愚かな手

 お酒を作って、楽しくお話しするだけの簡単な仕事です。求人にはそう書いてあったけど、そんなの嘘だった。
 そのまんまの楽な仕事と思っていたわけではない。けれど、テーブルのグラスを細かく見渡し、素早くおかわりを作って、そうしながらしゃべる口も休めてはいけない水商売は、ぜんぜん簡単じゃなかった。
 私は煙草の火や灰皿の交換の気も利かないし、おかわりを作るために重いボトルを手にするのもおぼつかない。こぼさないようにお酒を作っているあいだは無言になってしまうし、席に引き留めるために次から次へと話題も繰り出せない。デュエットするカラオケの演歌も覚えられないし、というか、そもそも客の名前も顔も区別がつかない。
 ある日、店に芸人の客が来たのだけど、私はその客が有名人だとまったく気づかなかった。テレビなんか観ないし、お笑いにも興味がない。しかし、ホステスはそれでは通用しないのだ。
 その客の服や話題のセンスに、特に感嘆せず、どちらかといえば引き攣った笑顔を貼りつけていると、客はみるみる不機嫌になって、唐突に「もう帰ろうかな」と言い出した。
 ここで「えーっ」とか言っておけばマシだったのに、「分かりました、ママに代わります」と私が立ち上がったことで、その男は完全に切れてしまった。
 ママに向かって私への嫌味をたっぷり垂れたようで、もちろんそれは私に跳ね返ってくる。そいつが帰ったあと、「あの人があんなに早く帰るなんて。全部あんたのせいよ」とママは延々と私に説教した。あんなおっさんの芸人知らないよ、と思いつつも、口にはできず、私は「すみません……」と言いつづけた。
 ラストの午前二時まで、ママはちくちく毒づいてきて私は滅入ってしまった。
 もう辞めたいな。辞めようかな。そう思っても、何とか口にするのは思いとどまって、「お疲れ様です」と雑居ビル五階の店をあとにする。
 エレベーターで地上に出ると、歓楽街だけにネオンがまだ残っていて、アフターの客と嬢やホストクラブのキャッチがうろうろしている。ため息混じりにそんなきらびやかな雑踏を縫い、タクシーに乗るほど離れてもいない、ビル街の中の横道にあるマンションに帰ってくる。
 高校を卒業して、すぐこの仕事に就いて、三ヵ月で家を出た。同時に、大学浪人になっていた彼氏の匠哉たくやも転がりこんできた。
 親が来年のために勉強しろとうるさいのを逃げてきたので、私の部屋で匠哉は勉強するわけではない。しかし、口では勉強しなきゃいけないからと言って、働くこともしない。つまり、ヒモみたいになっている。
圭子けいこー。腹減った」
 しかも、家事さえしない。帰ってきた私への開口一番は、「おかえり」じゃなく、そんな言葉だ。ペットのほうが、寂しかった様子を見せるだけ、まだ愛嬌がある気がする。
 それでも私は、「はいはい」とか彼のおかあさんみたいに答えて着替えだけ済まし、シャワーも浴びずに食事を用意する。それを匠哉が食べはじめると、ようやく浴室で煙草の臭いが染みたショートボブを洗い、肌もボディーソープの香りで包みこむ。
 食べ終わった食器もそのまま、匠哉は勝手にベッドに入って眠ってしまっていた。高校時代はもっと優しかった気がするけどなあと思いつつ、私はひとりでごはんを食べる。テレビはないから、スマホで好きな歌い手さんのボカロカバーの動画を流す。
 まとめて食器を洗うと、匠哉の隣にもぐりこんで眠りについた。本来シングルベッドだから、スプリングが苦しげにきしむ。
 この生活つらいなあと思うけど、今の私に逃げ道はない。帰る実家はもうない。絶対帰らない。あんな家、帰るものか。何だかんだ、私がいないと生活できない匠哉に、私もまた依存している。匠哉と生きていけたら、それでいいと思う。
 目が覚めるのはいつも昼過ぎで、たいていは匠哉が軆をまさぐりはじめるからだ。しばらく眠ったままのふりをしているけれど、執拗に愛撫されているうちに声がもれてしまって、「起きた?」と匠哉は私の耳たぶを甘く噛む。「……起きた」と私が腫れぼったい声で答えると、「圭子も触って」と私の内腿に押し当ててくる。
 こんなの、もう愛情じゃない。ただの性欲だ。私はきっと匠哉の母親で、家政婦で、専属の風俗嬢なのだ。
 手と口で抜いてあげると、匠哉は二度寝に入ってしまう。彼はあんまり、私に挿れない。男ってとりあえず突っ込みたいものだと思っていたけど、匠哉は「挿れてもさあ、腰振るのがめんどいじゃん」とか言う。妊娠が怖いのでなく、動きが面倒ってどんな理由だ。
 まあ、私は妊娠したくないからいいのだけど。たまには攻めてほしいときもある。でも、匠哉は私に対して、始めるときの愛撫以外は何かすることはほぼない。
「ケイちゃんは彼氏いるの?」
 お店では、その質問をしょっちゅうされる。「え、いや、いないですけど」と私は答える。そしたら、「やっぱりそうだろうねえ」なんてにやにやされるから、いるよ彼氏くらいと訂正したくなる。でも──匠哉って、実際のところ私の彼氏なんだろうか。
 それでも、水商売を始めて半年が過ぎた。秋の冷たくなった雨の中を小走りに帰宅すると、匠哉は待ちきれなかったのかカップラーメンを食べていた。
「ごめん、すぐ何か軽いもの作る」と私が言うと、「いや、もう眠いからいいや」と匠哉はそのままベッドに入ってしまった。カップに残ったスープの匂いをたどるように空を見つめ、今日はどちらかといえば雨で早めに帰ってこれた日なんだけどな、と息をつく。
 私はルームウエアをつかみ、浴室に向かった。仕事用のスーツを脱いで、熱いシャワーを浴びながら、何か排水が悪いなと思った。そういえば、今週は排水溝の掃除をまだやっていない。仕方ないなあと排水溝を開いて覗いた私は、眉を寄せた。
 詰まらないように敷いているシートをはがすと、黒くて長い髪がかなり絡みついていた。私は茶髪のショートボブだ。匠哉も同じく茶色の短髪だ。
 誰の髪だよ、と気味が悪くなったのも束の間、おそらく女がこの浴室を使ったということは──と気づき、全裸の私はタイルにぺたんと座りこんだ。
 ああ、そっか。あいつ、カップラーメン作ってくれる女と──……
 シャワーも出しっぱなしで、しばしぼんやりしていた。けれど、黙々と排水溝を掃除して、シートを張り替えた。黒髪が重たい剥がしたシートは、ティッシュに包んで洗面所のゴミ箱に捨てた。
 もっと、自分はショックを受けるものだと思ったけど、心は淡々としている。私をもはや恋人あつかいしない匠哉。いつかこうなるのは分かっていたのかもしれない。
 匠哉をたたき起こして責めるなんてしなかったし、しようとも思わなかった。だって、私は匠哉と生きていかなきゃいけない。
 翌日、昼下がりに雨は上がり、出勤のときに傘はいらなかった。ネオンが水溜まりにきらきら映りこむのを追いかけてお店に急ぐ。にぎやかに色彩が踊る歓楽街を歩いていると、不意に眼球がこわばって、目に映るものが白黒に冷えた気がした。その取り残された感覚に、寂しいな、とぽつりと思った。
 ほんと、こんなの寂しい。家族も彼氏も、私を愛していない。家なんか帰るものか。私は彼と生きていく。そんな誓いも、ただくだらない。
 どうせひとりなんだ。そう、私だって、匠哉と生きていくなんて本音では思っていない。私はひとりで生きていく。匠哉と暮らした日々なんて、バカで愚かなものだった。愛おしいから手をさしのべているつもりだったけど、すべて虚しいだけだった。
 ひとりなんだ。私はきっと一生ひとり。
 きっと、匠哉は不意に部屋を出ていくだろう。あるいは、長い黒髪の女の子を紹介してくるのかもしれない。そのときまで、私はやっぱり匠哉に愚かな手を伸ばし、そばにいてくれるようにごまかして、心を錯覚でなぐさめるのだ。
 バカだな。ほんとにバカ。寂しい。愛されたい。ひとりなんか嫌だ。そう思っているのに、私は自分のそばにいてくれる人も見分けられない。仕事も恋愛も間違えて、それでもこのまま生きていくしかない。
 すれちがいざまの誰かの肩が肩にぶつかり、「あ、すみませーんっ」という声とヒールの音が遠ざかっていく。それでいつのまにか突っ立っていた自分に気づいた。
 頭の中には、気が狂いそうな孤独が残像している。けれど、かつん、と私は足を踏み出した。
 平気だ。何か変わるわけじゃない。ほんとに、何も変わりやしないのだ。
 そう思って、今夜も人が渦巻く歓楽街に飲まれ、森の中に迷いこむように私は喧騒に紛れこんだ。

 FIN

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