小説はやっぱり、紙のページをめくって読むのが好き。そんな私は、昔から休日にはいつも本屋さんにおもむく。
長く住んでいるこの町には、以前は歩いて行ける範囲にいくつも本屋さんがあった。駅ナカ、ロータリー、商店街、少し駅から離れたモールにも一軒入っていた。
私はモールの本屋さんによくお世話になっていた。いつも新刊の予約をするから、店員さんに顔と名前を憶えてもらっていたぐらいだ。その本屋さんも閉店し、駅ナカとロータリーの本屋さんもつぶれた。商店街の本屋さんも片方は閉じてしまったし、残っているのはチェーンの古本屋さんくらいだ。
新刊が欲しいなら、ネットで買うしかないかなとも思いはじめていた。けれど、これまで用がなかった車道沿いを歩いたとき、先に本屋さんがあるのを見つけた。手前には、チョコクロワッサンが有名なチェーンのカフェがある。
こんなところ本屋さんあったんだ、と驚きながら踏みこむと、あの空気があった。本を探す足音以外の静けさ。文学コーナーの紙の匂い。本が焼けないように窓がないだけで、別世界に来れたみたい。
家から少し歩くことになるけれど、私はその本屋さんをすっかり気に入って、よく通うようになった。
「あの、すみません。このへんに本屋があると思うんですけど……」
陽射しが強くなってきた初夏の休日、その日も本屋さんへ歩いていると声をかけられた。うつむきがちの男の人が、スマホを握りしめるまま私を見つめている。
「え、ええと……」
何、だろ。慣れてないナンパ? でも、本屋さんは確かにこの先にあるし、彼のスマホにもマップが表示されているようだ。
「本屋さんを探していらっしゃるんですか?」
「は、はい。この近くかなと思ったんですけど……勘違いでしょうか」
「いえ、ありますよ。私も行くところなので、案内しましょうか」
「えっ、いいんですか?」
「そんなに遠くもないので」
「そうなんですか……どこだろう、もう三十分くらい探してるんですけど」
「カフェの陰になって、ちょっと気づきにくいところにあるんです。行きましょう」
彼はほっとしたようにうなずき、スマホをバッグにしまった。
並んで歩道を歩いていると、すぐ自転車に邪魔っけなベルを鳴らされた。「すみませんっ」と私の後ろに移動した彼に、「ほんとは自転車は歩道じゃないんですから、おかしくないですよ」と自転車が行ってしまってから私は微笑む。
「そう、ですよね。前住んでたところは、歩道は歩行者だけだったような……」
「こちらに越してきたんですか?」
「今月の初めに。スーパーとかドラッグストアは把握してきたので、次は本屋を抑えておきたくて」
「本屋さんは減りましたから、見つけるの大変ですよね」
「はい。ネットで本を買ったとき、カバーが破れてたことがあって……本は本屋で買いたいんです」
「分かります」
私がくすりと咲うと、彼もひかえめに咲った。チョコクロワッサンのカフェが見えてくる。あのカフェへの道を曲がって、その奥に本屋さんがある。
「探す本は決まってるんですか?」
「小説の新刊を探してて」
「私もこないだ出た小説を買いに来たので、文学コーナー行きましょうか」
あまり人がいない文学コーナーの平積みに到着すると、「あ」と彼は声を出し、一冊のハードカバーに手を伸ばした。その手が取った本に驚く。私のお目当てである、月城真織先生の新刊だったからだ。
「月城先生の作品、お好きなんですか?」
「はい。あなたも読まれるんですか?」
「実は私も、今日この本を買いにきました」
私は同じ新刊を手に取る。彼も驚いたように目をしばたいた。
「いいですよね、月城真織先生」
「は……はいっ、重いとか暗いとか言う人もいますけど、そのぶんラストの光で救われる作品が多くて」
彼は嬉しそうに月城先生の作品の良さを述べ、月城先生の大ファンであることが伝わってきた。
本をレジに通すと、彼はいそいそと本をバッグにしまう。そして私に頭を下げ、「案内ありがとうございました」と丁寧に言ってくれる。「いえいえ」と私が微笑むと、「じゃあ」と彼は歩き出そうとした。
「あ、っ……」
向けられかけた背中に、なぜか私は声がもらしていた。彼が首をかしげて振り返ってくる。
すみません、何でもないです──そう言おうとしたのに、口はぜんぜん違うことを言っていた。
「あの、よかったら、この本を読んだら感想交換しませんか」
びっくりした彼の目に、私も自分でびっくりした。何だろう。何で、こんなに……これで彼と他人の戻るのは惜しい、と急に感じたのだろう。
さいわい、彼は困惑した様子は見せなかった。わずかにはにかみながら、うなずいてくれる。彼のその穏やかな笑みで、私は安堵することができた。
十日もあれば読み終わっているだろうということで、二週間後、チョコクロワッサンのカフェで待ち合わせすることになった。
連絡先は、何となく交換しなかった。お茶して話してみて、もしあまり合わなくて、消すだけになったら失礼だろうし。
帰宅した私は、さっそく月城先生の新刊を読みはじめた。イジメの話だった。文章から立ちのぼるように、教室の冷たい空気が伝わってくる。
──二週間後、カフェに向かった。慣れない様子で彼はそこにいてくれた。私のすがたを見つけて、ほっとした表情を見せる。
私はチョコクロワッタサンとカプチーノをテイクアウトして席を向かった。彼はまばたきをして「自分で取りに行くんですね」と慌てて席を立つ。見守っていると、彼はおろおろしつつもカウンターで注文を終え、ドリンクと共に席に戻ってきた。
「すみません、こういうカフェとか来たことなくて」
「あ、居心地悪ければ、場所変えましょうか?」
「いえ、大丈夫です。えっと……月城先生の本、読みましたか?」
「もちろん」と私はにっこりしてうなずく。彼は何やら手帳を取り出し、よかった場面や台詞をひとつひとつ挙げてくれた。いつもそうして、読書メモをつけているのだそうだ。おかげで、具体的に場面の描写や台詞を思い出しながら話すことができた。
ひとしきり月城先生の新刊を語り合った。ほかにはどんな作家さんを読むのか訊いてみると、彼はあやふやに笑って、月城先生の本だけ繰り返し読んでばかりだと言った。もし興味があればと私がお勧めした作家さんの名前は、一応メモしていた。
夕方になり、再来週もここでお茶することになった。「私のお勧めの本、そのとき持ってきて貸しましょうか」と申し出ると、彼は嬉しそうにこくりとした。
特に何もない平坦な毎日だった私の日々に、彼との時間が当たり前になっていく。私のお勧めの本も彼は楽しんでくれたようだけど、「やっぱり月城先生が一番だなあ」としみじみつぶやいていた。
次第に敬語はやめたけど、彼はいつも静かで穏やかだった。そういう彼の雰囲気が心地よかった。恋人じゃないし、友人かさえ曖昧だ。けれど、彼とお茶しながら小説の話をするのは楽しかった。
梅雨が過ぎ、いよいよ猛暑の夏が来た。煮え湯のような空気、熱中症になりそうな倦怠感、蝉の声が激しく降ってくる。頭上の果てしない青空を仰ぎながら、それでも彼とのお茶会には向かう。
「もうすぐ、月城先生原作の映画が公開されるね」
私の言葉に彼はきょとんとしたのち、「ほんとに?」と興味を持った。彼はSNSなどはせず、ニュースサイトにも目を通さないらしい。そこに渦巻いているものが苦手なのだそうだ。だから、映画化も初耳だった様子だ。
私も観にいきたいと思っていた映画だし、「一緒に観にいく?」と誘ってみると、「いいの?」と彼は嬉しそうに答えた。
その場で封切り日の午前十時台、前列寄りの席をネットで予約した。少し首が痛くなるかもしれないけど、連番で取れる席がそこしか残っていなかったのだ。
そうして一週間後の金曜日の朝、彼と駅で待ち合わせて街に出た。彼だけでなく、私も街には慣れていないので、映画館までふたりで迷ってしまった。やっと映画館に到着すると、すぐに発券してシアターに向かう。
まだ新作の予告編が流れていた。私たちはこそこそと身をかがめ、自分たちの席にたどりつく。右隣の彼は、大迫力の大きなスクリーンに目を見開いていた。
始まった映画のストーリーに没頭していると、二時間ぐらいあっという間だった。エンドロールに入って座席に力を抜いていると、にわかに「えっ」「うそっ」という声が周りで上がる。
「本日はご鑑賞ありがとうございます!」
何だろうと振り返ろうとしたとき、スクリーン手前の舞台に今観た映画の出演者さんたちが並びはじめたから、私も驚いてしまった。主役を演じていた俳優の男の子がマイクを通し、「サプライズ舞台挨拶ですっ」とにこにこ言った。スクリーンではあまり咲わない役だったから、意外に感じてしまう。
「お客さん、みんないる?」
「帰っちゃった人いるかな?」
出演者さんたちが客席を見渡す。エンドロールを見なかった人は帰ったと思う。それを「まあ仕方ないねー」なんて流したあと、「実はもうおひとり、この作品に欠かせないゲストが来てくれてます」と主人公役の男の子が袖をしめした。
おずおずと現れた長身の眼鏡をかけた男の人に、「月城真織先生です!」という紹介が入って、私は目を開いた。月城先生は、あまりメディアや人前には顔を出さない作家さんだ。
「月城先生のお顔を見れるなんてレアだね」
私は思わずつぶやいたけど、隣にいる彼は、上の空みたいな様子で月城先生を見つめていた。私以上に月城先生に憧れている人だから、それは夢中になっちゃうか。それ以上は話しかけず、私もサプライズの舞台挨拶を楽しんだ。
いつもの町に戻った帰り道、彼は「ごはん食べていく?」と誘ってくれた。「高いとこには行けないけど……」と申し訳なさそうな彼に、「私が何か作ってご馳走しようか?」と私は提案する。彼はやや動揺を見せても、手料理を遠慮するのも失礼だと思ったのか、「じゃあ、スーパーに寄って僕の部屋で」と私を部屋に招いてくれた。
彼の部屋は、物があんまりなかった。そんなに広い部屋でもないのに、がらんとした印象がある。私の部屋は本や服があふれているから、自分の部屋に招かなくてよかったなと思ってしまった。
キッチンを借りて、買ってきた食材で料理を始める。冷やし中華を作るつもりだ。
しばらく静かだった。エアコンの冷風の音だけが響いていた。けれど、不意に彼の嗚咽が聞こえたから、私は手を止めた。きゅうりを刻む包丁を置き、慌てて様子を見に行くと、彼は何やら紙を広げて泣いている。
「どうしたの? それ……手紙?」
「……診断書、のコピー。ずっと昔に書いてもらった」
私は彼のかたわらにひざまずく。その「診断書」を覗きこむと、「うつ病」という字が見えてどきっとする。
「月城先生が書いてくれたんだ」
「えっ?」
私は彼の横顔を見た。大粒の涙がぼろぼろと頬を伝っている。
「月城先生は、以前は精神科医だったから」
「そ、そう……なの?」
「伏せていらっしゃるみたいだけど……それは当時、突然医者を辞めてしまったからかな。今でも、あの急な閉院に言えない事情があるんだと思う」
「……その、事情っていうのは」
「僕もそこまでは知らない……。僕は先生に診てもらえなくなって病状が悪化して、閉鎖病棟の入院を繰り返してた。その中で、作家としての月城先生のことを知った。同姓同名だから、まさかと思って小説を読んでたけど、今日見た月城先生は僕の主治医だった月城先生だった」
彼は肩を震わせて、壊れそうにわななく声で言う。
「先生、生きてた……っ」
私は彼を見て、そうかと納得する。亡くなるような病気になったのかもしれないとも考えたのだろう。
「よかったっ……」
彼は声を抑えずに子供みたいに泣く。いつもは物静かな彼。この人は、月城先生に会えなくて、きっと「自分」をずっと封じてきたのだろう。
「最後の診察で、僕は何で辞めるんだとか捨てないでとか言って、ありがとうも言えなかった。それまでも、捻くれた嫌な患者だったと思う。でも、月城先生は優しかった。いつも僕を理解しようとしてくれた」
「……手紙、出すとかしないの? 出版社宛てになると思うけど──」
「考えたことはあるけど、ここまで追いかけてる元患者なんて気持ち悪いと思うし……ただ、先生が生きてくれてたなら。僕はそれだけで嬉しい」
彼は診断書を大切そうに胸に抱いて、鼻をすすりながら嗚咽をこぼす。
私は彼の恋人ではない。友人なのかもまだ分からない。
でも、いつも穏やかな彼が幼く泣いているすがたを見て、そばにいたいと思った。
彼が自分をほどき、私の前ではそんなふうに泣けるのなら、一緒にいたい。
月城先生がつないだ彼を、私が取り留める。巡り巡った星が、月城先生という道標を失った彼を、私の元に連れてきたのなら──
彼の手に手を重ねる。彼は私を見て、泣き咲いしながら手を握り返した。
私がこの人のこれからの光になりたい。一等星みたいに、私は彼のとめどない涙に強くそう思っていた。
FIN