった私がまごついていると、さいわいチャイムが鳴った。「あーっ、もうっ」「今度教えてねっ」とか言いながら彼女たちはばたばたと去っていって、私はぽかんとそれを見送った。
会議室に向かって、赤く灯るストーブの前で春磨くんにそのことを話すと、「大丈夫だった!?」といきなり心配された。私がぎこちなくこくんとすると、「最近、変な人が増えてきたんだよね」と春磨くんはため息をついた。
「『ハル』っていうのは」と尋ねると、「歌い手としてはそう名乗ってるんだ」と春磨くんはスマホを取り出して、初めて私に自分の歌の動画を見せてくれた。綺麗な絵がついて、歌詞もデザインされている。「友達の絵師さんが描いてくれたんだ」と春磨くんは言い、「会ったことはないんだけどね」ともつけくわえた。
「そういう仲のいい人もいるけど、掲示板とかには俺の本名とか晒す人がいてさ」
春磨くんは憂鬱そうに睫毛を陰らせて、あの子たちはそういうのを見て春磨くんのことを知ったのかと納得する。
「コメントにも、彼女はいるのかとか、もしかして彼女じゃなくて彼氏ですかとか、わけ分かんないのが混じってるんだ。俺、確かに性別はっきり明かしてないけどさ」
「春磨くんの声、高いもんね」
「これでも声変わりはしたんだけどなあ。ちょっと怖いよね、『ハルちゃんかわいいぺろぺろ』とかさ」
むくれた顔になる春磨くんに、「気をつけてね」と私はストーブにかざしていたその手を握った。春磨くんは私を見て「うん」と手を握り返すと、「あんまりしつこい人がいたら、恋人いるんでって言っていいかな」と首をかたむけてくる。私はうなずいて、「それで春磨くんを守れるなら」と言った。「ありがと」と春磨くんは微笑み、「普通に『ハルくんの歌好きです』って人は嬉しいんだけどね」とことんと私の肩に頭を乗せた。
桜が咲くと、春磨くんは中学校を卒業して、通信制の高校に進学した。会議室にはもう春磨くんがいないのと、ますます『ハル』のことを訊いてくる人が増えたので、私は不登校気味になっていった。塔野先生が心配して家に来てくれたけど、『ハル』のことを聞きたがる人たちが怖いと語ると、無理は強いずに「たまに一時間顔出すだけでも出席になるからな」と励ましてくれた。
家にこもりがちでも、もちろん春磨くんには会っていたものの、学校であれこれ訊かれることは心配をかけるので黙っていた。どんどんフォロワーが増える『ハル』のSNSのアカウントには、『相方います。』の文字があって、どこからかそれは中学の後輩女子ではないかとうわさが流れはじめた。
『それって、ハルが別室登校で一緒だった子?』
『ハルくんって別室登校だったんだ。イジメ?』
『ハルくんいじめた奴いるならマジ許さない!』
『私、ハルと同中だけどイジメも別室登校もガチ』
『じゃあ後輩女子は? ほんとにつきあってるの?』
レスが加速していって、何となく不安でそれを見守っていたある日、ついに自分の名前が掲示板に出てしまったときには心臓がすくんだ。
案の定、私のことをたたく書きこみが続いた。そして、家に無言電話がかかってきたり、カミソリが入った封筒が郵送されてくるようになった。
どうしよう。春磨くんに言ったほうがいいのかな。でも、春磨くんが悪いわけじゃない。『相方』がいることにしないと、春磨くんが気持ち悪いコメントとかに悩まされる。私は耐えて、春磨くんを守らないと──
そう思っていたものの、玄関先に虫の死体がばらまかれていたとき、おかあさんが泣き出しているのを見て、どうしようもなくて嫌がらせされていることを春磨くんに相談した。
「何で黙ってたの」
駅前の喫茶店で、春磨くんはしばらく茫然と話を聞いていたけど、不意にそう言って私の肩を揺すぶった。「だって」と私は泣きそうになりながら春磨くんを見る。
「私が我慢してたら、春磨くんに変なこと言う人が少しでも減るかなって」
「そんな、海月ちゃんがそこまで心配しなくていいんだよ。ネットに頭おかしい奴がいるのは仕方ないし。……ごめん、俺のせいなんだよね」
「春磨くんのせいじゃないよ」
「もう、彼女いることは隠すから。海月ちゃんにまで何かするやつがいるとは思わなかった。ほんとにごめん」
「だけど、春磨くんが嫌なこと言われる──」
「いいんだ。海月ちゃんとか、海月ちゃんの家には迷惑はかけられない」
思いつめた春磨くんの面持ちを見ていたら、そんなの構わないのに、と思った。確かに嫌がらせは怖いけど、春磨くんはもしかしてもっと嫌なことをされているのかもしれない。だとしたら、私は一緒に晒されてたたかれて支えてあげたい。
けれど、しばし黙りこんでいた春磨くんは、そんな私の想いをさえぎるように思いがけないことを言った。
「隠すなんて、甘いのかな」
「えっ」
「隠したって、今度は会ってることとか探られはじめて、結局海月ちゃんに何かあるかもしれない。もっと危ないことも」
「春磨、くん……?」
「海月ちゃんを守るなら、今のうちに別れたほうがいいのかも」
私は目を開いて、言葉を失った。
別れる? 春磨くんと別れる?
「……そん、な。私は、」
「海月ちゃんを傷つけたくない」
「私はいいよ、平気──」
「今は平気かもしれないけど、きっといつかつらくなるよ。それぐらいなら、まだ何もないうちに、」
「春磨くん、私は別れるなんて……」
「お願い、最後は俺に海月ちゃんのこと守らせて」
春磨くんはまっすぐ私を見つめて、私はその瞳を強さに次第に脱力していった。
守って、なんて、もらわなくていいよ。私は春磨くんのそばにいたいよ。彼女として隣にいたい。だって、こんなに春磨くんが好きなのに──
けれど、私の声がつっかえているうちに、「もう会うのもやめよう」と残して春磨くんは顔を伏せて立ち去ってしまった。春磨くんがいなくなってから、きゅっと喉が締まって、私の頬に遅すぎる涙がぽろぽろとこぼれた。
嘘でしょう? こんな終わり方なの? 私はどんなことがあっても、春磨くんといられるほうがよかったのに。
春磨くんの優しさが、どんな嫌がらせより心に深く突き刺さる。ああ、やっぱり相談なんてするんじゃなかった。黙って耐えているべきだったんだ。そうしたら、私を突き放すほど春磨くんを傷つけることもなかったのに。
春磨くんのスマホに連絡が届かなくなって、SNSのアカウントの紹介文からは『相方います。』がそっと消えていた。私は何か春磨くんとつながっていたくて、SNSのアカウントを作ると春磨くんだけフォローした。『ハル』にはたくさんのフォロワーがいて、『くらげ』という名前のそのアカウントが私だなんて春磨くんが気づくわけもなく、フォロバが来ることはなかった。
私はひとりぼっちで中学校を卒業して、高校には行かずに部屋に引きこもるようになった。大好きだった図書館にさえ行けない代わりに、自分で小説を書いて、それを読み返すことで心の隙間を埋めた。
書いているときは、『ハル』のプレイリストを聴いた。ハルは彼女とは別れたらしい。どこから知るのか分からないけど、そんなうわさまで流れていって、ようやく私への嫌がらせは落ち着いていった。
私は小説を書いていることは誰にも話さなかったけど、ただ、『ハル』をフォローしているアカウントでだけそのことをつぶやいた。いつも『ハル』の曲を聴きながら書いていることも。そんなつぶやきにいいねがつくことがあったけど、けして『ハル』本人からではなかった。
『ハル』は新曲を作ったことや、仲良しの絵師さんに会えたことや、同じく歌い手として活動する人とコラボしたことや、そんなことをTLに流していく。そして、高校を卒業したらこの町を出ていくことも私はTLで知った。
春磨くんとの恋について、何度か書こうとしたけど、うまく文章にできなかった。嫌がらせを思い出して吐きそうになったり、春磨くんを責めるような感じになってしまったり、つらい想いばかりに気を取られてしまう。春磨くんとの楽しかったことが、ぜんぜん思い出せない。
だけど、春磨くんが憎くなることはなかった。むしろ、好きだとか会いたいとかいまだに考えてしまう。春磨くんにそんな気持ちを募らせても、幸せにはなれないのに。
とっくに春磨くんは『ハル』として遠いところに行ってしまった。いまさら、私の手があの手に届くことはない。金髪を揺らして微笑まれることも、あの声で名前を呼ばれることも、透き通るような歌声を一番近くで聴くことだって──すべて、私は失ってしまったのだ。
もうすぐ二十歳になる頃、私は働く意欲もなく、月に一度だけ心療内科にかろうじて通うような生活を送っていた。おとうさんもおかあさんも私を責めないけれど、たまにどうして私がこんなふうになったのかで喧嘩しているときがある。
だから私は一階に降りることすら減っていて、誰もいないときに盗むように簡単な食事を取っていた。その日も慎重に親の留守を確かめて一階に降り、トーストとカフェオレの食事を取った。
何となくテレビをつけて、ちょうど映ったワイドショウから特にチャンネルを変えることはせず、ぼんやりとニュースを見ていた。おいしいとも感じないトーストをカフェオレで流しこんでいたとき、ふとテレビから聴こえた歌声があってはっとした。
『次は音楽ニュースですっ。はい、ひとつめー! 先日、メジャーデビューしたシンガーソングライター、「くらげ」に直撃インタビューしてまいりましたっ』
テレビを見つめた。画面が切り替わって、金髪の華奢な男の子の後ろすがたが映った。心臓がばくばくとせりあげてくる。
『男の子なのにすごいキー高いよね』とか『顔はこれからも出さないの?』とかいろいろ訊かれて、『くらげ』は柔らかな口調で答えている。
『「くらげ」くんはもともと歌い手として活躍してたんだよね』
『まあ、そうですね。はい』
『デビューを切っかけに名前も変えたと。もしかして、「くらげ」って本名?』
『まさか。僕の大切な人の名前ですね』
『くらげちゃん?』
『くらげちゃんです。もちろんハンドルネームですよ。今は会えなくなった人』
『へえ、そうなんだ。それで、今回の曲だけど──……
突くような搏動に息が震えて、テレビの声が聞こえなくなってくる。私はテレビをつけたまま、カフェオレが残ったマグカップはキッチンのシンクに置いて、二階に駆けあがった。
誰からも着信がないスマホを手に取って、SNSのアプリを開いた。相変わらず、ゆいいつのフォローである『ハル』の名前は、『くらげ/ハル』になっていた。『くらげ名義でメジャーデビューアルバム出します。今までのオリジナル曲も歌っていくし、名前以外は特に何も変わらないのでご安心をw』というツイがトップに固定してある。
そのツイにはすごい数のリプライがついていて、新着では『今インタビュー観てます!!』とか『くらげちゃんにもくらげくんの歌が届きますように☆』とか、そんな言葉が並んでいた。私はわななく手で動画検索をして、『くらげ』でヒットしたMVを再生させる。
ボカロを歌うときとは違う、あのゆっくりと噛みしめる声音が歌詞をたどった。
ふたりだけの教室。お気にいりの小説。浴衣すがたの君。一緒に見た花火。僕の歌は届いてる? 君はあの日を憶えてる? 僕の手を握り返した君を、僕は忘れないよ──
歌詞のひとつひとつに、思い出せなかった春磨くんとの優しい想い出がよみがえって、涙があふれてきてスマホの画面が見えなくなる。
『ねえ、いつか君の書いたお話が読みたいな』
春磨くん。春磨くん。ねえ、どうして。私たち、こんなにかけはなれてしまったのに。何であのときの、花火のように咲いた君の笑顔が鮮やかに思い出せるの。それを思い出して、なぜ今でもこんなに愛おしくなってしまうの。
春磨くんは、忘れていないんだ。私のことをこんなにも憶えていてくれているんだ。私は思い出せなくなっていた幸せを、こんなに綺麗な声で歌ってくれているんだ。
くらげ。海月と書いて「くらげ」とも読むから、安易につけたハンドルネームなのに。ものすごい数のフォロワーがいる中でさえ、私に気づいてくれていた。
私たちは、もうすごく遠い。たぶん、また会えることなんてないのだと思う。それでも、つながっている。かすかだけど、確かにつながっているのだ。
届いてるよ。春磨くんのこと、私も憶えてる。私にとっても、あなたは大切な人だから。
床に崩れ落ちても、ずいぶん泣いていた。関連動画が勝手に再生されて、『ハル』の曲が耳元に流れこんでくる。
歌うの好きなんだ。
そんな春磨くんの言葉と、初めて聴いたボカロとハモる彼の歌声がよぎる。私はようやく顔を上げると、手の甲で涙を拭いてスマホを拾い、つくえに向かった。
そのままスマホから大好きな歌声を流して、PCを立ち上げる。
今なら書ける気がした。私が書きたかったこと。私が伝えたいこと。もし届くことがあるなら、彼に届くように──
真っ白な画面を見つめて、それから、あの気持ちを言葉に変えはじめた。
FIN